2024.04.05 Friday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「詩と実在」は詩的な文体で綴られた単元で、どこを切り取っても密度のある内容に圧倒されますが、私は敢えて2箇所を選抜してピックアップさせていただきました。「詩は絶対を方向したように見えた。つねに絶対は方向から隠蔽するように見えたにもかかわらず。しかし詩における絶対の探究のなかには実在性がいつか結合されているのに気づく。詩はユニークな無、あるいはそれを必ずしも二元的な立場からではなくて、論理的に無詩ということのできるものから出発することは真実である。ぼくはぼく自身で定義したいのだが、無はいつも超感覚的であり、超存在的である精神をもっている。詩は文学上の他と同じような一形式にすぎないと誰れしも信じさせられながら、詩は反存在であるという明白な確信を同時に抱かされた。」瀧口修造は評論家であると同時に詩人でもあり、この「詩と実在」は我が家の書棚にある「瀧口修造の詩的実験1927-1937」(思潮社)に掲載されていました。「いわゆる言葉の錬金術がいかに中世的な趣味と人生観に満ちているかは今日明白な事実であるが、それが文学とくに詩的形式と呼ばれるものの多くの詩人に対する致命的な陥穽となっているにもかかわらず、詩に対する、または少なくとも作詩に対するひとつの信仰が継続する限りにおいて(あるいは詩的形式を単に世襲財産として尊重している限りにおいて)、それは今日もなお多種多様な変形として存在するのである。しかし言葉のもつ正確な制限はきわめて重要である。この内部には言語作用に対する正確な処理、したがって表現形式の範囲が規定されるだろうからである。」詩をいかに考えるか、言葉の表現に対する詩人の真摯な姿勢を感じ取れる箇所だと私は思います。
2024.04.04 Thursday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「ダダと超現実主義」について後半部分の気になった箇所をピックアップいたします。「ダダはあらゆる形式を廃止しようとして、ほとんどそこに犠牲のなにものをも思考しえられない運動を開始するのである。この運動は完全に接近するにしたがって、いよいよ『無』を代表する一体系を創造する。あらゆる現象を無視した運動の方向は先天的な存在を暗示する。」私はダダイズムの当事者ではなかったため、なかなか思考的にもイメージできないのが正直な感想です。「象徴主義は全能力を秘密の表現あるいは仮想にそそいだのに対して、超現実主義はそれの分析、露出等、無意識界の探究に関するあらゆる複雑な心的運動を展開した。フロイトの精神分析への興味はその結果である。彼らが現実に対して超現実と呼んでいる夢はたんに対象として現実へ付加したものではない。夢は客観的な組織体として現実に対立している。この夢の現象はおそらく人間の原始時代においてすら神秘の創造として、意識に反映したであろう。」フロイトの「夢判断」は現代精神分析学では古典の範疇ですが、私はこれを読んで、夢と超現実に思いを馳せた時がありました。さらに論考が進んで、ある詩人に紙面を割いた箇所がありました。「与えられた精神の状態としての超現実主義はルイ・アラゴンにおいてもっとも自由な詩的運動の範囲を供給した。彼は唯一の形而上学者である。しかし彼の理性は先天的結晶のそれである。彼はかく告げる時をもつ。『ぼくの関心事は形而上学である。白痴ではない。そしてけっして理性ではない。理性を持つことはぼくには極めて少量の関係があるだけである。ぼくは具象を求める。なぜぼくが話すかの理由である。人びとが言葉の条件や、表現の条件について論ずるのをぼくは認めない。具象はポエジー以外の表現を持たない。人びとがポエジーの条件を論ずるのをぼくは認めない。…』(『パリの農夫』)そして『具象、それは描写不可能である』ともいう彼の詩には純粋な官能の時間のみが流れる。」私は既存の知識をもって、超現実主義をある程度把握しているために、アラゴンの詩にも腑に落ちる部分がありますが、予備知識がなければ、超現実主義はかなり難解ではないかと察します。
2024.04.03 Wednesday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)には著者の「覚えがき」があり、そこには「この本は、1930年から1940年までに、主としてシュルレアリスムについて、または多かれ少なかれその影響下にあった時期に書かれたものを集めたものである。」とありました。それは私がまだ生まれていない時代で、若き瀧口修造が欧州で興った新しい芸術の潮流を血気盛んに取り入れて論じ、文章そのものが溌溂とした趣向に溢れていると感じました。「ダダは否定と肯定との同時的論理家である。たとえばトリスタン・ツァラの宣言書はあらゆる既成状態への否定意志の結晶であると同時に、その態度は高貴な論理によって、ひとつの精神構成によって飾られている。抽象的な極大な否定はひとつの純粋な肯定に到達するということがいわれないであろうか。ダダにおいて、反語は、ひとつの独特な真理を有している。」ダダイズムが既成の概念を壊していく行動の時代を私は知らず、先輩の芸術家たちの記録でしか、時代遅れの私は調べようがなかったのでした。ただ、変革の時代に立ち込めていた空気を私は理解しようと努めていました。「超現実主義が認めた夢はけっして現実的な生理的な夢ではない。人間の精神が証明の影の馬のように駆ける霊感の夢である。超現実主義の功績は霊感の範囲を拡大したことである。人間性の底知れぬ深さにまで彼らの想像の光線を導きつつあることである。超現実主義はその精神において、現在における現実上の倫理観念、社会観念、芸術観念を認めないであろう。それは現実に対する永遠の革命、純粋な人間精神の発露の関する限りにおいてである。」ダダイズムからシュルレアリスムに発展する時代の変遷が多少落ちついてきた頃に、私は芸術の門扉を叩いたので、こうした宣言文にある若く猛々しい叫びを、私は直接被ってはいませんが、先輩諸氏の足跡だけは前衛作品を扱うギャラリーで見ることはありました。美術史の一幕として収める前に、もう一度原点を振り返る必要があるかもしれないと感じるこの頃です。
2024.04.02 Tuesday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)を読み始めました。本書は1978年に発刊されたもので、横浜駅の古本ワゴンセールの中から見つけました。自宅の書棚に「瀧口修造コレクション」(みすず書房)があり全巻揃えようとして、実は第7巻「シュルレアリスム」の一冊が欠落しています。私は一気に全巻を購入することはせず、1巻ずつ読みながら揃えていく癖があるため、これは瀧口全集だけに限らず、その他にも全巻が揃わない全集が数多くあるのです。全集と言えば中学校入学時に母親から百科事典を贈ってもらいました。全巻揃っているのはこの百科事典くらいで、職人家庭だった実家には、まともな書籍がなく、読書好きだった私に母親がプレゼントしてくれたのでした。それからというもの私は興味のある作家や評論家の全集をコツコツ集め出したのでした。瀧口全集は、私が教職に就いてから集め出したもので、学生時代から関心のあったシュルレアリスムについて系統立てて学習しようと考えたのでした。その頃、第7巻については問い合わせもしましたが、結局手に入りませんでした。古本で手に入れた本書は第7巻の埋め合わせになるかもしれず、改めてシュルレアリスムについて瀧口修造の評論を紐解こうと思います。私はアンドレ・ブルトンを初め、さまざまな機会にシュルレアリスムに関する書籍を購入し、また展覧会に出かけています。最初の頃に手に入れた「シュルレアリスムと絵画」(瀧口修造・巌谷國士監修 人文書院)の冒頭の一文「眼は野生の状態で存在する。」が妙に記憶に残り、そこから私のシュルレアリスムの遍歴が始まったと言ってもよいと思います。先日まで読んでいたバロック時代の宗教画に関する書籍から一転してシュルレアリスムになり、多少なり日常に戻った感じを私は持っています。
2024.04.01 Monday
今日は4月1日で、新年度へ変わる日です。私は教職にいた時の習慣で、4月1日になると特別な思いが去来します。教職にいた時は転勤が決まり、私は新しい学校へ赴任したことを今も思い出します。大手新聞社が昨日の新聞で、神奈川県内の教員の人事異動を掲載していました。他の都道府県では早い時期に人事異動を知らせていることがネットにありましたが、神奈川県は従来から3月最終日に人事異動情報が新聞に挟んでありました。気持ちが左右されるのはそんな習慣に、私が今も囚われているせいかもしれず、逆に言えば、ここで私自身生まれ変わったつもりで頑張っていくとすれば、新年度は有効な時間の使い方が出来るかもしれません。実際に私の一区切りは7月個展です。個展に向けて精魂傾けていくのが4月の創作活動の在り方だろうと思います。まずは陶彫制作を精一杯やっていくつもりです。勿論見たい展覧会もあるのですが、陶彫制作の具合で決めていく予定です。一日1点ずつ作り続けているRECORDも夜の時間帯を有効に使いたいと考えています。読書も続けます。次に読む書籍は、最近横浜駅でワゴンセールをやっていた古本の中から購入した美術の専門書に挑戦しようと思っています。専門書と言っても私にとっては手の内に入るようなものなので、気楽に考えています。先日、東京では桜の開花宣言がありましたが、横浜の開花宣言は今日でした。工房周囲の桜はちらほら咲き始めているので、暫くは花を楽しめるかなぁと思っています。美大生がデッサンのために花を摘んできていました。私も美大生の傍らで夢中で陶土を練っていました。久しぶりに工房の窓を開け放し、快適な温度の中で作業を行いました。