Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 時を経た素材
    私の実家を解体する時に、大黒柱にしていた古木を工房に運び込んできました。それは実家が存在した証と言うより、私にとっては時を経た素材としての魅力があったからです。実家の大黒柱はたいした歴史はなく、しかもクギ穴も細かい枘もあり、古木としての値打ちは下がりますが、それでも素材の発するエネルギーに私は惹かれていました。日本の古民家には立派な梁や柱の構造体が剝き出しになったものがあり、そうした建築物に、私は憧れにも似た気持ちを持っているのです。私が高校生の頃に建築家を志したのは、まさに無垢な素材の魅力の虜になった経緯があったからです。建築家と言っても私の場合は現代工法の高層建築ではなく、村落の活性化にも繋げられるであろう木工素材の有効利用を考えたいと思ったことが契機になっていました。彫刻の道に変わったとしても、私は素材の魅力に憑りつかれていて、木や土は自然の恵みが齎した私たちの生活に近いモノとして認識しています。現在私は土を造形し、焼成した作品を作っていますが、粘土になる土は永く地層で育まれ、可塑性の高い物質になっています。古代から人間はそうした土を発見し、火によって高温で焼くことで、モノを貯蔵する器を作り出してきました。時を経た素材には魅力が詰まっていて、私は素材を作品化することで、それを導き出し、縄文時代から続く豊かな美的創造力に追従していく者になりたいという自覚があります。今日も朝から工房に籠って、土と対話し、それを彫り込み、土肌にアクセントをつけてきました。木を彫る行為もそうですが、土を削ったり膨らせたりしていると、無心になって時間が経つのを忘れる瞬間があります。それが何とも快いのです。頭が空っぽになるのは他の仕事ではなかなか見いだせない行為と言えそうです。時を経た素材を扱うことを、私は生涯をかけてやっていきます。
    週末 多少変化する陶彫制作
    週末になりました。今週を振り返って創作活動について書いていきます。今週の日曜日は美大の卒業制作展に行ってきました。工房に出入りしている美大生が案内をしてくれました。若い世代の作品を見るのは興味が尽きません。学生たちの大きな可能性と力量不足が相まって、私にはいろいろな考えが浮かびます。今週は月曜日から今日の土曜日まで、相変わらず工房に通って制作三昧でしたが、手帳の記録を見ると結構寒いのに午後まで制作をしています。陶彫制作は多少変化をするのかなぁとも思っていて、彫り込み加飾で常に新しいデザインを追求しているので、午後までも制作を継続してしまう日が多かったのでしょう。今週は窯出しもしました。退職校長会が主催する「如月展」案内状の宛名印刷を行い、郵送もしました。「如月展」には「発掘~街灯A~」と「発掘~街灯B~」を出そうと思っています。これは小品ですが、照明が内蔵されています。照明点灯の自動センサーを取り付けなければならず、また再度梱包をやり直そうと思っています。私の車で運べる大きさなので、私一人で搬入搬出ができそうです。今週はRECORD制作を頑張っていて、毎晩遅くまでRECORDを作っていました。教職に就いていた頃は、夜遅くまでRECORDをやっていたのは日常でしたが、最近では夕方の時間帯にしていたので、深夜までRECORDをやっているのは昔に戻ったような気分です。読書も時間を決めてやっていて、今週は無理のない日々が送れていたような気がしています。
    映画情報を得る手段
    私は月平均1,2回は映画館に足を運びます。映画には娯楽性のある楽しいものがあったり、社会性があって世情等を考えさせられるものもあります。娯楽的な作品や国際的な賞を獲得した作品は、マスコミの宣伝で知ることがあり、それを頼りに鑑賞に出かけます。社会に問題を問いかける作品は、自分から調べないとキャッチできないため、ネットであったり、新聞記事で情報を得ます。今月末は横浜のミニシアターに「ホロコースト証言シリーズ」3部作の3番目の作品を観に行こうと決めています。前2作は岩波ホールに観に行きました。こうした社会的な作品を、私は学生の頃より興味関心を持って観ていて、自らの感性や知性を豊かにしてくれるものと思っています。今日の朝日新聞夕刊の記事にも着目すべき文章がありました。「『近代国家の3大元素は国民、国土、国権』と学者はいう。そういえば、北朝鮮という国、国権の長の顔は頻繁に目にするけれど、国民の素顔はついぞ見かけない。これは、そのへんの事情を探るアメリカのドキュメンタリーである。脱北を巡る映像作品は少なくないけれど、これほど脱北の実態に迫る作品はおそらく他にない。~略~この作品は独裁国北朝鮮を素裸にする構えである。改めて私たちに問いかける。生きることについて、自由について、さらに戦火と災禍と万事劣化著しいこの世界の『身捨つるほどの祖国』について。」現在上映している映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」の紹介文章ですが、今日付の他に12日付の夕刊にも本作の記事が掲載されていました。これも観に行こうと私は思っていますが、家内はこういう映画は苦手で、私一人で行く予定でいました。念のため文学に関心の高い教え子を誘ってみたら一緒に行きたいと言ってきたので、予定を合わせることにしました。世界には大変な課題を抱える国があることを再認識したいと思います。
    「カラヴァッジョにおける回心」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第3章 回心の光」の中の「4 カラヴァッジョにおける回心」の気になった箇所を取り上げます。第3章はこの単元で終了です。そのため今までの単元で述べられていたカラヴァッジョの3点の宗教画を総括するような内容になっていました。「奇蹟というものは基本的に個人の内面にしか起こらない。特に回心のような内面的な変化は第三者に知覚できないものである。周囲の人物はすぐにはこの回心に気づかない。カラヴァッジョは、天使などの超越的な存在は描かず、現実的な光のみによって主人公の内面に起こった変化を暗示するにとどめた。さらに、それに迫真性を与えるために、写実的な細部描写と、現実の光を取りこむ巧みな明暗表現によって、作品内のドラマが現実空間で起こっているようなイリュージョンを与えた。それによって、礼拝堂内の回心劇は、観者にとってごく身近でリアルな出来事のように感じさせ、強い説得力を持ってその内面にも訴えかけるのである。こうした奇蹟の現実的解釈によって、カラヴァッジョの画面は同時代の観客や芸術家を惹きつけ、また時空を超えて奇蹟に懐疑的な現代人をも惹きつけるのである。」最近でも美術館で企画されたカラヴァッジョの展覧会は、多くの鑑賞者を集め、盛況な印象があります。それは神の存在を可視化した従来の伝統的宗教画でななく、実際の一場面として私たちが認識し、あたかも奇蹟は人間が内面で捉えたものとして表しているためだろうと思います。「《聖マタイの召命》では鋭く人物を直撃していた光が、《聖パウロの回心》では現実の堂内の光と同化するような薄明となり、《ラザロの復活》にいたっては、人物たちは濃い闇に沈み、彼らを断片的にしか照らしていない。画家は回心、あるいは内面で神に出会うということが、それほど容易に起こりうるものではないと悟っていたのかもしれない。」今回はここまでにします。
    グループ展の案内状
    横浜市立中学校の校長を退職すると、清交会という組織に加盟することになります。その清交会はさまざまな活動を行っておりますが、私は連絡網で訃報を回すだけで、何の活動にも参加してきませんでした。校長として同僚に親密な人はおりましたが、退職後は連絡を取り合うのは稀で、私にはほとんど付き合いがないのが現状です。それよりも私は現職の時から継続していた創作活動に夢中になり、教職を忘れかけています。清交会の一環として横浜中心部にある画廊を借りてグループ展をやっているのは知っていましたが、今まで見に行ったこともなく、自分とは縁のない存在と思っていました。ところがグループ展の代表を務める方から丁寧な手紙をいただき、ぜひグループ展に参加して欲しいとお願いされました。本市の校長会では美術科が少なく、私が在職していた時は、美術科は私一人だけでした。私が退職してから美術科校長がいなくなり、暫くは美術科副校長が研究会会長を務めておりました。代表の方が銀座の私の個展にも足を運んでくださったので、私はこの「如月展」に参加することにしました。ところが当時の校長会では美術科がいなかったため、発表分野は美術に限らず、何でも有りのグループ展になっていました。画廊は小さい空間のため、私の本領である空間演出をする集合彫刻は持ち込めず、小品を2点出すことにしました。「如月展」の案内状が手元に届いたので、今日は宛名印刷を行いました。個展のように全ての知り合いに出すわけにもいかず、遠方で作家活動をしている方々にはただ案内状を送るだけにしようと思いました。案内状を出せない方が多いので、グループ展の情報を掲載しておきます。「如月展」期間:令和6年2月12日(月)~18日(日)午前11:30~午後4:30(初日午後2:30から、最終日午後2:30まで)会場:みつい画廊(横浜市中区吉田町5-1)JR関内駅北口徒歩4分です。私は初日の搬入日と最終日の搬出日には在廊しています。