2026.04.28 Tuesday
今日の朝日新聞夕刊に美術に関わる記事が掲載されていました。「残る手の跡 ぶつけたものは」というタイトルで、彫刻を作っている私自身の気持ちが惹かれる内容になっていました。日本の近現代彫刻史に名を残す舟越保武による「ゴルゴダ」は、特異な作風で知られた具象彫刻です。「表現とは、作者の思いが技量によって造形へと昇華したものなのか。荒々しい手の跡が残ったキリスト像は、そのことを深く考えさせる。~略~舟越は87年1月に脳梗塞で倒れ、右半身がまひ、右手が使えず、視野も右半分が失われたという。入院中から左手でデッサンを始め、5月の退院後は、左手で彫刻の制作を始めた。左手による頭像としては発表2作目にあたるこの作品は、右ほおがえぐれ左右非対称だが、眼窩には怒りや悲しみ、苦悩とともに、慈愛も宿る印象がある。何より荒々しい手の跡が生の格闘のようなものを感じさせる。本人は『病気で苦しめられて、精神的にある意味で浄化されてきれいになった気がする。(中略)気持ちをぶつけて粘土が形になった』と語ったという。~略~表現と作者の思いをつなぐものは、何なのか。創造の本質を考えざるを得ない。キリストの姿がここにある。」(大西若人編集)彫刻作品の根底に流れる精神性を伝える文章で、敬虔なキリスト教信者であった作者の情熱が、私の心までも熱くしてくれたと思っています。半身不随になった作者の目には何が見えていたのでしょうか。神の存在でしょうか。それを制作に体力も手間もかかる彫刻を選んだのは何故でしょうか。「浄化されてきれいになった」という作者でなければ辿り着けない心境になって、愈々キリストに近づけると感じたのでしょうか。私は作者の強靭な精神性を導いた宗教にも興味を持ちました。近々私は東京の美術館にルオーの絵画を見に行こうと思っていて、その折にも宗教と創作活動について考えてみたいのです。私には今一つ理解が及ばない世界がそこにあると思っています。
2026.04.27 Monday
「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第5章 海獣たちの変貌」の気に留まった箇所を取り上げます。まずケートスという海獣を取り上げます。「ケートスの図像化の歴史はきわめて古い。紀元前650年頃からギリシャ美術に登場する。海神ネレウスの娘ネレイスらの乗り物として、あるいは姫を襲う怪物として。人身御供として怪物に喰われる運命だったトロイの姫へシオネやエチオピアの姫アンドロメダの物語で、英雄ヘラクレスやペルセウスに退治される怪物こそケートスに他ならない。アンドロメダを襲うのはドラゴンではなかったかと思われるかもしれないけれど、それはずっと後、ルネサンス期絵画で描かれたアンドロメダ物語の印象がつよいからである。当初の怪物はケートスだった。~略~中世でもカロリング期までは、竜の形態はきちんと定まっていない。それはときに蛇として、ときにケートスとして描かれていた。しかし、ロマネスク期に状況は一変する。竜は定型化されていき、現代の私たちにもおなじみのかたちをもつようになったのだ。~略~中世のドラゴンの起源を中国の龍に、あるいはメソポタミアや中東から伝播した怪物の形象に求める説は根強い。とくに19世紀半ばから20世紀はじめにかけて、東方からの影響が力説されたのだけれど、その背景にはオリエンタリズムの隆盛があったことを念頭におかなければならない。~略~そもそもケートスと竜は、古代においても近しい関係にあった。先に挙げたオグデンの研究でも、ケートスは竜の仲間に数えられている。その幾つかある理由のうち、もっとも説得的な理由は、ヘシオドスの『神統記』がケートスをギリシャ神話のドラコーン類の始祖としていることである。また、英雄に倒される竜蛇の類とケートスの伝承には重なる部分が多く、物語の構造と主題においてケートス伝承との混淆が明らかな例もある。」今回はここまでにします。
2026.04.26 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、今回は趣向を変えて、今日の新聞記事より季節満載の話題を取り上げます。「(漫画家でエッセイストの東海林さだおさんが)今月、88歳で亡くなった。週刊朝日の連載『あれも食いたい これも食いたい』では、40年近くあらゆる食べ物を取り上げた。独特のオノマトペとともに、誰にも身近な日常を紡ぎ続けた。原点には幼き日の飢えがあった。戦中に東京から山梨に疎開し、戦後も栃木で暮らした。主食はすいとんやサツマイモばかり。春になれば、おかずは朝から晩まで裏山から採ってきたワラビだった。『いつもおなかをすかしていましたね』と取材に答えている。春の味覚のなかでも好んだのがタケノコだった。魅力は、えぐみとともに、節の間に詰め込まれた『山里の竹林の空気』だと。そこには、少年の頃の追憶も混じっていただろう。連載でも、竹林に生えているタケノコをそのまま焼いて食べる『地獄焼き』を取り上げた。我が家近くのスーパーも、この時期は青果売り場の一角を春の恵みが占める。タケノコは福岡、タラノメは新潟、ウドは群馬。みな質素だが、精気に満ちた顔ぶれが集う。東海林さんに倣ってタケノコをゆでた。米ぬかとともに小一時間、台所に土の香りが漂った。」これは「天声人語」の記事で、政治色がない内容に私は思わず気を留めてしまいます。我が家にも亡父が残してくれた山林に僅かばかりの竹林があって、タケノコが出ています。近所の人たちがタケノコ掘りにやってきて、それを我が家にも分けてくれます。スーパーで売られている調理済みの食品とは違い、自然の恵みを口に運ぶまでは大変な手間がかかると家内は言いますが、自然から採れたばかりの青果は格別な味がするもので、それだけで食事が進みます。日本は四季によってさまざまな味覚が味わえますが、最近の気候変動の影響によって、この四季の味覚をずっと守り続けていけるのか甚だ心配です。そんなことも頭を過る昨今の事情です。
2026.04.25 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週も相変わらず毎日工房に通い、制作中心の1週間でしたが、今週は水曜日と木曜日の午後は美術館や映画館に出かけました。制作では壁に掛ける新作に貼り付けるコラージュを作成していて、それは文様を刳り貫いた杉板を炙って炭化した状態を作り出すのです。細かいところまでガスバーナーで炙っているので、なかなか時間がかかります。燃えて無くならないように注意を払って炙ります。さらに金ブラシで余分な煤を払って、布で残りの煤を杉板にこすりつけています。火を使うので常に野外で作業を行なっていました。これを絵画として扱うのは考えにくいのですが、コラージュの下地は油絵の具による塗装(描写)を考えているので、分類で言えば絵画になるのかもしれません。そんな制作を1週間続けていましたが、今週の印象的だったことは美術と映画の鑑賞に出かけたことでした。水曜日は東京の上野にある国立西洋美術館で開催している「チュルリョーニス展」に行き、リトアニアで20世紀初頭に活躍した画家の作品に触れてきました。画家は音楽家でもあり、音楽に触発された作風は抽象性があって興味を抱きました。ギャラリーショップで購入した本展の図録が瀟洒なデザインになっていて、とても気に入りました。木曜日は横浜シネマリンというミニシアターに家内と出かけていき、「ホールディング・リアット」を観て来ました。これはイスラエルとパレスチナの複雑な問題を描くドキュメンタリーで、不安定な未来が浮き彫りになる社会的な課題を突き付けられました。日本人である私たちは、中東の民族性や宗教に纏わる問題になかなか理解が追いつきませんが、人質として連れ去られた家族の苦しみにやるせない思いが湧いてきました。そうした問題は国際的に広まって、現在でも続いています。最近は平和と言う言葉をあまり聞かなくなりました。これから世界はどうなっていくのか、日々の世界情勢に耳を傾けながら、つい快いスポーツニュースに気を留めてしまう自分がいます。
2026.04.24 Friday
「ロマネスク美術革命」(金沢百枝著 新潮選書)の「第4章 かたちの自由を求めて」の気に留まった箇所を取り上げます。「アーチや側柱に彫刻がほどこされると、華麗さはいっそう増幅された。さらには、扉口が聖と俗の境目であること、つまり聖域である堂内と俗界である外部とを分かつ特別な場であるという、ファサードの象徴的重要性が鮮明に印象づけられるようにもなった。~略~ロマネスク的な身体はねじれ、よじれ、そして歪む。ときに長く引きのばされ、ときにコロコロ丸くなる。自在に変形するのだ。この歪み、あるいはこのかたちの自由を、どう捉えればよいのだろうか。代表的な通説はふたつある。ひとつは、『枠組みの法則』。格組みの法則に従うと、建築部材のかたちを優先させるため、図像の形態には一見すると不自然な、いわば非写実的な変更が加えられる。~略~もうひとつは、いわゆる『隙間恐怖』である。聖堂の扉口に立ち、テュンパヌムを仰ぎ、そこにびっしりと隙間なく入り組んだロマネスク彫刻を見ると、たしかにそう言いたくなるかもしれない。~略~ロマネスクの彫刻家は現実世界の再現に重きを置いていない。もっと自由に、あるいは伝えたいことを的確かつ効果的に伝える術を、彼らは模索していた。キリスト教の教義とは限らない。恐怖や喜びなど、原初的な衝動を覚醒させるような喚起力のあるイメージを求め、それを見事に彫琢してみせた。」ロマネスク美術ではイニシャル装飾も見られます。「島嶼系写本で一般的だった文字を飾るという習慣と、古代以来の再現芸術との融合によって生じたイニシャル装飾の変容は、ロマネスク期に植物から生き物や物語へと刷新されていった柱頭彫刻の変容過程と重なっている。~略~記号であり情報の一部である文字と、建物を支える部材の一部である柱頭やテュンパヌム。そこにほどこされた装飾と像には、どちらも聖なる世界と俗なる世界、抽象と具象の境界にあって人々の目を引きつける機能があり、そしてその役割を十全に果たしている。『枠』との微妙な緊張関係の上に成り立つ動的なエネルギーこそ、ロマネスク美術の真髄と言ってよい。」今回はここまでにします。