2024.03.01 Friday
今日から3月です。私は2年前まで教職に就いていたため、今月は1年間の終わりを意味する年度末という意識が今もあります。私が愛用しているバインダー付きの小さな手帳は4月始まりの3月末に終了する週替わりのカレンダーがあって、仕事を退職した後もその習慣から抜け出せません。創作活動では何も特別なことはなく、元旦から大晦日までの1年間に合わせてもよさそうなものですが、どうも年度の方が私にはしっくりくるのです。仕事をしていた時は、3月は出会いと別れの季節でした。今月末に人事異動の発表があるためで、その重責を私は担っていました。その特別感をそのまま心に留めているのは、精神的によくないかもしれません。それはさておき、今月も陶彫立方体作りは継続していきます。気候が和らげば制作がやり易くなって、さらに密度の濃い作品が出来ていくのに期待しています。今月こそは制作を頑張ろうと毎月思っているのですが、息の長い制作が始まると、心が緩慢になる時もあります。春は展覧会も盛んになる季節です。いろいろな情報を得て、美術館にも足を運ぼうと思います。また春は花々が咲き乱れる季節でもあります。桜の花見は混雑を避けてしまう傾向が私にはあるため、なかなか現場に行こうとはしません。決して億劫なわけではないのですが、工房の周囲には春を感じさせてくれる木々があるので、毎年それを鑑賞して花見を済ませているのです。読書は常に何かしら書籍を手に取っていますが、若い頃に比べると読む速度が遅くなっているように感じます。たまに頁を開いたままボンヤリしてしまうことがあるのです。読書で得られる知識に対する好奇心はまだまだ強いので、今月も研鑽に務めたいと思います。
2024.02.29 Thursday
今年はうるう年にあたり、今月は29日まであります。今月を振り返ると、寒暖の差が激しく身体に応えました。春爛漫と思える気温があったかと思えば、降雪もあって、温度調節のできない工房での作業は辛いものがありました。それでも一日の基本となる午前9時から午後3時までの作業を毎日やっていて、それがルーティンとなっていました。29日間あったうち25日間工房に通っていました。工房を休んだ4日間は、叔父の葬儀で1日、退職校長会主催による「如月展」の搬入と搬出で2日、それと東京と横浜の3つの展覧会を回った1日があって、この4日間だけは制作を休まざるをえなかったのでした。その他にも用事はありましたが、工房での作業を短縮して対応していました。制作は相変わらず陶彫立方体をやっていて、窯入れは3回行いました。制作状況としては寒さ疲れがあって、身体としては思ったように動かず、やや焦りもありました。工房での作業が滞っている時は、自宅でRECORDの制作に精を出していました。それでもRECORDの状況は芳しくありません。もう少し気楽に作れたらいいのにと思っていますが、私の性格上それができずに小さな画面でも精一杯頑張ってしまうのです。今月の鑑賞は美術館では「日本の巨大ロボット群像」展(横須賀美術館)、「本阿弥光悦の大宇宙」展と「中尊寺金色堂」展(東京国立博物館)、「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」(そごう美術館)、その他に元同僚の刺し子展や教え子の染織のグループ展にも足を運びました。映画館には「ゴールデンカムイ」(鴨居ララポートTOHOシネマズ)に行ってきました。漫画の実写版ですが、アイヌ文化を知る契機になりました。読書ではカラヴァッジョの伝記をとつおいつ読んでいます。もう少し暖かくなれば陶彫制作に拍車をかけたいと思っています。来月も元気にやっていきたいと願っています。
2024.02.28 Wednesday
先日、横浜にあるそごう美術館で開催されている「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」に行ってきました。水木しげるは妖怪キャラクターを駆使したアニメにヒット作品が多く、国民的な漫画家として認知されています。私も「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」をテレビで見ていて、その魔訶不思議な世界に浸っていた時期がありました。本展では人気の出た作品と併行して、水木しげるは妖怪研究も進めていて、生涯にわたってクオリティの高い作品を作り、それらが数多く展示されていて、私はその迫力に惹き込まれました。妖怪は我が国独自のものが多く、そうした豊饒な伝承や説話をさまざまな画家によって具現化された巻物等もあり、私はその都度展覧会に出かけていって、創造性に富んだ世界を楽しんできました。図録によると「幸いなことに、日本の妖怪種目は数えきれないほど多数に及んでおり、また多様な姿をした妖怪を描いた絵画・造形も存在していました。つまり、毎回違った妖怪を造形して登場させる土壌がすでにあったのです。」とありました。民俗学者から示唆を受けることもありました。「水木さんは柳田國男の『妖怪談義』巻末の妖怪名彙(種目)集を参考に、そこに記された妖怪たちを次々に描いていきました。~略~『柳田國男あたりのものは愛嬌もあり大いに面白いが、形がないので全部ぼくが作った』。」また浮世絵師からも刺激を受けています。「民間伝承の妖怪とともに、水木さんの創造力を刺激した重要な素材に、江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕の『画図百鬼夜行』シリーズがあります。そこには多様な姿かたちをしたたくさんの妖怪たちが描かれていました。これらの妖怪に出会ったとき、水木さんは衝撃を受けたはずです。自分と同じように妖怪を描く絵師がすでにいたことを知って感激したに違いありません。」(引用は全て小松和彦著)江戸時代の絵師の系列に漫画家水木しげるも絵画史の巨匠として名が刻まれるのでしょう。これも日本独自の文化遺産と呼んでいいと私は考えています。
2024.02.27 Tuesday
先日、東京上野にある東京国立博物館本館で開催されている「中尊寺金色堂」展に行ってきました。金色堂は平安時代末期に、奥州藤原氏初代の藤原清衡が極楽浄土を表現する目的で建立したもので、今年で900年を迎えます。私が教職に就いて間もない頃、夏季休暇を利用して東北各地を旅しました。その時に平泉にある中尊寺金色堂を拝観しました。平安時代にこのような絢爛豪華なものが建てられたことに私は眼を見張りましたが、その全容が私には分かっていません。本展では8K映像による金色堂の再現や実際の仏像の数々を目の前にしながら、図録による解説で振り返ってみたいと思います。「清衡が、天治三年(1126)、鎮護国家のために大伽藍を建立し供養した際の願文の写しがいまに残る。」これが中尊寺創建の史料だろうと考えられます。「金色堂のもつ大きな特徴が、堂内に藤原氏歴代の遺骸を納めた棺を安置する葬堂と呼ぶべき性格である。当時、堂の下の地下に埋葬することや堂内に仮安置することはあっても、堂内に恒久的に安置する例は金色堂のほかにみられない際立った特徴である。このことの意味を正しく理解するのは困難だが、遺体が腐らないことを往生の条件とした中国の思想が流入している可能性が高い。阿弥陀仏の仏国土である西方・極楽浄土を厭離すべきこの穢土に現出させ、自らそこに眠ろうとした結果である。」図録序文の最後にこんなことが書かれていました。「古代史、中世史、考古学、美術史、建築史、仏教史、隣接するさまざまな分野からのアプローチが試みられ研究成果は枚挙にいとまがないほど膨大な数にのぼるが、金色堂ひいては平泉についての歴史叙述は難しい。金色であること、遺体を納める葬堂であること、密教的阿弥陀浄土であること、おびただしい荘厳で飾ること、須弥檀上に安置される仏像、巻柱にあらわされる菩薩像、清衡の遺体に懸けられた曳覆曼荼羅、金色堂を取り巻く思想の渦は個々の問題とともにそれぞれの関係性を踏まえた全体的な構想を描くのがなかなか容易ではない。~略~そうした史料的制約に対して、金色堂が現在まで伝えられてきたことは誠に幸運というべきだろう。おかげで、私たちは清衡をはじめとする奥州藤原氏の極楽浄土の夢を追体験することができるのだ。」(引用は全て児島大輔著)学術的解明はまだ困難と書かれていますが、それだからこそ魅力があって創造行為が入り込む余地があると私は考えます。奥州藤原氏の時代に想像を羽ばたかせてみたいなぁと思っています。
2024.02.26 Monday
先日、東京上野の東京国立博物館平成館で開催している「本阿弥光悦の大宇宙」展を見てきました。光悦は安土桃山時代から江戸時代にかけて創作活動の革新者として評価されていますが、その実態を知りたくて、私は本展に足を運びました。目の前の作品には、当時としては斬新な世界観があって、それを味わいながら、その背景は私の浅学では図録の解説に頼らざるを得ないので引用をしていきます。「光悦は刀剣三事(磨礪・浄拭・鑑定)を家職(家業)とする名門一族、本阿弥家に生まれ、生前から能書として知られるなど、諸芸に秀でたことで高く評価されてきた。その所産として肥痩(線の太細)の差を大きくとり、運筆の速度を自在に変化させた華麗な光悦の書が『光悦流』という一大潮流を創り出し~略~そして大胆で奇抜な意匠によってつくられた国宝『船橋蒔絵硯箱』をはじめとする、いわゆる『光悦蒔絵』の多くが現在、国宝や重要文化財に指定されている。」会場には有名な蒔絵や陶器の他に「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がありました。これは俵屋宗達の画と光悦の書のコラボレーションで、その画面配置には絶妙なバランスがあって、思わず息をのむほどでした。「光悦の造形に重要なかかわりをもつ俵屋宗達は、法華信徒であったことが想定されていたものの、確たる史料がほとんどなく、現在まで詳細不明という位置付けである。」日蓮法華宗との結びつきが光悦を中心とした集住生活を実現させ、鷹峰の地を徳川家康から拝領したことから始まったようです。「『古図』に載る五十余名は、すべて家職をもつ法華町衆とみなすことができ、鷹峰に集住することで法華信徒として紐帯を強めるとともに、彼らの日々の信仰生活が、そして、光悦が作陶や書の揮毫に勤しむこと自体が、先にみたように日常生活の結実として功徳となって、この鷹峰の地が寂光土となるのである。」(引用は全て松嶋雅人著)これは現在で言う工匠を集めた芸術家村の発祥であろうと私は考えます。ただ工匠たちは創作活動だけで集まったわけではなく、日蓮法華宗が精神的役割を担っていたのでしょう。江戸時代初期に独特な存在感を示した本阿弥光悦は、我が国が誇るマルチ・アーティストの一人と考えるべきだろうと思います。