Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 新作陶彫の焼成第一歩
    私が長年作っている陶彫作品の面白さは、制作工程の最終に控えている重要な工程である焼成、つまり窯入れにあります。これは面白味がある反面、大変やっかいな工程で、窯に作品を入れてしまえば手が出せない状況があるからです。他の素材であるならば、作品の最終仕上げに至るまで手中で完成させることが出来ます。陶彫の仕上げは窯内の炎神に任せることしか出来ません。それがやっかいでもあり、面白くもあるのです。陶彫は最後の最後に手仕事と距離をおく工程があり、窯から出てきた作品は、自分が作ったとは思えない風貌で、私の目の前に姿を現わすのです。以前、NOTE(ブログ)にこの陶彫の風貌に対して鎧を纏った姿と例えました。私にとっての面白味はここにあります。逆にやっかいなことは、高温で焚くために陶土が石化し、罅割れなどの破損が生じることにあります。これを防ぐために成形の段階から厚みを一定にしたり、カタチの内側を空洞にしたり、穴を開けるにも乾燥で陶土の表面が引っ張られることがないように穴の位置を考えたりしています。轆轤で挽く陶芸に比べると、陶彫は焼成には無理なカタチをしていて、乾燥によって表面が上下左右に引っ張られ、罅割れが頻繁に起こり易いのです。それを最小限にするのが長年のテクニックですが、私は何年もやっているくせに初歩的な失敗があります。とりわけ、新作の成形と彫り込み加飾が終わり、乾燥が進んで仕上げや化粧掛けを施し、さて、これから窯入れをする段階になると、新作は本当に大丈夫だろうかと、私は自分を疑いたくなります。陶彫はカタチを優先するため、割れにくくする技能は二の次なのです。新作の形態に慣れてしまえば、複数作る集合彫刻ならなおのこと、事前に予防を施すことは難しいことではありません。だからこそ新作の最初の作品の窯入れに緊張が走ります。今日はその日でした。明日は窯で焼成中のために工房内の電気は使えません。家内と美術館にでも行こうかと話しているところです。
    「抽象絵画の主流 」について④
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」は長い論文になるので、NOTE(ブログ)には分割して、留意した文章をピックアップしていきます。本章には抽象絵画の先駆者たちが登場し、ひとり一人の世界観を論述しています。今回取り上げる画家はセルジュ・ポリアコフ、ジュゼッペ・サントマソ、ニコラ・ド・スタールの3人です。まずポリアコフ。「ポリアコフのあらゆる絵からは、欝積した激しさを持つ大気が発散している。それは、鉱物の重みの奥の中心の火を思わせずにはいない。秘められた豊かさでますます満たされた単純さを追求して、この作家はひとつの表現形式に向かう。それは、強烈なポエジーを孕んだあの無言の表面を見つめる人に、ぐいぐいと自分を押しつけてくる。これらの絵のなかに含まれている時間の要素は、絵のなかであまりにも本質的なものになった結果、空間の要素を絵から除いてしまう。むしろ、空間が時間になっているのである。」次にサントマソ。「具象形態を捨てながらも、生活に、ときには現実の形態にきわめて接近しているかれ(サントマソ)は、自分の芸術に、動く力の持つ逞しさと激昻とを与えた。そして、作品が熱烈な生気を得て、《衝撃を総合するもの》になるのを好んでいる。合衆国のデ・クーニングとポロックに代表されているアメリカ人のいわゆるアクション・アートに、イタリアでもっとも近いのはおそらくかれだろうが、かれの場合、純粋な本能はフォルムへの意志によって調整され、是定されている。」最後にニコラ・ド・スタール。「形や色彩の単純化に、もっと厳格で、もっと構成的な意志のあるのはニコラ・ド・スタールだ。かれには、ある苦行的な時期があったが、その頃の分厚いマティエールや、極度に控え目なフォルムに加えられた、暗く鈍い色彩は、精神が本質的なものの探究に集中されていることを物語っていた。かれのいくつかの絵に見られるのは、アフリカあるいはポリネシアの住民の荘重で悲劇的な芸術を思わせた。そこには、峻厳さの美学に対応した、思考と感情の強烈な凝縮があった。」今回はここまでにします。
    週末 創作する空間の範囲
    日曜日になりました。週末には創作活動について述べさせていただいています。私の代表的な彫刻作品は集合体によって完成するものが多く、単体のものは僅かしかありません。集合彫刻は、陶彫部品を組み合わせて巨大化するものもあれば、陶彫部品を点在させて場を創出するものもあります。場の創出は、亡父が生業にしていた造園の影響が、私のどこかに眠っているようで、庭園のようなイメージが頭を過ります。庭園は、庭石や樹木や芝生、さらに生垣や池の造成といった構成要素を盛り込み、日本古来の伝統に支えられた美学が存在していると私は考えます。私が行っている彫刻は、明治時代に西洋からその概念が入ってきたので、私たち日本人にしてみれば、庭園に比べて彫刻の歴史はまだ浅いと言わざるを得ません。勿論、世界的に見れば彫刻の歴史は古く、彫刻を定義する以前に遡れば、先史時代から存在する表現方法です。私は自分で決めた空間範囲を設定し、そこに立体を点在させて場の空間を演出するのは、個展の常套手段になっていますが、庭園も場を区切ってその内部空間を造成していると考えると、彫刻にしろ庭園にしろ創作する空間の範囲がある以上、構成要素が違うだけで見せ方としては同じなのだろうと思います。ただし、彫刻は四方八方から見渡せるのに対し、庭園は庭石や池を樹木が覆い隠し、その隙間から風情を鑑賞するのです。2020年2月27日付のNOTE(ブログ)にこんな一文があります。「庭石の肌や見え方に従って石を置く位置を少しずつ変えて、石と石の関係性を大切にする、また植木の枝ぶりを見て向きを決定する、そんな父の指示によって、若い職人たちと半端職人の私は力を振り絞っていました。何のためにそんなことをするのか、これは風景の模倣であり、象徴化された自然を再現することにあるのです。己の造形的主張より自然との融合を優先する考え方は、まさに『断定的主張の欠如』なのだろうと思っています。」これはイサム・ノグチの伝記にあった箇所を参考にして書いたもので、亡父が言っていた庭園の考え方を思い出しました。庭園は風景の模倣であっても空間範囲は決まっています。彫刻も同じですが、その意図がなければ、作品を覆い隠すことはありません。彫刻は自然の再現ではないと言えます。
    週末 残暑厳しい1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。毎朝9時に工房の扉を開けると、サウナのような暑さが私の身体に纏わりつきます。窓を開けても、外気は室内と変わらず、1台しかない大型扇風機も熱風を搔きまわすだけで、涼風は一向にやってこない状況です。9月の半ばになっても真夏と変わらない高温多湿で、陶彫制作を始めるには陶土がすぐに乾燥してしまうために、霧吹きスプレーで水をかけながら作業をしています。その代わり乾燥場所に置いてある陶彫作品の乾燥は早く、あっという間に白っぽくなります。今週初めには制作時間を少し長めに取ろうと思い、いつも通りの午前9時から午後3時までと決めていましたが、熱気が室内に籠りがちな夕方の気温が身体に応えるため、3時を待たずに終わる日もありました。創作活動は夢中になると気温のことを忘れてしまうこともありますが、滴る汗で頭に巻いた手ぬぐいやシャツがびっしょりになるため、気持ちがゾーンに入ることはありませんでした。ただし水分補給を忘れないように気をつけていました。冷蔵庫に入れた冷たい水を口に含むと身体がふと軽くなるのが不思議です。トイレが近くなることもあり、これは汗だけではなく、冷水を飲んで身体から尿をだすことで、身体が一定の温度を保っているのではないかと考えるようになりました。身体には冷却装置が備わっているのかもしれません。ただし、汗をかきすぎると疲れます。作業を終えて自宅に帰ってくると、エアコンの下で身体が動かなくなるからで、私は疲労回復に時間がかかります。これは若い頃と回復時間が違うことを私はつくづく自覚しました。若い頃は教職との二束の草鞋生活があったために、私は何もしない時間が2時間以上もあることが許せなかったのでしたが、現在はボンヤリとしている時間が緩々と過ぎていきます。今日も工房に行って、あれだけのことをしたのだから良しとしようと、妙なところで納得をしている自分がいるのです。
    「抽象絵画の主流 」について➂
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」は長い論文になるので、NOTE(ブログ)には分割して、留意した文章をピックアップしていきます。本章には抽象絵画の先駆者たちが登場し、ひとり一人の世界観を論述しています。私自身が浅学のために知らない抽象画家が多いのですが、その都度調べてから文章を引用しています。今回はシュネーデル、スーラージュ、アルトゥングの3人の画家を取り上げます。まずシュネーデル。「詩人と同じように、画家にとっても、他人に伝えることができるのは、語られる可能性のあるものだけである。シュネーデルの浪漫的な情熱や根源的な不安や、またともに創造につながる苦悩と喜びとの入りまじった混淆の激流は、生気に満ち、劇的で、精神を高める、美と力の豊満へと、絢爛たる様子で、ひろがっていく。浪漫派と同じく、シュネーデルは原始の自然の大きな秘密のいくつかを、またたえざる運動によって動いている、根源的なエネルギーのいくつかをとらえ、屈服させたのである。」次にスーラージュ。「かれには、鋭く堅固な描線の本能と、この描線そのものにもっとも有効な表現要素を見いだすドラマティックな性格とのあいだに、一致が認められるが、黒と茶を地味に調和させ、悲劇的な運命がその大きな飛翔の跡をとどめた情熱的な建築を建てるスーラージュの才能の本質をなすものは、とりわけ、この一致である。特にかれのデッサンでは、感動が、記号や象徴にまで達することがある。これは寓意的、あるいはまたアルファベット的な単純化によるのではなく、この記号が、中国やアラビアの書と同じく、感動の状態に化した事物の形態そのものだったからである。それは、具象ではなく、情感の発露したものなのだ。」最後にアルトゥング。「『えらばれた芸術家というものは、根源的な力がすべての生成現象に養分を与えている、あの秘められた場所の領域までつき進んでゆくもののことだ』とパウル・クレーが言っている。アルトゥングはそういう芸術家のひとりなのである。《秘められた場所》とは、まだ噴火する勢いを秘め、重い物質をふきとばして、純粋な激情になっている岩や溶岩の不気味に厚い地層をくぐり、濾過されてきた、未知の原動力から噴き出した奔流が、ぶつかり合い、せめぎ合っている場所のことである。この濾過によってはじめて、かれの内部で煮えたぎり、混乱した表現主義的なドラマが、ギリシャ悲劇に似た簡潔な、しかも胸に迫るなにものかに変形されるのだ。」今回はここまでにします。