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  • 週末 集合住宅に設置した彫刻
    私が「RAUM」という集合住宅を建ててから1年が過ぎようとしています。この場所は私の生まれ育った実家でした。祖父母や父母の思い出がいっぱい詰まった場所で私は生まれ、家業は半農半商で父は造園業、祖父は大工の棟梁でした。家は木造平屋建てで、玄関を抜けると土間があり、台所も土間にありました。薪で焚いていた五右衛門風呂も記憶の片隅にあります。土間には米の貯蔵庫もあり、季節になると庭では脱穀を行っていました。そんな実家でしたが、祖父母や父母が亡くなり、昔ながらの家は不便で、私自身はこれを護っていけないと判断して、8世帯の入る集合住宅を建てたのでした。家の大黒柱は工房に運び込み、私はこれを造形的に再生しようと考えています。集合住宅「RAUM」には階段下にちょっとしたスペースがあり、そこに彫刻を置いてみないかと建築担当に言われていました。今日は1年点検の日で、業者がやってきたので、この機会に作品を設置しようと決めました。作品は「発掘~坪庭」です。今年、東京銀座のギャラリーせいほうで発表した本作品は、集合住宅「RAUM」に置くことを予め設定して作った作品です。大きさも階段下スペースから割り出したもので、設置も手間のかからないものにしました。それでも後輩の彫刻家にお願いしてやってもらいました。本来なら照明を内蔵するように作ってあるのですが、今回はさりげない場所に設置したので、目立ち過ぎないように配慮しました。ネームプレートに題名と作者名を入れました。現代彫刻は都心の真ん中であれば、人々の認識もありますが、郊外の集合住宅では滅多にお目にかかれない代物です。そんなことも考えて、今回のような設置にしたのです。
    週末 寒さが身にしみた1週間
    週末になりました。土曜日は今週の振り返りを書くようにしています。今週も相変わらず朝から工房で陶彫制作に精を出していましたが、真夏と違って制作時間が長くなり、夕方まで陶土に挑んでいました。陶彫立方体を日々只管作っているわけですが、ひとつずつ彫り込み加飾のデザインや彫り込む深さや傾斜する面を変えているので、一つ作るごとに自分の感覚を懸命に使っているのです。陶彫立方体は出来上がると365分の1になってしまいます。それでも労働の蓄積は必ずや効果を齎すと信じていて、全体を見渡す鑑賞者がたいして意識を払わないところに、しっかり作り込みをしようと思っているのです。今週は寒さが増して身にしみました。制作時間を長くしたことで、どうやら疲労が溜まり、咳やくしゃみが出るようになりました。週2回の水泳にも出かけました。ただ水泳の後の制作はとても辛く感じていて、これは寒さのせいか、または加齢のせいではないかと思っていましたが、体調が崩れる前に身体を温めることにしました。例年なら12月に出してくる大型ストーブを出してきました。ストーブの前で作業をしていると、かなり楽なのでこれは寒さが身にしみた結果だろうと思いました。真夏から一気に冬に移行する季節にさすがについていけないなぁと思いつつ、毎年こんな季節の変化が起こるとなると、その順応に身体がまいってしまうのではないかと危惧しています。
    「死の影」について
    「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第二章「死の影」の気になった箇所を取り上げます。第二章の冒頭に「死は、常に久功の身近にあった。」とありました。美術学校の同期生や学習院初等科・中等科を一緒に過ごした幼馴染も学生時代に他界し、久功に大きな衝撃を齎せています。久功が台湾に渡った時に、ともに台湾庁の仕事をした親友も亡くなってしまい、また親戚にも若くして亡くなった者がいて、まさに久功には死の影が纏いついていたようです。病死ならともかく自死もあって、寂寥とした気持ちを久功は詩歌や日記に書き留めていました。「久功は、『わが青春のとき』のなかで、20歳から23,24歳だった大正末の頃のことを、次のように述べている。『インテリ青年の間に多くの自殺者を出した一時期だった。私なども、こんな数年の間に、親戚知人で高校大学に在学中、または卒業間もなく、自ら死を選んでしまった者、数人を持ったものだった。私自身より二つ三つ兄貴格から四つ五つ弟分の間で、兄の高校の友人で私も親しくしていたSが自殺した。Sは理学部から大学へ行く時に文科に変わったのだったが、そういう傾向ももっていたのだろう。三つ年上の従兄も大学を出て、女房をもち子をなして自殺したし、弟のクラスだったS侯爵の長男も高校年齢で自殺した。そのSの従弟Jも大学生で自殺したし、私の父方の年上の従姉の娘Rも自殺していたし、母方の従弟Hも大学生で自殺した。そういう事実は雑誌や本よりもずっと切実に、私の思想とも言えない気持に、やりきれなさを迫ったのだった。』」まさに久功の周囲の同世代が、何らかの課題を抱えて自分を追い込んでいたとしか思えない状況です。そうした中で久功自身は精神的に大丈夫だったのか、私には気になるところです。
    「幼年から青年時代へ」について
    「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第一章「幼年から青年時代へ」の気になった箇所を取り上げます。土方久功は恵まれた幼年時代を過ごしています。父は明治3年(1870)東京生まれでした。「明治41年(1908)3月から翌年12月まで軍事研究のためドイツに留学し、帰国後、再び陸軍野戦砲兵射撃学校の教官になった。」とありました。母は「明治10年(1877)生まれで、父は海軍大将・柴山矢八男爵であった。」とありました。また久功の伯父(父の長兄)は、「明治の元勲として知られる土方久元伯爵だった。」とあり、親戚に華族がいたようです。久功も学習院初等科・中等科に学んでいましたが、大正8年(1919)に東京美術学校彫刻科に入学しています。「久功の美術学校時代の生活の中心は、従甥(いとこの息子)で幼馴染の土方与志(本名は久敬)がこの年に小石川の自邸内に作った模型舞台研究所であり、関東大震災の翌年に創設された築地小劇場であった。」演劇の手伝いとともに久功は、作品を二科展や院展に応募して落選をしていました。公募展に気に入られるような作品を作っていなかったという当時の批評もあって、久功の考え方が伝わる文章が残されています。「私は彫刻家になるつもりで美術学校に入ったのですが、美術学校を卒業する前に、彫刻の大家になって取りすますような気は毛頭無くなって了ったのです。それから後は、惰性でぐづ~して居るうちに、美術学校を卒業してしまったのですが、今になっても、美術学校は私に何を教へてくれたのか、何うもしっくりしないのです。いいや、多々色々な技術を教へてくれたのでせう。兎も角も、何も出来なかった私が、何かかにかこしらへるようになったのですから。~略~まあ、帝展に出て居る人達は代表的な玄人でせう。処が皆さん、帝展に行ってごらんなさい。其処にあなた方は何を見ますか?其処にあるのは、デッサンの正確、刀の冴え、仕上げの丁寧、技巧、技巧、技巧、外面、外面、外面です。素人の造るものは、そこへゆくとがさつで、きたならしいです。にも拘らず、素人の作品には、なか~面白いものがあります。何故でせう。私はそれを其の製作動機に帰し度いと思ふのです。これからは全然余技ですから、始めから楽な気持で誰憚る所なく(或は知らない故に)勝手なことをやらかします。ですが、その勝手さが結局自己に忠実である所以なのです。」今回はここまでにします。
    「土方久功正伝」を読み始める
    既に終わってしまった展覧会の後追いのような記事になりますが、どうしても気になる芸術家がいるため、今日から「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)を読むことにしました。展覧会は「土方久功と柚木沙弥郎」展で、先日まで世田谷美術館で開催しておりました。本書は世田谷美術館のギャラリーショップで買い求めたものです。本書の冒頭に「土方久功を一言で言いあらわすのは難しい。彫刻家であり、詩人であるとともに、民族誌家であった。久功は、日本の南洋統治が始まって間もない昭和4年(1929)にミクロネシアのパラオへ渡って以来、現地の人々と個人レベルで交流を重ねた人物であった。」とありました。あたかもゴーギャンのような生き方だったため、展覧会をする度に「日本のゴーギャン」と呼ばれることに作家本人は嫌だと思っていたようです。私が興味関心を持ったのは彼が日本の美術界と縁がなかったことと、先日世田谷美術館でまとまった木彫作品を見て、そのプリミティブな力に魅せられたからです。以前、南洋諸国で創作活動をしていたグループによる展覧会を見た記憶があり、その時「土方久功」という名前を知り、また別の機会に横浜の古本屋で「土方久功詩集 青蜥蜴の夢」(草原社)を購入して、詩集は我が家の書棚に収まっています。詩集は昭和57年の刊行なので、作家没後5年で出版されたことになります。NOTE(ブログ)のアーカイブによると2013年6月28日から7月5日まで、私はこの詩集を読んでいて、感想を寄せていました。日本の美術界では稀有な存在であった「土方久功」とは、改めてどんな考え方を持った人だったのか、伝記をじっくり読んでみようと思っています。