Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 卒制&彫刻展の1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は2回の美術鑑賞の機会がありました。まず、月曜日は工房に出入りしている学生が在籍している女子美術大学の卒業制作展に、教え子3人を連れて行ってきました。工房に日頃から学生がやってくるからこそ、私にはこうした機会があるのです。同行した学生の一人が私に「日本画がどれも秀逸で心に残った」とラインを送ってきました。教え子の中には感受性の鋭い子もいて、私は彼女たちに精神的に支えられていると感じます。木曜日は家内と千葉県の美術館に、カール・アンドレの展覧会に行ってきました。家内は「これはやった者勝ちだね」と感想を漏らしていました。ミニマル・アートがどうのこうのと呟くより、一言で片づける家内のコメントに目から鱗が落ちました。これも私の心を支えてくれる一言に違いありません。今週は陶彫制作に精を出していましたが、鑑賞も充実していて、理想的な1週間だったと思っています。とりわけカール・アンドレの作品に、私自身考えさせられる要素があって、それが陶彫制作に微妙に影響を及ぼしています。彫刻は物質を介在した哲学なのだと、私は以前NOTE(ブログ)に書いたことがありましたが、陶彫制作をしながら、造形哲学についてあれこれ考えを巡らせていました。私はミニマル・アーティストのように素材を突き放すことはできません。陶土を手でつけたり削ったりしながら、そこに取り込まれそうな気持をコントロールしつつ、自分にとって素材とは何だろう、どんなふうに付き合っていけばいいのだろうと考えていました。人体塑造をやっていた頃は考えもしなかったことが、今はその頃の五十歩百歩のような造形をやっているに過ぎないのに、何かが違うような気がしています。もう少し時間をかけて考えたいので、明日のNOTE(ブログ)にこの考え方の継続を綴りたいと思います。
    千葉県佐倉の「カール・アンドレ」展
    昨日、千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館で開催されている「カール・アンドレ」展に行ってきました。副題に「彫刻と詩、その間」という言葉がついていて、カール・アンドレが求めた世界観が彫刻の物質だけではなく、詩としての言語にもあることが示されていました。その詩を私は今一つ理解できませんでしたが、隣室にアンドレの関連する世界として展示されていたフランク・ステラの「ブラック・シリーズ」は、アンドレの発想源として理解できました。図録より空間作品に関わる箇所を拾います。「1960年に構想された〈エレメント〉は~略~極めて簡素な角柱をその名の通り『要素』として大きな積み木のように組み替えることのできる、可変性のある『彫刻』だ。角柱を一つだけ立てた、基本となる形体のタイトルは、古代ギリシャ時代の道路標識で、ヘルメスの胸像を乗せた角柱を意味する《ヘルメ》と付けられた。幾何学的で一般的な形体を用い、それを作品とみなすこと、同一のユニットを複数用いること、切断も接合もしないことは、その後アンドレが広く展開する要素であり、その萌芽となる作品と言える。」またアンドレは彫刻をこんなふうに分類しています。「アンドレは近代彫刻史の発展を『形(フォーム)としての彫刻、構造(ストラクチャー)としての彫刻、場(プレイス)としての彫刻』と独自に解析する」これに私は共感を覚えました。「アンドレは唯物論者(マテリアリスト)、つまり意識に対する物質の根源性を主張する考えを持った作家で、写真や言葉を通して二次的に作品を知り、理解されることをひどく嫌った。事実、アンドレの作品の前に立つと、木の匂い、割れ、ささくれ、錆が出た金属、アルミニウムの光沢と曇りといった多くの情報が質量を伴った物質として現前し、『そこにあること』の意味が感じられる。」(引用は全て杉浦花奈子著)カール・アンドレの立体作品は実際にこの眼で見ないと分からないと、私が咄嗟に思ったことは間違っていなかったようです。アンドレの彫刻分類で言えば「場(プレイス)としての彫刻」に本展の印象が集約されていくと私は考えました。
    陶彫制作&千葉の美術館へ
    今日は朝早くから工房に行き、陶彫制作をしていました。陶彫制作では、毎日自分でノルマを課し、ひたすらノルマを達成している感があります。ただし、自分を追い立てて余裕がなくなるのを避けるために、私は時折美術館に鑑賞に出かけているのです。実技と鑑賞は車の両輪と私は自分に言い聞かせていて、空間芸術は物質を介在する哲学でもあるとも考えています。そんな意味も込めて、今日は昼前に横浜の自宅を出て、千葉県にあるDIC川村記念美術館に車で向かいました。今日は家内が同行してくれました。DIC川村記念美術館で開催していたのは「カール・アンドレ」展で、カール・アンドレはミニマル・アートを代表する米国人作家で、今年の1月に逝去しています。ミニマル・アートとは抽象表現主義の主観を否定し、感情やニュアンスといったものを排して匿名的な形体や構造をもった、何ものをも表現しない彫刻や絵画を指すものです。私は学生時代にミニマル・アートの旗手ドナルド・ジャッドの作品を見て、ついに芸術はここまできたかと思ったのでした。ただし、カール・アンドレの立体作品はやや趣が違っていて、確かに匿名的な形体ではあるけれども、素材が木や鉄であるため、木の特徴である木目や裂け目がそのままあって、何ものをも表現していないはずが、芸術家の作為とは別の要素が加わっていたように思います。鉄板を並べた作品もそれぞれに錆がついていて、乾いた情緒が感じられました。確かに作家が素材を彫り刻むような行為はしていないので、「もの」派のように素材は素材のまま存在していたわけですが、そこに意図的な潔さがあって、私としては同時に心地よさも感じました。広い部屋に点在する素材の集合体は、その空間との関わりが私の感覚のツボを刺激したらしく、展示風景に満足していました。詳しい感想は後日改めたいと思います。今日は充実した一日を過ごしました。
    「《生誕》の位置づけ」について

    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第10章 失われた最後の大作 」の「1 《生誕》の位置づけ」の気になった箇所を取り上げます。本章が本書最後の章になり、本単元は失われた大作を見据えた導入部になります。「カラヴァッジョはその短い生涯のうちに、革新的な画風を確立し、さらに多様な画風展開を遂げた。しかし、ローマにおける円熟期以外の、初期の無名時代と晩年の放浪時代の数年間の画業はいまだ十分に解明されていない。特に、晩年放浪した、ナポリ、マルタ、シチリアに残された作品群は、各地でカラヴァッジェスキといわれる後継者・追随者を生み出す契機となったが、同時に数多くのコピーが生み出され、しばしばこうした作品とカラヴァッジョ自身の作品が混同されるにいたっている。~略~《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(一般に《パレルモの生誕》と呼ばれる)は、永らく彼の絶筆として知られてきており、パレルモのサン・ロレンツォ聖堂に飾られていたが、1969年10月18日深夜、不幸にして盗難に遭い、現在なお行方不明である。」この盗難された作品をめぐっては、さまざまな考察が行われているようです。果たしてこの絶筆と言われる作品は、パレルモで描かれたものかどうかさえ判明していません。「《生誕》が、1609年の夏にパレルモで描かれたということを裏付ける同時代の資料はなく、根拠となっているのは、1672年のベッローリの短い記述と、作品がパレルモに存在してきたという事実のみといえる。~略~彼がパレルモに滞在したとすれば、1609年の8月から10月の、せいぜい二、三カ月ということになる。期間的にも非常に短く、しかも資料が存在しないこと、そして時に、パレルモ滞在の唯一の証拠である降誕図が、様式的・図像的にメッシーナの作品と著しく異なることから、彼のパレルモ滞在と作品の制作時期が疑問視されてきた。」これが本章の導入部となり、次の単元では画面に描かれたモデルについて触れています。今回はここまでにします。

    「騎士団長礼賛」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第9章 犠牲の血 」の「4 騎士団長礼賛」の気になった箇所を取り上げます。本単元でも前から継続して「洗礼者ヨハネの斬首」を扱っていて、現在オラトリオに設置されている作品に関する状況の追加説明をしています。「(カラヴァッジョの作品は)騎士団長ヴィニャクールが島に来る以前に起こった大包囲だけでなく、彼の治世に起こった事件を反映し、その輝かしい戦績を称える意味をも担っていたと思われるのである。とはいえ、《騎士団虐殺図》がカラヴァッジョ作品のすぐ上の設置されていたという事実は、カラヴァッジョ作品もまた、元来、騎士の殉教を称え、その鎮魂という意を担っていたことと無縁ではないのであろう。」騎士団長ヴィニャクールはカラヴァッジョをどう見ていたのか、そこに触れた文章がありました。「カラヴァッジョがマルタ島に来た理由はさだかではないが、まずヴィニャクールの肖像を描くという仕事を受けたことから、騎士団長が招いた可能性も強い。しかも近年アッツォパルディやマチョーチェらによって発見された史料があきらかにしたように、ヴィニャクールはカラヴァッジョがローマで殺人を犯したことを知っており、騎士団の規則を曲げてまで画家を騎士にしようと苦心しているのである。~略~洗礼者ヨハネの斬首という図像伝統の大枠に従いながら、犠牲を暗示する処刑の特殊な様態やいくつかの特殊なモチーフによって、騎士団にまつわる現実的な意味が付加されていたと思われるのである。つまりこの作品は、制作当初において、騎士の戦死、洗礼者ヨハネの殉教、キリストの犠牲という重層的な意味をもっており、対イスラム戦の英雄的な活動を主導した騎士団長ヴィニャクールへの称賛と、戦死した騎士たちへの鎮魂を込めたものであるというものである。」今回はここまでにします。