2023.12.02 Saturday
週末になりました。今週の創作活動の状況を述べていきます。今週は11月から12月へ月を跨いだ1週間でした。今週も毎日工房に通って陶彫制作に邁進していました。完全に季節が冬に移行したので、ストーブを点けて作業をしていました。陶彫は水を含んでいるので、寒さがかなり応えます。手にもハンドクリームをつけています。夏に比べると乾燥はゆっくりになり、放置した作品もなかなか窯入れが出来なくなりました。昨日の夕方は家内と川崎にある洋菓子店「マリアツェル」に行ってきました。この店のパテシエはヨーロッパにいた頃からの友人で、この時期にドイツ等で食べられているパン・シュトレンを受け取りに行ったのでした。彼とは40年も前になるヨーロッパの話になり、会うたびに昔を懐かしむ話題で持ちきりになります。今日は工房に美大で染織を専攻している教え子が顔を出しました。じっくり腰を落ち着けて作品を作る彼女の姿勢は、染織に向いていると私は感じています。そろそろ就職活動に話が及ぶようになり、美大で楽しい生活を送っている彼女にしてみれば、就職はまだ考えられないのかもしれません。私は自作に使う化粧土がなくなってしまい、今日から混合して化粧土を作ることになりました。化粧土の配合を忘れかけていて、メモ書きもどこかにいってしまったので、僅かな記憶を辿って化粧土の配合を始めました。陶土にしても化粧土にしても私の考えた配合は難しいものではないので、通常の制作工程にはすぐ戻れるだろうと思っています。
2023.12.01 Friday
12月になりました。今日は工房で作業をした後、川崎に住む友人の店に出かけました。ヨーロッパでこの季節に食べられているドライフルーツが入った保存用のパン・シュトレンを、私は大量に注文していて、それを受け取りに行ったのでした。友人は、私と同時期にウィーンに暮らしていました。私は美術学校に通い、彼は菓子工房で修業をしていました。シュトレンはその時に作り方を教わったらしく、彼は本格的なシュトレン作りに励んでいました。彼は帰国しても、小麦粉、フルーツ、マジパン等の材料はヨーロッパから調達していたので、私にしてみれば本場のシュトレンが味わえて、他の店には見られない満足感がありました。材料の価格が高騰している現在も、彼は注文のみでシュトレンを作り続けています。私はこのシュトレンを、同時期にヨーロッパに滞在していた彫刻の師匠や画家の先輩たちに郵送していく予定です。きっと皆さんにとっても懐かしさが込み上げてくるはずで、私がウィーンで表現の探求に苦しんでいた頃に、先輩の画家はウィーンの一室で細密描写に明け暮れていました。また師匠の池田宗弘先生はスペインで巡礼の道を歩いていて、ロマネスク美術に関する資料をまとめていました。シュトレンのカタチがキリスト教と深い縁があるため、キリスト教徒の師匠には格別の贈り物になるだろうと思っています。少しずつ輪切りにして、クリスマスまで食べていく硬質なパンは、寒さの厳しいドイツやオーストリアでは一般的な慣習です。極寒とシュトレンは私の中でも連想を齎すものなのです。日本も今日から12月になり、本格的な冬が到来した感じがしました。今月をどう過ごすのか、相変わらず彫刻制作に精を出す一方で、美術館や映画館にも足を運びたいと考えています。健康に留意しながら、元気にこの冬を乗り切っていこうと思っています。
2023.11.30 Thursday
今日は11月最終日です。11月を振り返ると気温の変動が著しく、20度を超える日があったかと思えば、気温一桁の真冬のような日もありました。工房は内壁がないので、工房内温度は外と変わらず、陶彫の作業には厳しいものがありました。今年は夏の酷暑でも辛かった陶彫制作でしたが、秋になっても大幅な気温変動があって、身体への負担が大きかったのではないかと思っています。何しろ陶という素材は放っておくと乾燥が進むし、よく練らないと造形がやり難い性質があって、自分の事情に関係なく常に面倒を見ていかなければならないので、結局休みなく作業を継続してしまうのです。今月も30日間のうち28日間は工房で作業をやっていました。窯入れは2回行いました。工房に行かなかった2日間のうち、1日目は工房に来ている子の通っている美大の芸術祭に行ってきました。2日目は「棟方志功展」(東京国立近代美術館)と神保町古本屋街を散策してきました。美術館での鑑賞はこの1回だけでしたが、自分が若い頃から親しんだ板画家の回顧展だったので感慨一入でした。映画には2回行きました。「マルセル・マルソー 沈黙のアート」(シネマ ジャック&ベティ)、「ゴジラ-1.0」(鴨居ララポートTOHOシネマズ)でした。その他の事として、私が建てた集合住宅「RAUM」の階段下の空間に自作「発掘~坪庭~」を設置しました。RECORD制作は毎晩食卓で頑張って作っていました。漸くホームページのRECORDのアップも進んできました。読書では南洋諸島で創作活動をした日本人芸術家の生涯に関する書籍を読んでいて、興味が尽きません。ともかく今月は気温変動が著しかったにも関わらず、何とか健康に過ごせました。来月もその調子で頑張っていこうと思っております。
2023.11.29 Wednesday
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第七章「ボルネオから土田村へ」の気になった箇所を取り上げます。「久功が見舞いに行った4日後、昭和17年(1942)12月4日、中島敦は入院中の岡田病院で逝去した。6日、自宅で告別式が営まれた。久功は葬儀に参列後、直ちに列車で西へ向かい、神戸から乗船した。~略~下関を経てシンガポール(昭南島)へ至り、その地で正月を迎え、年明けに北ボルネオへ渡った。北ボルネオでは、陸軍専属嘱託のボルネオ調査団の民族班担当として北ボルネオ各地を、船、汽車、車で回って調査した。」ここで久功は身体を壊し、入院を余儀なくされたようで、やがて香港の病院に転院しています。「半年近くの入院の後、3月7日、病院船バイカル丸で香港を発ち、台湾を経て、18日に大阪・天王寺の赤十字病院に移った。1週間後の25日、東京から来た妻・敬子との1年4カ月ぶりの再会であった。~略~ここに2ヶ月入院した後、帰郷療養となり、5月16日の朝、世田谷・豪徳寺へ帰ってきた。早速兄弟、親戚へ電話で挨拶した。」戦時下で久功と妻・敬子は岐阜県へ疎開します。「久功が妻・敬子とともに岐阜県土田村へ疎開したのは、敗戦の前年、昭和19年(1944)9月であった。」夢の田舎暮らしを思い描いていた久功にとって、敗戦を迎えた後の土田村での生活は、現実的には厳しいものとなったようです。「土田村の軍需工場は、平和産業に転じることになった。しかし、会社は規律が乱れ、盗みが横行した。8月21日の日記には、上から下まで、会社の品物を盗み出している、取り締まる立場にある部課長も盗みをしているので、見て見ぬふりをしている。診療所でも、薬局の倉庫から、よい薬はあらかた盗まれた。」そんな状況もあってか、久功は土田村の生活にすっかり嫌気がさしていたようです。今回はここまでにします。
2023.11.28 Tuesday
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第六章「戦時下の日本へ」の気になった箇所を取り上げます。本章では戦時下の中での作家中島敦との交流、医師川名敬子との結婚、太平洋協会からボルネオ行きを懇願されたことなどが綴られていました。「昭和17年(1942)3月17日夕方の5時、土方久功と中島敦が乗船したサイパン丸は横浜港に着いた。戦時中のため船の到着を事前に知らせることができなかったので、出迎えはなかった。」そこで土方家を取り巻く大きな事件がありました。「夕方、兄・久俊の家を訪れ、そこで土方与志(久敬)が明後日20日に入獄することを知らされた。」土方与志(久敬)は築地小劇場を主催した演劇人として知られた存在でした。「(土方与志(久敬)は)第一回ソビエト作家同盟で日本代表として、小林多喜二虐殺や日本の革命運動弾圧について報告した。~略~(朝日新聞の見出しには)『伯爵土方久敬(与志)氏、遂に栄爵を喪ふ 明治維新以来誉高き名家に峻厳な処断下さる』。爵位を剥奪されるのは日本の華族史上異例の出来事だった。」久功に縁談の話が持ち上がり、昭和17年9月に久功は結婚式を挙げました。「1週間後の13日、久功と川名敬子は、九段下の軍人会館で結婚式を挙げた。出席者37人の内輪だけのささやかな結婚式であった。」久功は中島敦の実家を訪ねたりして、2人の親交は続いていました。同時に久功はボルネオ行きを断れなくなっていました。「ボルネオ行きは確定したので、29日に、久顕、英子、柴山家へ別れの挨拶に行った。夜は後藤禎二から夕食に招かれた。このような混乱の中、11月30日の昼前、久々に中島敦を訪ねたところ、16日にひどい発作を起こして入院し、その後、11本も注射を打ち、ほとんど危なかったと聞かされた。入院先は近くの岡田医院(現・世田谷中央病院)だったので、すぐに行ってみた。パラオにいた時と同じように、何枚も布団を積み上げた所に凭れかかって、苦しそうな様子だったが、思ったよりは元気で、1時間ばかり話して、昼過ぎに帰ってきた。これが、中島敦を見た最後となった。」今回はここまでにします。