2024.03.11 Monday
工房に出入りしている美大生で、女子美術大学で染織を専攻している学生がいます。彼女はまだ2年生ですが、先輩が卒業制作をしている姿を見ていて、その完成作品を見たいと言っていました。今日は工房に出入りしている学生を、その子も含めて3人誘って女子美術大学の卒業制作展に行ってきました。女子美術大学は相模原の緑地の中にあって、施設周辺の環境は抜群です。おまけに今日は晴天に恵まれ、絶好の展覧会散策日和になりました。同大の工芸学科染織専攻と美術学科日本画専攻には密度の高い作品が多く、私はじっくり見せてもらいました。工房に出入りしている染織専攻の子は、日頃から課題が多く出され、春季休業の現在も課題が出されていると悩んでいましたが、それには確かに理由があるなぁと、私は卒業制作展を見て納得してしまいました。彼女は素晴らしい環境で染織の勉強をしていると思っています。染めの工房も垣間見させていただきましたが、数人の学生が来て作業をしていました。大学は入試も終わり、あとは卒業式を待つばかりで、何人かの学生が往来していました。私は卒業制作展を見て来ると、いつも考えることがあります。卒業した後、多くの学生は就職していきます。素晴らしい環境で学んだ創作活動は、そこで終わってしまう学生も少なからずいると思っています。とりわけ絵画や彫刻を学んだ子は、自分のやりたいことが将来もできる保証はどこにもありません。私自身が経験した辛さが、多くの学生の身に起こるのです。創作意欲が高く、メンタルが強い子はそれでも創作活動をやっていくでしょう。そうした卒業生が何人いるのか、私には卒業した後の末路を知りたいと思う時があります。工房に出入りしている学生たちはどうでしょうか。そんな複雑な気持ちを抱えたまま、夕方になって卒業制作展を後にしました。
2024.03.10 Sunday
今日は日曜日なので創作に纏わることを書きます。私が自宅の中で注目しているのはトイレに貼られた月捲りのカレンダーです。2年前から我が家は、パウル・クレーの画像が全面にあるカレンダーにしていて、トイレに入る度にその色彩と線描を眺めては、私は時に心が安らぎ、また時に心に刺激を受けているのです。ドイツの画家パウル・クレーは20世紀初頭に活躍し、当時革新的な美術教育をやっていたバウハウスで教壇に立っていました。作風は色彩や線を実験的に多用し、そこから迷宮のような世界に私たちを誘います。一見子どもが描いたような痕跡に見えますが、それは児童画のような自由自在な装いを纏っているだけで、塗られた色彩や何気なく描かれた線描には、緻密な計算があるように思えます。パウル・クレーが感覚的に線を引いていたとしても、どこかに知的遊戯性を感じてしまうのは私だけでしょうか。このような絵画は誰でも描けるように見えて、パウル・クレー本人にしか描けない世界観なのです。それはドイツという国のもつ気候や国民の気質に通じています。同じような子どもが描いたような痕跡をもつ絵画にジョアン・ミロの作品がありますが、ミロの世界観はスペインの明るさに通じていて、クレーのそれとは異質な美的情緒です。私は20代の頃にドイツ語圏の国に暮らしたことがあるので、クレーの世界観は感覚的に理解できます。私はクレーの色彩と線描に深淵なるものを感じ取っていて、冬の厳寒な気候を思い出してしまうのです。そこに陽光はなく、曇り空が毎日続いている鬱々とした気分が甦ります。壮大な音楽や哲学が発展したのも、自分がかの地で暮らしたからこそ解るものだったんだなぁと思います。トイレにしゃがみこんで、今日はそんなことを考えました。
2024.03.09 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は陶彫制作に拍車をかけて、今までより意気込んで取り組んでいました。朝9時から夕方3時まで作業をしていましたが、今日の土曜日は午後4時半まで土練りをやっていました。教職に就いていた頃の二足の草鞋生活では、週末は貴重な制作時間になっていたので、根を詰めて精一杯やっていました。退職後、彫刻一本になり、制作は多少緩くなってしまい、当時のような意気込みが薄れてしまったのは事実です。そろそろ気合を入れていかないと完成まで漕ぎ着けないと判断し、今週は一所懸命やっていました。このところ3月に入っても寒い日が多く、ストーブで手を温めながら作業をしています。昨日は朝起きると雪が積もっていました。雪の量はたいしたことはなかったのですが、私の車はノーマルタイヤなので、車の使用は控えました。雪は昼頃には消えてなくなりましたが、横浜で降雪は珍しく、雪には慣れていないのが現状です。陶彫制作は水を扱うため、寒さで手がガサガサになり、皮膚がささくれてしまいます。ハンドクリームを多用していますが、手を酷使するのは技法上仕方がないことだと諦めています。大量に購入した陶土も少なくなってきています。来週くらいに栃木県益子町に連絡して、陶土を送ってもらおうかと思っています。2年がかりで取り組んでいる陶彫立方体は今まで以上に陶土を使用しているなぁと感じています。365点が揃うとかなり迫力があるのではないかと想像しています。完成を夢見て来週も頑張っていこうと思います。
2024.03.08 Friday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第9章 犠牲の血 」の「3 鍵と囚人」の気になった箇所を取り上げます。本単元も前単元の続きで「洗礼者ヨハネの斬首」に関しての論考になります。本単元では画面に描かれた鍵と囚人について述べられていました。「オスマン都市を襲撃したこれら三度の攻撃は騎士団に莫大な戦利品をもたらし、団長ヴィニャクールの治世でも最も輝かしい功績となっている。カラヴァッジョの作品で牢番がぶら下げている三本の鍵はこの三束の鍵を暗示し、騎士団の三度の英雄的な活動を象徴するものであると考えられよう。」次に画面にある格子のついた窓から見ている囚人と思わしき2人の人物についての考察です。「この二人の覗く窓は画面内でかなり大きな位置を占めており、主要人物が画面左半分に集中しているのに対し、画面右半分にはこの二人しか描かれていないことからも、この作品において、この二人の役割は大きいものと考えられる。~略~ある騎士はいったん敵のイスラム軍の手から逃れたにもかかわらず、負傷して逃げることのできなくなった仲間の騎士を助けるために引き返し、結局二人とも捕らえられて奴隷となってしまったという、わが国の広瀬中佐を思い出させるエピソードである。作品が描かれた二年前に起こったこの事件は、騎士団にとっても生々しい記憶となっていたであろう。カラヴァッジョの作品で獄窓から覗く二人の囚人は、このときの二人の騎士であることを考えれば、一人が負傷して頭に包帯を巻いているのも辻褄が合う。つまり、ここに描かれた二人の囚人は、イスラム教徒と戦って奴隷の身に落ちたマルタ騎士を代表しており、当時の状況では、こうした者を救わねばならないというメッセージを発していたと考えられるのである。」今回はここまでにします。
2024.03.07 Thursday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第9章 犠牲の血 」の「2 血の寓意」の気になった箇所を取り上げます。本単元も前単元に引き続き「洗礼者ヨハネの斬首」に関して論考を深めています。「この作品における処刑人のポーズは、犠牲のために喉を搔き切る行為を想像させる。クタジャーはこの作品について、犠牲の羊の屠殺を想起し、ヨハネの遺体の下にあるのは羊の毛皮であって、ヨハネが犠牲者であることを示唆していると記述しているが、左手で頭を押さえつけ、右手で小刀を握るこのポーズは同じカラヴァッジョの《イサクの犠牲》、あるいはラファエロの原作に基づく《ノアの燔祭》で仔羊を犠牲に捧げようとする男、さらにそれを借用したアンニーバレ・カラッチの《肉屋の店》における羊を屠殺する人物にも見られる。同様に、この作品においてもこのポーズは犠牲を示すと見てよいであろう。イサクの犠牲はアウグスティヌス以降、キリストの死の予型として広く知られていたが、ヨハネの死もまた、キリストの十字架上の死を予告するものであるとされていた。」西洋の中世絵画には血が描かれることが多く、滞欧中に訪れた美術館や教会で私は辟易していましたが、キリスト教では重要な意味を持つことを改めて知りました。「神に捧げる犠牲または燔祭においては、犠牲物の血を放出させ撒布させることが重要であり、聖書でも、犠牲に供した動物の血は『食べることなく水のように地面に注ぎ出さねばならない』と繰り返し命じている(申命記)。この作品でも洗礼者ヨハネの首からほとばしる血が、画面中央の前景にはっきり描写されている。カラヴァッジョの署名がこの血で書かれていることから、この血については画家の殺人体験と結びつけられ、画家の贖罪意識という精神分析的な観点から語られることが多かったのだが、この血には、作品の主題に関するより本質的な意味が込められていると考える。」今回はここまでにします。