2024.01.23 Tuesday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)は今日から「第4章 幻視のリアリズム」に入ります。まず「1 巡礼者たちのヴィジョン」の気になった箇所を取り上げます。「ローマのナヴォーナ広場にほど近いサン・タゴスティーノ殿堂に入り、左側廊を歩くとすぐに《ロレートの聖母》とよばれるカラヴァッジョの絵が見える。」本単元では、この《ロレートの聖母》を中心にして論考が展開しています。「神秘的とはいっても、聖母は扉の付柱にくっきりと影を投げかけており、単なる幻ではなく実体化していることがわかる。しかし、この聖母は二人に巡礼者のみに顕現したものであり、聖母子が実体化しているのは彼らの心のうち、あるいは視野の中においてのみである。しかし観者である我々は、二人の巡礼の薄汚れた姿だけでなく、彼らの目に映った聖母子の姿を同時に見ている。つまりこの画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視の空間というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである。」カラヴァッジョの宗教画は、ほとんどすべてが幻視表現として読み取ることができます。幻視とは実際に存在していないものが見えることで、神や聖人などのイメージを目にすることです。「カラヴァッジョの場合、はっきりと幻視者が存在する、つまり幻視者のいる現実の次元と幻視の次元とが判然と区別されて共存する一般的な幻視画は、《ロレートの聖母》のみである。しかし、他の作品においても、これほど明確でなくとも同じような性格をもった幻視表現を見出すことができる。カラヴァッジョの作品のほとんどが、現実の空間を突如破って現れる幻視空間を表現したものと見ることもできるのである。」今回はここまでにします。
2024.01.22 Monday
20付の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「身の回りの一つ二つのものを捨てれば、かなりの程度世を捨てられるし、世から捨てられるのである。種村李弘」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「世を避けるのに『深山幽谷』に住まう必要はない。テレビを家に置かず、名刺を持たないこと。集いの席でも口をきかずにすむし、人と会ってもすぐに忘れてもらえるとドイツ文学者は言う。何かに打ち込みたければ世に隠れること。『よく隠れた者こそよく生きた者』という古代ローマの詩人の言もある。『雨の日はソファで散歩』から。」人は人との関わりの中で仕事をし、余暇を楽しみ、生活全般わたる日々を過ごしています。ある組織に就職すれば、必ずや人とのコミュニケーションがあり、世捨て人になることは到底出来ません。収入を得なければ経済的にも困窮してしまうし、個人営業にしても周囲との関係性が仕事になっていると言っても過言ではありません。その中で自分を深めようと何かに打ち込むことはなかなか大変で、家族が寝静まった深夜に一人の時間を確保している人も少なからずいるでしょう。私は退職するまで名刺を持たざるを得なかったし、組織内の人事もやっていたので、職員とのコミュニケーションは必須でした。その頃の私の創作活動や読書は専ら深夜で、眠い眼をこすりながら自分の世界を作っていました。私にとって世に隠れることは、自ら主体的に生きていくうえで絶対に必要なことであって、自分を取り戻す貴重な時間でもあったのです。仕事に埋没しているといつの間にか時間が経って、自分は右往左往しているだけで、自分本来の存在や生き甲斐を問うことがないと、ある日忽然と気づいたのです。まだ若かった私は自分のやりたい事と仕事の二束の草鞋生活をスタートさせました。内なる心に「深山幽谷」を作ることが、現在の私に繋がっていると思っています。
2024.01.21 Sunday
私の実家を解体する時に、大黒柱にしていた古木を工房に運び込んできました。それは実家が存在した証と言うより、私にとっては時を経た素材としての魅力があったからです。実家の大黒柱はたいした歴史はなく、しかもクギ穴も細かい枘もあり、古木としての値打ちは下がりますが、それでも素材の発するエネルギーに私は惹かれていました。日本の古民家には立派な梁や柱の構造体が剝き出しになったものがあり、そうした建築物に、私は憧れにも似た気持ちを持っているのです。私が高校生の頃に建築家を志したのは、まさに無垢な素材の魅力の虜になった経緯があったからです。建築家と言っても私の場合は現代工法の高層建築ではなく、村落の活性化にも繋げられるであろう木工素材の有効利用を考えたいと思ったことが契機になっていました。彫刻の道に変わったとしても、私は素材の魅力に憑りつかれていて、木や土は自然の恵みが齎した私たちの生活に近いモノとして認識しています。現在私は土を造形し、焼成した作品を作っていますが、粘土になる土は永く地層で育まれ、可塑性の高い物質になっています。古代から人間はそうした土を発見し、火によって高温で焼くことで、モノを貯蔵する器を作り出してきました。時を経た素材には魅力が詰まっていて、私は素材を作品化することで、それを導き出し、縄文時代から続く豊かな美的創造力に追従していく者になりたいという自覚があります。今日も朝から工房に籠って、土と対話し、それを彫り込み、土肌にアクセントをつけてきました。木を彫る行為もそうですが、土を削ったり膨らせたりしていると、無心になって時間が経つのを忘れる瞬間があります。それが何とも快いのです。頭が空っぽになるのは他の仕事ではなかなか見いだせない行為と言えそうです。時を経た素材を扱うことを、私は生涯をかけてやっていきます。
2024.01.20 Saturday
週末になりました。今週を振り返って創作活動について書いていきます。今週の日曜日は美大の卒業制作展に行ってきました。工房に出入りしている美大生が案内をしてくれました。若い世代の作品を見るのは興味が尽きません。学生たちの大きな可能性と力量不足が相まって、私にはいろいろな考えが浮かびます。今週は月曜日から今日の土曜日まで、相変わらず工房に通って制作三昧でしたが、手帳の記録を見ると結構寒いのに午後まで制作をしています。陶彫制作は多少変化をするのかなぁとも思っていて、彫り込み加飾で常に新しいデザインを追求しているので、午後までも制作を継続してしまう日が多かったのでしょう。今週は窯出しもしました。退職校長会が主催する「如月展」案内状の宛名印刷を行い、郵送もしました。「如月展」には「発掘~街灯A~」と「発掘~街灯B~」を出そうと思っています。これは小品ですが、照明が内蔵されています。照明点灯の自動センサーを取り付けなければならず、また再度梱包をやり直そうと思っています。私の車で運べる大きさなので、私一人で搬入搬出ができそうです。今週はRECORD制作を頑張っていて、毎晩遅くまでRECORDを作っていました。教職に就いていた頃は、夜遅くまでRECORDをやっていたのは日常でしたが、最近では夕方の時間帯にしていたので、深夜までRECORDをやっているのは昔に戻ったような気分です。読書も時間を決めてやっていて、今週は無理のない日々が送れていたような気がしています。
2024.01.19 Friday
私は月平均1,2回は映画館に足を運びます。映画には娯楽性のある楽しいものがあったり、社会性があって世情等を考えさせられるものもあります。娯楽的な作品や国際的な賞を獲得した作品は、マスコミの宣伝で知ることがあり、それを頼りに鑑賞に出かけます。社会に問題を問いかける作品は、自分から調べないとキャッチできないため、ネットであったり、新聞記事で情報を得ます。今月末は横浜のミニシアターに「ホロコースト証言シリーズ」3部作の3番目の作品を観に行こうと決めています。前2作は岩波ホールに観に行きました。こうした社会的な作品を、私は学生の頃より興味関心を持って観ていて、自らの感性や知性を豊かにしてくれるものと思っています。今日の朝日新聞夕刊の記事にも着目すべき文章がありました。「『近代国家の3大元素は国民、国土、国権』と学者はいう。そういえば、北朝鮮という国、国権の長の顔は頻繁に目にするけれど、国民の素顔はついぞ見かけない。これは、そのへんの事情を探るアメリカのドキュメンタリーである。脱北を巡る映像作品は少なくないけれど、これほど脱北の実態に迫る作品はおそらく他にない。~略~この作品は独裁国北朝鮮を素裸にする構えである。改めて私たちに問いかける。生きることについて、自由について、さらに戦火と災禍と万事劣化著しいこの世界の『身捨つるほどの祖国』について。」現在上映している映画「ビヨンド・ユートピア 脱北」の紹介文章ですが、今日付の他に12日付の夕刊にも本作の記事が掲載されていました。これも観に行こうと私は思っていますが、家内はこういう映画は苦手で、私一人で行く予定でいました。念のため文学に関心の高い教え子を誘ってみたら一緒に行きたいと言ってきたので、予定を合わせることにしました。世界には大変な課題を抱える国があることを再認識したいと思います。