Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 影響についての四題
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の、「影響について」は四つの論文に分かれていて、それぞれの気に留めた箇所をピックアップいたします。四つの論文は写真、ピカソ、エルンスト、ダリで、論文に貫通するのは影響についてです。「新即物主義、超現実主義、抽象主義などのイズムが、絵画でも写真でも並行的に存在するが、その相互の交流はかならずしも形式の領域内にとどまっていない。要するに写真が絵画に与える影響というべきものに関するかぎりは心理的であり、潜在的である。」次にピカソ。「ピカソの切断された風景、双生児的な肖像、色彩と面の解剖図、ゲルニカの火花、等々が模倣されるよりも、ピカソが歩いて来た路、彼が辿って来た体系を精密に知ることが現在われわれに残されたもっとも有意義な影響と見るべきかも知れない。それによって妙に伝説化されたピカソの前半生の過程がもっと明るみに出されるであろうし、おそまきながら、日本の近代絵画におけるキュビスムの『穴』を埋めることができるであろう。」次はエルンスト。「植物の群生を描いたエルンストの最近作のシリーズはわれわれの注意を惹いた傑作であった。この作品の解釈はいろいろな風になされるであろうが、一瞥して奇妙にアンリ・ルソーの原始林の傑作を想起させたことは、構図や、素材の類似からくる形の連想ばかりでなかったと思われる。エルンストの最近作の与える感動は、原始的なものと文明的なものとを結合させる磁力にあるといえないであろうか。(コラージュにおいては、『デペイズマン』(置換法)が露出していたが、これら油絵では技術のなかに完全に隠蔽されている)。」最後はダリ。「極端な超現実的な象徴性が、寸分の隙もなく、画面の持続性をもって描写されていることは従来のモンタージュ的方法に対して、画然と新しさを示した。これは映画のような現代的な物理感覚と絵画のあいだにも痛切に感じられていた。いわば深淵のように深い時間的空間的な飢えを満たしてくれるように思われたのであった。またそれは永遠性と現在性との抱合という古い絵画的な理想が、思いがけない現代の色彩と造形性とによって眼ざめさせられた驚きでもあった。謎と描写との結合が新たに絵画の生きたスペクタクル性を刺激しはじめたのである。」今回はここまでにします。
    新聞記事より「まずおれが面白くなきゃナ!」
    昨日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「ほかのヤツがよろこぶために絵なんて描けるか。まずはおれが面白くなきゃナ!篠原勝之」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「巨大な絵を描く。溶接する。好きなことしかしないというゲージツ家は、生きることがすでに『趣味』だと言い放つ。周りを見れば、小銭稼ぎに汲々とし『自分で面白がる方法を知らないばかりか、人を面白くなくするバカタレ』ばかりだとも。貧しくとも心優しく、かつ『生ツバをのむ』ような生き方をしてきたから、こんな放言も憎めない。『人生はデーヤモンド』から。」ゲージツ家篠原勝之氏は、テレビのバラエティ番組に出演していて、その名を知りました。独特な風貌と物言いだったため、私は当初彼はアートをネタにしたタレントと思っていました。鉄の制作現場にもテレビ取材が入っていましたが、彼は突然テレビに出なくなり、今は何をしているのだろうと思っていました。新聞記事に掲載されたことが契機になって、私はゲージツ家篠原勝之氏のことを調べてみました。創作活動にも専念していて、食うや食わずの日々もあったのだろうと察しています。ゲージツを作っていて、自分で面白がることがあっても売れる保証はなく、それでも自分の一貫した主張を曲げずに生きている人なんだと改めて思いました。テレビに出演する前は唐十郎率いる状況劇場の舞台美術をやっていたようで、その清濁併せ飲んだドギツイ装置を私は覚えていました。書籍執筆もあって、その生き方に共感する人もいたのだろうと思います。あの頃のエネルギッシュな風潮を思い出した新聞記事でした。
    週末 遊戯性のある配置を考える
    日曜日は創作活動について書きます。現在作っている陶彫立方体は、まだ計画した数量が揃いませんが、完成を予想してこれら陶彫立方体をどう並べたり、また積んだりしていこうか、図録のデザインとして思案中です。数多い陶彫立方体で大樹を囲み、あたかも城壁のように積むことを最初に思い立ちましたが、また場所を変えて草叢に点在させてみると出土品が発掘されているような景色にもなります。段差のあるところに置けば、雛段のようにもなり、また迷路のように並べるとその遊戯性が強調されて、かなり楽しいかなぁとも思います。亡父が残してくれた植木畑は、この季節になって木々に青葉若葉が繁り、雑草も蔓延っていますが、写真で撮影すると心地よい雰囲気が出てくるように思えます。毎年植木畑の草刈りをしてくれる人が、今年はいつから草刈りをするのかと聞いてきましたが、来月の図録用撮影日まで草刈りを待ってもらうようにお願いしました。雑草の緑色も陶彫立方体に彩りを加えるポイントになるからです。工房は濃いグレーの壁面で覆われた建物ですが、この壁面の前に陶彫立方体を積み上げると、壁面との色彩が微妙な変化を齎せて、良い雰囲気が出ることを発見しました。今回の図録の表紙はこれでいこうかと考えています。まだまだ陶彫立方体を使って、楽しい画像が出来そうですが、制作の合間に追々考えていこうと思います。彫刻は空間の芸術ですが、こうした風景を取り込んだ工夫も、その醍醐味のひとつです。日々行っている苦しい作業の中で、 遊戯性のある配置を考えるのは、その時の気分を変えられる楽しいひと時でもあるのです。
    週末 形而上絵画を堪能した1週間
    週末になりました。今週を振り返ります。今週も陶彫制作のスケジュールが厳しいため、朝9時から夕方5時か6時まで作業を続けていました。創作活動にも当然緩急はあるものの、工房は制作をすることに専念できる環境であるため、思い切った休息は出来ません。そこで今週は水曜日に東京の美術館に行くことにして、この日に窯入れをして工房の電気が使えないようにしました。そうした気分転換が必要と感じたのは、創作活動は心身ともに追い込みをかけるために、このままでは精神が持たないのではないかと思ったからです。水曜日に出かけた上野の東京都美術館は気分転換には最適なところでした。鑑賞したのはイタリア人画家のジョルジョ・デ・キリコの展覧会で、デ・キリコが創り出した形而上絵画を堪能してきました。19世紀末まで西洋絵画は、光を捉えた写実技法や理に敵った遠近法など、ルネサンスに始まった伝統が頂点に達しているように見えたのですが、20世紀に入ってその伝統的な写実性が、写真の登場によって絵画は絵画としての革新的な発展を遂げていきます。さまざまなイズムによって絵画でしか成せない世界を構築していくのですが、その中に形而上絵画もありました。絵画として描かれたモティーフに哲学的な思索を与えられ、既存の概念を打ち破るような様式が登場してきたのでした。私もいつからか彫刻は視覚的または触覚的哲学だと言われ、空間に置かれたモノに理論を裏付けていくことになりました。自分の学生時代に、目前のモデルの量感を正確に把握し、塑造していくことに終始していた私は、モノの存在を考えるようになりました。周囲の空間も考慮しました。これも形而上絵画から始まった思索する芸術作品であり、私はダダイズムやシュルレアリスムも理解できるようになりました。現在の現代アートの現状も、決して過去の美術史と断絶しているわけではなく、その背景を探れば理解が可能だろうと思います。今週はそんなことを考えさせる1週間だったと思います。
    造形における哲学の存在
    彫刻作品は日用雑貨とは違い、用途がないため純粋に形態だけを眺めていられます。それは人間が何かを形作る考え方を反映しているとも言えます。先史時代、人間は獲物を確保するため万物に祈り、それの具象化を図って、壁画や造形物を作ったのではないでしょうか。宗教の発生と彫刻は密接な関係があるはずで、形に祈りを込めていました。それと同時に生活の利便性を求めて、食器や食料を貯蔵する容器を作ってきました。絵画や彫刻が文化を担うことになったのは、人間の心の在り方にあって、生活雑貨とは違う次元にあったのかもしれません。絵画や彫刻の存在を、心の在り方に価値を求めるならば、そこに哲学があるはずで、造形に用途がない分、眼に見える哲学を示唆していると言っても過言ではありません。先日見に行った「デ・キリコ展」にあった形而上絵画は、まさに哲学的解釈をデ・キリコが試みた結果だったと私は考えています。そこに登場する哲学者ニーチェやショーペンハウアーは、私も彫刻をやる上で参考にした偉人たちでした。造形芸術をアポロン、音楽芸術をデュオニソスと象徴したニーチェの論考や、表象を定義したショーペンハウアーに、私は造形そのものの意味を問うことをやっていました。「人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、太陽を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。」(「意志と表象としての世界」ショーペンハウアー著 西尾幹二訳 中公クラシックス)とあったため、存在とは何かを求めて、私はハイデガー著「存在と時間」を紐解くことになったのでした。彫刻とは何かを考える際に、そもそもモノがそこに存在するとはどういうことか、純粋に形態だけを眺めていられることが学問的考察を呼び覚ましていくのは自然なことなのだろうと思っています。