2024.01.26 Friday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第4章 幻視のリアリズム」から「3 瞑想の空間」の気になった箇所を取り上げます。この単元では複数の絵画が登場します。まず《慈悲の七つの行い》です。「ナポリの裏通りを思わせる薄暗い場所で、七つの善行やそれを象徴するエピソードが、きわめて現実味の強いドラマとなって展開している。画面右端には巡礼と彼に宿を提供する男がおり、その周囲には聖マウリティヌスと乞食、背後には驢馬の顎骨から水を飲むサムソン、画面右では『ローマの慈愛』のキモンと彼に乳を与える娘ペーロ、その奥には遺体を運ぶ男たちがおり、上方から聖母子と二人の天使が見下ろしている。この主題を扱った従来の図像と大きく異なり、『制度的なカトリックともプロテスタントとも異なる彼のキリスト教的善行のヴィジョン』が実現されているものの、それぞれのエピソードをパッチワークのように集めて一画面に詰め込んだような窮屈さが感じられる。」次に《聖ルチアの埋葬》です。「構成上、この作品の源泉のひとつと思われるトンマーゾ・ラウレーティの《聖スザンナの殉教》に見られたような、殉教の勝利を表す棕櫚の葉も、上空を飛ぶ天使も見えず、単なる一人の人物がひっそりと埋葬される情景があるばかりである。画面奥に退いた哀悼劇は、声高に殉教聖人の栄光を謳うものではなく、死がもたらす絶望的な悲しみと救いのなさを重々しく語っているようである。~略~ここでも聖と俗が混在し、融合しているといえよう。つまり、グレコのように全体がひとつのヴィジョンとなっているのでも、クールベのようにあくまでも現実をありのまま写すのでもなく、現実の空間と歴史的な空間とを重ね合わせることで、普遍的な死への想念を触発するのである。」最後に数点の作品に触れた箇所があります。「この新たな傾向は、続くメッシーナ滞在時の《ラザロの復活》と《羊飼いの礼拝》、パレルモ滞在時の《生誕》に展開していった。いずれの作品も観者を画面に引き込むような迫真性は薄れ、画面を覆う闇に沈む人物たちの静かな奇蹟のドラマとなっている。~略~幽暗な画面に漂う瞑想的な雰囲気と、うなだれた聖母の醸し出す悲劇的な気配によって、現実的でありながら静謐な神聖さを感じさせる。民衆の素朴で熱烈な信仰心こそが神のヴィジョンを招来するのだが、それはまばゆく美麗なものであるとは限らない。神々しい聖母子のヴィジョンはいまや彼らの日常の現実と融合し、画中の卑俗な現実そのものが観者を取り込んで聖なるヴィジョンと化しているのである。」今回はここまでにします。
2024.01.25 Thursday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第4章 幻視のリアリズム」から「2 ヴィジョンへの参入」の気になった箇所を取り上げます。この単元では礼拝堂などに収まっている宗教画ではなくく、移動可能な絵画について述べられています。「《ロレートの聖母》に見られた巡礼姿は、ロンドンにある《エマオの晩餐》にも登場する。~略~ここには劇的な明暗法と迫真的な細部描写のほかに、突出効果とでもよぶべき技法が駆使されている。ひとつはテーブルの端にある果物籠が手前に落ちそうになっていることであり、驚いて立ち上がろうとする左の使徒の肘や両腕を広げる右の巡礼の左手、さらにパンを祝福する中央のキリストの右手が短縮法で捉えられ、いずれも絵の表面を破って観者の空間に侵入するような効果を与えている。~略~《エマオの晩餐》の半身像の人物はほぼ等身大であり、この画面に向かう観者はこの夕食の席に参加しているようなイリュージョンをおぼえる。この作品は聖堂の広大な空間ではなく、邸宅の一室に飾る目的で制作されたため、画面の近くから鑑賞することが想定されていた。しかも、キリストの正面あたり、果物籠の置かれたテーブルの前には、観者が画中の食卓に臨席できるように、ほぼ一人分のスペースが空いている。」カラヴァッジョは作品がどこに設置されるか、どのような目的で鑑賞してもらえるかを計算して、画中に登場する人物のサイズを決めていたようです。しかも食卓であれば、観者である自分がキリストと対面できるような配慮もあり、従来の宗教画に比べると、風俗画的な要素として当時の反感を買うこともあったでしょう。現在の眼で見れば、そのリアリズムに時代を越えた写実性が認められるところです。「オラトリオ会もイエズス会も、イメージの効果を最大限に利用する反宗教改革的な思想を共有しており、歴史的・超常的なイメージを鮮明に喚起することを重視するという点で、いずれもカラヴァッジョのリアリズムに関連しているといってよいだろう。そして《聖パウロの回心》や《キリストの埋葬》に見られた、現実空間と画中空間との接続性、つまり、作品の設置された場そのものを劇場的な作品に仕立て上げる手法は、バロニオのトリクリニウムにその淵源が見られ、やがてベルニーニによって大成されるのである。」今回はここまでにします。
2024.01.24 Wednesday
今日は工房の作業を休んで、教え子と横浜みなとみらいにあるミニシアターへ「ビヨンド・ユートピア 脱北」を観に行ってきました。大手新聞社の記事が取り上げているだけのことがあって、ドキュメンタリーとしたら凄く肉薄した映像に心が奪われました。祖国を捨てるというのは私には考えが及ばないことで、しかも身を隠して脱することの困難さが具体的に描かれていて、これが日本の隣国で今も起こっていることに驚きを隠せません。脱北を決行している家族が日本人に似た外見で、家族の繋がりや性格にも共感を覚えたのは私だけではないはずです。独裁政治と言う大きな捉えよりも、末端の人たちの行動に説得力があるのは言うまでもありません。図録より映画の主張するところを拾っていきます。「脱北者にとって祖国を離れることは、悪徳ブローカーによる搾取の可能性だけでなく、捕えられれば厳しい刑罰や場合によっては処刑されるなど、大きな危険をはらみ、残された家族も報復にさらされる可能性がある。ロ一家は親戚が脱北したために、彼らも警察から嫌疑をかけられ、いつ強制収容所に送られてもおかしくない危機的な状況に陥っていた。幼い子供2人と80代の老婆を含む一家5人での脱北は、実に50人以上のブローカーが協力し、移動距離1万2000キロメートルに及ぶ決死の脱出ミッションだ。中国の山間部をさまよい、ベトナムのジャングルを抜け、闇にまぎれてラオスの川を渡る。本作では、最終目的地である韓国への旅が確約されるタイに至るまでの危険な道程が克明に記録される。スマートフォンや折りたたみ式携帯電話で撮影された映像は生々しく、いつどんな形で生死の分かれ目が訪れてもおかしくない、これ以上ないほどのスリルと危険に満ちている。また、韓国へ亡命した母が北朝鮮に残る息子を呼び寄せようと奮戦するが次第に悲劇的な状況へ追い込まれていく様子や、自らの身の危険を犯してまで人道的活動を続けるキム牧師が抱えた秘密など、フィクション映像でも描くことのできない、想像を絶する人間ドラマが展開していく。」これは現在も行われていることで、対岸の火事では済まされない困難な課題であることを自覚しなければならないと、私は強く感じました。
2024.01.23 Tuesday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)は今日から「第4章 幻視のリアリズム」に入ります。まず「1 巡礼者たちのヴィジョン」の気になった箇所を取り上げます。「ローマのナヴォーナ広場にほど近いサン・タゴスティーノ殿堂に入り、左側廊を歩くとすぐに《ロレートの聖母》とよばれるカラヴァッジョの絵が見える。」本単元では、この《ロレートの聖母》を中心にして論考が展開しています。「神秘的とはいっても、聖母は扉の付柱にくっきりと影を投げかけており、単なる幻ではなく実体化していることがわかる。しかし、この聖母は二人に巡礼者のみに顕現したものであり、聖母子が実体化しているのは彼らの心のうち、あるいは視野の中においてのみである。しかし観者である我々は、二人の巡礼の薄汚れた姿だけでなく、彼らの目に映った聖母子の姿を同時に見ている。つまりこの画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視の空間というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである。」カラヴァッジョの宗教画は、ほとんどすべてが幻視表現として読み取ることができます。幻視とは実際に存在していないものが見えることで、神や聖人などのイメージを目にすることです。「カラヴァッジョの場合、はっきりと幻視者が存在する、つまり幻視者のいる現実の次元と幻視の次元とが判然と区別されて共存する一般的な幻視画は、《ロレートの聖母》のみである。しかし、他の作品においても、これほど明確でなくとも同じような性格をもった幻視表現を見出すことができる。カラヴァッジョの作品のほとんどが、現実の空間を突如破って現れる幻視空間を表現したものと見ることもできるのである。」今回はここまでにします。
2024.01.22 Monday
20付の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「身の回りの一つ二つのものを捨てれば、かなりの程度世を捨てられるし、世から捨てられるのである。種村李弘」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「世を避けるのに『深山幽谷』に住まう必要はない。テレビを家に置かず、名刺を持たないこと。集いの席でも口をきかずにすむし、人と会ってもすぐに忘れてもらえるとドイツ文学者は言う。何かに打ち込みたければ世に隠れること。『よく隠れた者こそよく生きた者』という古代ローマの詩人の言もある。『雨の日はソファで散歩』から。」人は人との関わりの中で仕事をし、余暇を楽しみ、生活全般わたる日々を過ごしています。ある組織に就職すれば、必ずや人とのコミュニケーションがあり、世捨て人になることは到底出来ません。収入を得なければ経済的にも困窮してしまうし、個人営業にしても周囲との関係性が仕事になっていると言っても過言ではありません。その中で自分を深めようと何かに打ち込むことはなかなか大変で、家族が寝静まった深夜に一人の時間を確保している人も少なからずいるでしょう。私は退職するまで名刺を持たざるを得なかったし、組織内の人事もやっていたので、職員とのコミュニケーションは必須でした。その頃の私の創作活動や読書は専ら深夜で、眠い眼をこすりながら自分の世界を作っていました。私にとって世に隠れることは、自ら主体的に生きていくうえで絶対に必要なことであって、自分を取り戻す貴重な時間でもあったのです。仕事に埋没しているといつの間にか時間が経って、自分は右往左往しているだけで、自分本来の存在や生き甲斐を問うことがないと、ある日忽然と気づいたのです。まだ若かった私は自分のやりたい事と仕事の二束の草鞋生活をスタートさせました。内なる心に「深山幽谷」を作ることが、現在の私に繋がっていると思っています。