Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 24’個展の閉幕&搬出日
    今年の個展の最終日になりました。11時のオープンの時から多くの人が来ていただいて、今年は盛況のうちに幕を閉じることができました。関東地方は梅雨明けが発表されて、今年も大変な猛暑になる気配ですが、そんな暑さの中でも横浜から多くの知り合いが銀座へやってきました。ギャラリーせいほうでの個展も19回目となり、毎年私の作品を見て、私の一貫した姿勢を感じ取っていただけている方や、久しぶりにお会いして懐かしい昔話に花を咲かせる方がいらっしゃって、今年も個展を開催した意義は充分にあると思いました。お一人で来廊した最高齢の人は95歳で、私の教職での大先輩であり、彼も長年校長職にいたので、私の目指す目標にさせていただいていました。彼は文筆家で、作家中島敦に関わる書籍を執筆しております。彫刻家や学者だけではなく、そうした先輩たちに支えられて、私はここまでやって来られたと実感しました。私の造形世界はまだまだ継続していきます。ギャラリーから来年も個展を企画していただけることを約束されたので、私は引き続き自分の課題に向き合うつもりです。搬出は運搬業者3人、スタッフ6人、加えて家内と私の総勢11人で、陶彫作品の木箱への収納作業、RECORDパネルの梱包作業を行いました。今年は例年より人数が多く集まってくれて大変助かりました。18時に閉幕し、そこから2時間は梱包にかかると考えていた私は、その半分の時間で済んだことに驚き、皆に感謝しました。19時過ぎに銀座をトラックと乗用車2台で出発し、首都高速も渋滞がなく、横浜の工房に着いたのは20時過ぎ、荷物を工房に積み上げて搬出作業は終了しました。スタッフたちにお礼を兼ねて夕食をご馳走し、それぞれの自宅の近くまで車で送りました。今年も個展が終わって、ある意味私はホッとしました。また今後も頑張っていこうと思っています。
    彫刻家の師匠が来訪
    東京銀座のギャラリーせいほうの個展に来訪される方々には、昨日のような考古学者の叔父がいたかと思えば、今日は彫刻家の師匠がやってきました。師匠からは予め連絡が入っていたので、私は多少緊張して待っていました。彫刻家池田宗弘先生は真鍮直付けという技法を駆使して、人物や猫などを作り続けている人です。その技法の効果で立体作品に量感がなく、まさに空間造形と呼ぶに相応しい構造体が丸見えになっている彫刻です。ジャコメッティのようで、それも風景を金属で線描していて、軽やかで風に吹かれるような立ち姿をしていますが、その存在感はそんな軽薄ではなく、インパクトはかなりあると私は思っています。私が大学に入学した頃、東京都美術館で開催されていた毎日現代美術展に出品されていた池田先生の「ああ‼なんという生き方」という作品は、痩せてボロボロになった猫たちが、餌の魚の骨を狙って四方八方から近づいてくる情景を真鍮直付けにしたもので、私は衝撃を受けました。具象彫刻は写実でなければならないと思っていた私は、腹に穴の空いた猫たちを見て、リアルとは何だろうと考え込んでしまったのでした。まさに空間芸術たる表現、それが心に刺さった私の彫刻観になったのでした。池田先生は今も創作に妥協をしない姿勢を貫いています。当時、ギャラリーせいほうでの池田先生の個展の手伝いをしたことが契機になって、現在の私が在るのです。池田先生の主張は昔と変わりません。久しぶりに師匠に会って話を伺うと、自分の原点が見えてきます。余計なものを剝ぎ取って、自分が主張するものを提示する、それは今もライフワークにしている池田先生の隠れキリシタンの調査にも通じているように思いました。現在の池田先生はキリスト教信者で、自ら獲得した空間芸術たる表現も宗教的なテーマに向けられています。私は物語性を排除した空間芸術たる表現を推し進めていますが、師匠とは異なるテーマも認めてくれる、師匠の度量の大きさに嬉しさを感じているのです。
    考古学者の叔父が来訪
    東京銀座のギャラリーせいほうでの個展には、連日いろいろな人がお見えになって、私の作品に感想を述べていきます。私としては嬉しい限りですが、真摯に向き合わなければならないご意見もあります。今日は古代中国史を専門にしている量博満叔父がやってきました。叔父は90歳を迎える高齢者のため、例年は娘(私にとっては従姉妹)に付き添われて来廊していましたが、今日は一人で公共交通機関を使ってやってきたのでした。耳が遠くなり会話をするのが大変な叔父ですが、私は叔父とお互いの専門分野について話がしたかったので絶好の機会になりました。叔父は若い頃から中国の学者と連携して、大陸の発掘現場で仕事をしてきました。日本では上智大学で長年にわたって教壇に立ち、現在は名誉教授になっていますが、そもそも考古学者として発掘されたモノに洞察を与えて知識化していく以前に、その文様の意味するところに仮説を立てて考察することに研究の重きを置いているようです。私の作品に触発されて、渦巻文様に対し叔父独自の論理をもって、詳しい解説をしてくれました。古代人の描く世界は混沌としていて、その中から形態が生れてくるのですが、宗教性を帯びた原初の形態に見られる文様は、現在の叔父の興味関心の対象で、とりわけハート型の文様を縦割りにした曲線文様に何か意味を見出そうとしていました。これ以上私がここで書くことを控えますが、私が感じたのはこの高齢にして叔父の研究は、延々と継続し、また深みを増していくように思えました。ヨーロッパ文明との比較も叔父の発想にはあるらしく、私も彫刻という概念を学んだのはヨーロッパ教育としての人体塑造からで、私はヨーロッパを去る時に自分の中で一旦形態を無にして、そこから立体を考え始めたことを思い出しました。叔父の講話から私自身の創作に対する振り返りもあって、今日は貴重な時間を過ごしました。博満叔父の兄はカント哲学者の義治叔父で、私は彼と哲学の話をしたかったのに、自分の浅学ゆえに義治叔父とロクな話もせず、義治叔父は他界してしまいました。悔やまれてならないので、今度こそ博満叔父の研究を少しでも理解していきたいと私は願っているのです。
    「抽象芸術の本質と性格」について➀
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅰ 抽象芸術の本質と性格」の前半部分について、気になった箇所をピックアップいたします。「抽象絵画のなかに、キュビスムの場合のような現実の物体のデフォルマシオンや様式化を探し求めることはまったく無駄である。抽象の過程と様式化の過程とはまったく無縁なのだ。キュビスムは現実の物体の上に細工をする。一方、抽象芸術は物体を、消去するか、または感動として、あるいは作品に始動を起させるショックとしてこれを受け入れるにすぎない。~略~キュビスムを抽象芸術の先駆者だとか、類縁だとか考えてはならない。キュビスムは単に抽象の芸術のひとつの現われにすぎず、いわゆるアプストレはその出発点でも到達点でもないのである。壜から円筒をつくろうと、円筒から壜をつくろうとーなぜならキュビスムの方法を大ざっぱに要約すればこうなるからだがーこのふたつのやり方でつねに問題になるのは、物のさまざまな扱い方であって、物そのものはつねに目の前に在るのである。そしてキュビスムがむなしい形骸をさらし、さらにみずから守ろうとした厳格な法則をもあまりにあっさり放棄したのは、物がキュビズムの支えであると同時に限界であり、さらにまたキュビズムを誘惑してやまないものだったからにほかならない。」これはキュビズムの発展の先に抽象芸術があると考えるのは間違いと指摘した箇所です。「抽象芸術が具象芸術にくらべて、それを見る者からずっと多くの努力を要求するということは疑う余地のない事実だし、これこそ具象芸術の場合に昔から存在していた作者と鑑賞者のあいだの交流が、いまだに抽象芸術家と公衆とのあいだで達成されていない理由でもある。抽象芸術は公衆にいっそう多くの知性を要求する。なぜなら抽象芸術はすでに自然の存在している形態とは似ても似つかぬ形態を提示するからであり、またこの未見の形態、つまり他のものを想起させるいっさいの手がかりや、《具体物》とよばれるものとのあらゆる照応関係を断たれたこの形態は、ありのままそれ自体として経験され、理解されねばならないからである。」今回はここまでにします。
    「抽象芸術」を読み始める
    私が読みたいと思う書籍は、新刊本の書店にはなく、美術館のギャラリーショップか、古本市で掘り出し物を見つけるしかないと思っています。私の趣向は時代遅れなのかもしれず、それでも自分自身の創作活動の思索を裏付ける書籍を探しているのです。本書「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)は横浜駅近くの古本市で見つけました。1959年初刊なので、私が3歳の時に発刊された書籍です。紙も変質し黄ばんだ書籍を手に取った時に、「抽象芸術」の概念を一から考え直してみようと私は改めて思いました。「『抽象芸術』という言葉は、たとえば『バロック芸術』という言葉が虚辞的であるのとまったく同様に虚辞的な表現だということを認める必要がある。これは、ただ言葉が必要だからという理由で、非常にさまざまな意味をもつ作品群につけられたレッテルなのである。『抽象的』という言葉と、(表面的には)その反対である『具体的』という言葉との語義のせんさくを始めようとすれば、はてしない議論にまきこまれることは必至である。~略~抽象という現象は芸術の創造過程のうちにあり、人間精神の恒常性に属するものである。これはあまりにも明白なことだから、美術館の各部屋をぶらつくだけではっきりわかるだろう。創造衝動の二つの根づよい傾向、つまり、発明と再生産との二つの傾向がそこに示されており、そのうちのどちらかが支配的であるにしたがって、ある時代、ある国の芸術は具象に傾き、あるいは非具象に傾くのである。」こんな文章が数頁を捲ってみると掲載されていて、私自身改めて考え直そうとしている「抽象芸術」の概念に、本書は微に入り細に入り応えてくれそうだと思いました。本書をじっくり腰を据えて読んでいきたいと思います。