Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 集合彫刻で思うこと
    週末になると、作品についての思うことを書いていますが、NOTE(ブログ)もこれだけ長く続けていると、過去に書いた同じことを言い方だけ変えているようになっているのではないかと不安にも感じます。今日のタイトルにした「集合彫刻」も幾度となくNOTE(ブログ)に書いているように記憶していますが、たとえ同じでも今日再確認したこともあったので書いていきます。彫刻のテーマを発掘された都市遺産にしたことで、材質を陶にして、同時に空間に広がる大きさを表すために集合彫刻にしました。私にとって陶彫で作品を作ることと集合彫刻にして設置することは同時に出てきました。陶彫は窯入れをして焼成しないと作品は完成しません。窯内の体積があるため、作品をどこまでも大きくすることが出来ず、それなら陶彫同士をボルトナットで繋いでスケールを手に入れる方法を採りました。陶彫部品は目立つ部品とそれを支える部品があって、ひとつの作品世界の中に数十点の部品で構成していました。綿密に全体的な計算をして制作をしていましたが、それでは形態に意外性がなくなって退屈するため、あえて計算をしない箇所を作り、無計画と無計画をぶつけて摩擦を生じさせ、それをどう繋いでいくのかを考えることにしました。その方法が結構面白くて、暫くその方法で制作を続けていました。基本的な制作姿勢は今後もこの通りでいくつもりですが、2年越しで作っている現在の陶彫立方体は、陶彫部品に主従の関係はなく、同じ大きさの立方体に彫り込み加飾を施しているだけです。その立方体を積み上げてギャラリーに展示するので、従来の集合彫刻とは異なるコンセプトがあります。今回はそれでやってみようと思ったのです。陶彫制作をしながら、今日はそんなことを考えていました。
    週末 制作&社会的映画鑑賞
    週末になりました。今週も相変わらず陶彫制作に明け暮れていました。このところ朝9時から夕方3時まで制作をやるようになって、寒さに身体が慣れてきたのではないかと思います。ただし、陶土は水を含んでいるので、悴んだ手をストーブで温めながら作業をしているのは言うまでもありません。ハンドクリームも頻繁に使っています。工房の窓から外を眺めていると、梅の花がちらほら咲いています。枝に小鳥がいると春の気配を感じます。空気が澄んでいるのか、工房から雪化粧した富士山がくっきり見えます。日本画の画題にでもなりそうな雰囲気ですが、私の場合は彫刻なので、ただ眺めているだけでスケッチもしません。さて、今週の水曜日は教え子と横浜みなとみらいにあるミニシアターに行ってきました。この映画館には初めて行きました。観た映画は「ビヨンド・ユートピア 脱北」で大変刺激的な内容でした。日本の近隣でこんなことがあるなんて信じ難いのですが、これは北朝鮮から韓国へ、身を隠しながら逃亡する家族のドキュメンタリーなのです。撮影クルーもよくぞ撮ったなぁと思うほど緊迫した場面の連続でした。私たちが日本で日常的に何不自由ない生活ができているのは、皆の努力の賜物ではないかとさえ思うようになりました。実は来週もこうした社会的映画を観に行こうと決めています。今週も夜はRECORD制作を頑張っていました。立体制作は昼、平面制作は夜というのが定番になりつつあって、それは平日も週末もありません。読書はRECORD制作の合間にやっていて、バロック時代の宗教画に憑りつかれてしまいそうです。
    「瞑想の空間」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第4章 幻視のリアリズム」から「3 瞑想の空間」の気になった箇所を取り上げます。この単元では複数の絵画が登場します。まず《慈悲の七つの行い》です。「ナポリの裏通りを思わせる薄暗い場所で、七つの善行やそれを象徴するエピソードが、きわめて現実味の強いドラマとなって展開している。画面右端には巡礼と彼に宿を提供する男がおり、その周囲には聖マウリティヌスと乞食、背後には驢馬の顎骨から水を飲むサムソン、画面右では『ローマの慈愛』のキモンと彼に乳を与える娘ペーロ、その奥には遺体を運ぶ男たちがおり、上方から聖母子と二人の天使が見下ろしている。この主題を扱った従来の図像と大きく異なり、『制度的なカトリックともプロテスタントとも異なる彼のキリスト教的善行のヴィジョン』が実現されているものの、それぞれのエピソードをパッチワークのように集めて一画面に詰め込んだような窮屈さが感じられる。」次に《聖ルチアの埋葬》です。「構成上、この作品の源泉のひとつと思われるトンマーゾ・ラウレーティの《聖スザンナの殉教》に見られたような、殉教の勝利を表す棕櫚の葉も、上空を飛ぶ天使も見えず、単なる一人の人物がひっそりと埋葬される情景があるばかりである。画面奥に退いた哀悼劇は、声高に殉教聖人の栄光を謳うものではなく、死がもたらす絶望的な悲しみと救いのなさを重々しく語っているようである。~略~ここでも聖と俗が混在し、融合しているといえよう。つまり、グレコのように全体がひとつのヴィジョンとなっているのでも、クールベのようにあくまでも現実をありのまま写すのでもなく、現実の空間と歴史的な空間とを重ね合わせることで、普遍的な死への想念を触発するのである。」最後に数点の作品に触れた箇所があります。「この新たな傾向は、続くメッシーナ滞在時の《ラザロの復活》と《羊飼いの礼拝》、パレルモ滞在時の《生誕》に展開していった。いずれの作品も観者を画面に引き込むような迫真性は薄れ、画面を覆う闇に沈む人物たちの静かな奇蹟のドラマとなっている。~略~幽暗な画面に漂う瞑想的な雰囲気と、うなだれた聖母の醸し出す悲劇的な気配によって、現実的でありながら静謐な神聖さを感じさせる。民衆の素朴で熱烈な信仰心こそが神のヴィジョンを招来するのだが、それはまばゆく美麗なものであるとは限らない。神々しい聖母子のヴィジョンはいまや彼らの日常の現実と融合し、画中の卑俗な現実そのものが観者を取り込んで聖なるヴィジョンと化しているのである。」今回はここまでにします。
    「ヴィジョンへの参入」について
    「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第4章 幻視のリアリズム」から「2 ヴィジョンへの参入」の気になった箇所を取り上げます。この単元では礼拝堂などに収まっている宗教画ではなくく、移動可能な絵画について述べられています。「《ロレートの聖母》に見られた巡礼姿は、ロンドンにある《エマオの晩餐》にも登場する。~略~ここには劇的な明暗法と迫真的な細部描写のほかに、突出効果とでもよぶべき技法が駆使されている。ひとつはテーブルの端にある果物籠が手前に落ちそうになっていることであり、驚いて立ち上がろうとする左の使徒の肘や両腕を広げる右の巡礼の左手、さらにパンを祝福する中央のキリストの右手が短縮法で捉えられ、いずれも絵の表面を破って観者の空間に侵入するような効果を与えている。~略~《エマオの晩餐》の半身像の人物はほぼ等身大であり、この画面に向かう観者はこの夕食の席に参加しているようなイリュージョンをおぼえる。この作品は聖堂の広大な空間ではなく、邸宅の一室に飾る目的で制作されたため、画面の近くから鑑賞することが想定されていた。しかも、キリストの正面あたり、果物籠の置かれたテーブルの前には、観者が画中の食卓に臨席できるように、ほぼ一人分のスペースが空いている。」カラヴァッジョは作品がどこに設置されるか、どのような目的で鑑賞してもらえるかを計算して、画中に登場する人物のサイズを決めていたようです。しかも食卓であれば、観者である自分がキリストと対面できるような配慮もあり、従来の宗教画に比べると、風俗画的な要素として当時の反感を買うこともあったでしょう。現在の眼で見れば、そのリアリズムに時代を越えた写実性が認められるところです。「オラトリオ会もイエズス会も、イメージの効果を最大限に利用する反宗教改革的な思想を共有しており、歴史的・超常的なイメージを鮮明に喚起することを重視するという点で、いずれもカラヴァッジョのリアリズムに関連しているといってよいだろう。そして《聖パウロの回心》や《キリストの埋葬》に見られた、現実空間と画中空間との接続性、つまり、作品の設置された場そのものを劇場的な作品に仕立て上げる手法は、バロニオのトリクリニウムにその淵源が見られ、やがてベルニーニによって大成されるのである。」今回はここまでにします。
    映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」雑感
    今日は工房の作業を休んで、教え子と横浜みなとみらいにあるミニシアターへ「ビヨンド・ユートピア 脱北」を観に行ってきました。大手新聞社の記事が取り上げているだけのことがあって、ドキュメンタリーとしたら凄く肉薄した映像に心が奪われました。祖国を捨てるというのは私には考えが及ばないことで、しかも身を隠して脱することの困難さが具体的に描かれていて、これが日本の隣国で今も起こっていることに驚きを隠せません。脱北を決行している家族が日本人に似た外見で、家族の繋がりや性格にも共感を覚えたのは私だけではないはずです。独裁政治と言う大きな捉えよりも、末端の人たちの行動に説得力があるのは言うまでもありません。図録より映画の主張するところを拾っていきます。「脱北者にとって祖国を離れることは、悪徳ブローカーによる搾取の可能性だけでなく、捕えられれば厳しい刑罰や場合によっては処刑されるなど、大きな危険をはらみ、残された家族も報復にさらされる可能性がある。ロ一家は親戚が脱北したために、彼らも警察から嫌疑をかけられ、いつ強制収容所に送られてもおかしくない危機的な状況に陥っていた。幼い子供2人と80代の老婆を含む一家5人での脱北は、実に50人以上のブローカーが協力し、移動距離1万2000キロメートルに及ぶ決死の脱出ミッションだ。中国の山間部をさまよい、ベトナムのジャングルを抜け、闇にまぎれてラオスの川を渡る。本作では、最終目的地である韓国への旅が確約されるタイに至るまでの危険な道程が克明に記録される。スマートフォンや折りたたみ式携帯電話で撮影された映像は生々しく、いつどんな形で生死の分かれ目が訪れてもおかしくない、これ以上ないほどのスリルと危険に満ちている。また、韓国へ亡命した母が北朝鮮に残る息子を呼び寄せようと奮戦するが次第に悲劇的な状況へ追い込まれていく様子や、自らの身の危険を犯してまで人道的活動を続けるキム牧師が抱えた秘密など、フィクション映像でも描くことのできない、想像を絶する人間ドラマが展開していく。」これは現在も行われていることで、対岸の火事では済まされない困難な課題であることを自覚しなければならないと、私は強く感じました。