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  • 「チェインギャング」研修
    私が教職に就いて10年ほどしたら、当時の管理職から、来年度から学級担任を外れて教育相談の担当になってくれないかと言われました。横浜市では生徒指導専任という名称がついていて、反社会的行動をとる生徒には警察の生活安全課との連携によって更生させていく仕事がありました。非社会的な生徒には児童相談所や福祉関連の行政部署と連携をして相談をしていました。学校が抱える課題が学校だけでは解決しないことが多く、まず担当が生徒達の相談役になり、他機関に繋げていくのでした。そんな時に専任研修が市教育委員会で組まれ、ある歌を聴いてグループで話し合う機会がありました。その歌がザ・ブルーハーツが歌う「チェインギャング」という歌でした。「人をだましたりするのは とってもいけないことです モノを盗んだりするのは とってもいけないことです それでも僕はだましたり モノを盗んだりしてきた 世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない」これは歌のフレーズの一部ですが、私はこれを契機にザ・ブルーハーツのファンになり、ほとんどのCDを購入しています。最近、夜の食卓でRECORD制作中にこの歌を聴くことがあり、当時の生徒との相談内容を思い出し、複雑な思いに駆られました。「世界が歪んでいるのは 僕のしわざかもしれない」生徒の中には親との葛藤により家庭に居場所がなく、学校に行けば他の生徒達から疎外を受けていた子がいました。全て自分のせいだと言っていて、死んだ方がマシと生徒がボソっと呟いた時、私は悩みに悩みました。自己肯定感が底辺にまで落ちてしまう状況をどうしたらいいのか、生徒が時折無口になることが怖くて、相談を何度もやっていました。この子はまだ私に心を打ち明けているので、ここで何とかならないものか、私は自分にも虚無感を感じていました。私たち教職員には限界があります。こうすれば救えるかもしれないと思っていても、他機関に任せれば、この子はきっと心を閉ざしてしまうだろうと察することが怖かったのです。それでも私は決断をして、学年職員や管理職と情報共有をしました。この子は職に就いたことで自立し、今も元気に生きていることを聞き及んで、内心ホッとしています。歌によって思い出されるあの日あの時の心境。自分もいろいろな思いを抱えて生きてきたなぁと感じるこの頃です。
    「ロンカッリとダルピーノ 」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の第2章「1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ」の中の「3 ロンカッリとダルピーノ 」の気になった箇所を取り上げます。題名になった2人の画家はカラヴァッジョの師匠でありライバルでもありました。「クリストファノ・ロンカッリ通称ポマランチョ(1552-1626)は、ちょうどカラヴァッジョがローマに来た頃アカデミア・サン・ルカの総裁となり、世紀のかわり目に旺盛な活動を展開した画家である。~略~《キリストの埋葬》は、現在ヴァチカンにあるカラヴァッジョの同主題の作品との関係が指摘されてきた。右端で悲嘆のあまり両手を高く挙げて天を仰ぐマリアを導入した点や、キリストの遺体を安置するための大きな『終油の石』を描いた点など、両者のいくつかの図像的共通性はカラヴァッジョがこの作品を研究したことをうかがわせる。」次にダルピーノです。「カラヴァッジョがローマに出て間もなく1593年にその工房に入り、八カ月そのもとにいたジュゼッペ・チューザリ通称カヴァリエール・ダルピーノ(1568-1640)にカラヴァッジョが大きな影響を受けたことは間違いなく、一種の定説と化している。しかし、ダルピーノのもとで描いたとされる静物画の問題を除いて、カラヴァッジョの作品にその具体的な痕跡が見出されることはほとんどなかった。~略~ロンカッリの場合と同じく、《慈悲の七つの行い》に直接的な人物像の借用が見られ、《生誕》にはそれをより発展させた形の人物像が登場しているのがわかる。《貧者と病人の中にいる聖ラウレンティウス》はカラヴァッジョがグルピーノ工房に入る少し前の作品だが、一時的にせよダルピーノ工房で修行したカラヴァッジョは、ダルピーノの構想過程や制作の手順などを習得しており、そのため他の作家の作品よりダルピーノの作品を印象深く受け止めていたに違いない。カラヴァッジョはかつての師にして画壇の頂点に君臨する人物に反逆し、超克しようとすると同時に、時にそこに着想源を求めたのである。」今回はここまでにします。
    クリスマス雑感
    世界中から「メリークリスマス」という挨拶が聞こえてきます。この日だけは平和で穏やかに過ごしたいという思いが伝わってくるのは私だけではないはずです。12月25日はキリストの降誕を記念する日とされていて、イエスの正式な誕生日ではないというのが定説です。この日はローマ歴の冬至に相当します。宗教は人々が関わる農耕牧畜と密接なものだと私は考えていて、キリストに纏わる物語も例外ではないはずです。キリスト教はユダヤ教から発祥していますが、選民意識の強いユダヤ人が唱えた教えに、誰もが信仰できる国際性を備えたものがキリスト教だということをどこかで聞いた覚えがあります。そんなこともあって、世界人口に占めるキリスト教徒は31%もいて、イスラム教、仏教と並ぶ三大宗教のうちで最も多い信徒を持ちます。イエスが誕生したベツレヘムにしろ、イエスが処刑されたエルサレムにしろ、当地にあるイスラエルは、現在ガザ地区にあるハマスを撲滅しようとして、戦時下にあり、毎日のようにそのニュースが飛び込んできます。瓦礫と化した街で平和を願う人々の映像は胸を打ちますが、イエスが負った受難が現代に降りてきたような光景に、私は心が痛みます。クリスマスとは、イエスの死を通して贖罪信仰が確立された宗教儀式を執り行う日でもあり、そういう時だからこそ平和で穏やかに過ごしたいという思いが全信者にはあるではないでしょうか。20代の頃、ウィーンで過ごしたクリスマスは、人が集まって騒ぐことはなく、それぞれの家庭で静かに過ごしていました。私にとってクリスマスとは何かを考え始めた時期に、そんな経験がありました。イルミネーションが美しく輝く環境も素晴らしいとは思いますが、クリスマスが宗教行事であるからには、その意味するところをほんの少し考えてみるのも必要かもしれません。
    週末 造形イメージ発想の原点
    昨日のNOTE(ブログ)に生成AIについて書きましたが、新しい世界を創出することができるのは人間だけという定説を、私は今も信じたいと思っています。最近のAIの進化は驚くべきものがあって、数多くの情報を取り込むことで、絵画を制作し、それがオークションにかけられた事例を見たことがあります。AIの発展によって将来仕事を失う人もいそうで、不安を覚える職種もあろうかと思います。統計や会計処理を始めとする事務処理は、人がやるよりもミスが少ないAIの方が適任で、それが効率と人手不足の解消にも繋がるように感じます。教職にいた時、生徒とのコミュニケーションは人間でないと出来ないと思っていましたが、どうでしょうか。相手の気持ちをどのくらい理解でき、共感できるのか、そんな微妙な感性を持ったAIはこの先発明されるのでしょうか。また創作行為はどうでしょうか。造形イメージの発想の原点は、その人の経験によるもので、何にもなければ発想さえ生まれません。夥しい情報の蓄積から、これが造形として最も相応しいイメージを選出することはAIにも可能です。私自身も頭の中で経験から導き出すイメージがあって、それを具現化してきたわけですが、そこまでならAIにも出来そうです。ただし、経験を裏切って冒険をすることもあり、こんなことを実験してみようと思うことは果たしてAIにも出来るでしょうか。美術史の中でも、例えばルネサンスの芸術家たちや印象派を推進した芸術家たち、近代のピカソや現代のデュシャンは、歴史として蓄積されてきた従来の定番を裏切った人たちです。革新は時代を牽引し、やがてそれを定番として塗り替えていくのですが、それは人間でないと出来ない仕業かもしれません。そこには成功以上の失敗が付き纏い、その失敗から学んで成功に繋げていくのも人間なのだろうと思っています。AIが今後どのような発展をしていくのか、私には分かりませんが、まだまだ人間でないとできないこともありそうです。
    週末 制作&久しぶりの鎌倉散策
    週末になりました。今日は週末になると工房にやって来る美大生が来ていて、自らの染織課題をやっていました。課題に追われて大変と言いながら、彼女にとって大学は楽しいところであり、工房もまた然りです。私も今週は日々陶彫制作をやっていて、作業自体の楽しいことは間違いではなく、それでも自己研鑽を積む場所なので、ワンランク上の楽しさを得るために苦労していると考えています。創作活動は刹那的な楽しさとは違います。精神を集中して自我を追い込むことも厭わない苦しさが付き纏うのです。そこで達成した楽しさは格別で、これ以上の満足感は得られないと思います。美大生もそれを知っているから夢中になって頑張っているのです。さて、今週の状況ですが、水曜日に鎌倉に行ってきました。教え子の中に文学少女がいて、鎌倉散策に同行してくれました。私にとって鎌倉は久しぶりで、高校や大学を通して頻繁に行っていたところだったので、尚更でした。鎌倉では神奈川県立近代美術館に立ち寄って、昭和の時代に現代美術を牽引した芸術家たちの作品を見てきました。学生だった私が美術の多様性を知り、その思想に目覚めたのは、このような作品に接したおかげでした。現在では生成AIがあり、創作されたものが人間の手によるものか、AIによるものか分からなくなっていますが、データの蓄積で編み出されたものより、自分の頭で考え出したものが良いという古い概念に、私はまだ憑りつかれているのです。私はアナログな制作を徹底して信じ切っているところがあって、今週も創作行為と自分が過信する労働の蓄積を行ってきました。私にとって素材を前にして、手を動かすことで考える行為が全てなのです。人類が先史時代から行ってきた何かを造形する行為を、今も継続している自覚が今の私にはあります。