2023.09.25 Monday
「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)の「第五章 風土学の歴史的考察」の中で気に留めた箇所をピックアップします。今回の➂では本書の最終論考として、歴史哲学で名を成したヘーゲルについて扱っています。「若いころのヘーゲルの主たる関心は『歴史』であった。そうしてそのころの民族宗教に関する論文ごときは、明らかにヘルデルの精神において書かれている。が、やがて彼の側では彼より若いシェリングの華やかな仕事が始まる。悟性的な範疇に反抗して直観の権利を主張し、物理的世界を精神的なるものの現われとして説くのである。この影響の下にヘーゲルの神秘的汎神論とも呼ばるべき根本思想が成立した。」ヘーゲルはあくまでも西洋人としての思考があり、著者はそれに関して満足できない箇所があるようです。「彼が、世界史をあくまでも欧州文化の歴史と見る立場に立ちながら、しかも欧州以外に眼を放ってその自然類型を考えなくてはならなかったところに、我々は充分の意義を見だし得るのである。もし彼にしてシナ文化やインド文化の充分な意義を理解し得るような時代にあったならば、彼はこれらの文化の地理的根底についてさらに深く考えねばならなかったであろうし、またそこに取り出される自然類型の意義をもさらに深く反省しなくてはならなかったであろう。従って彼の掲げた自然類型を比較的効果薄きものたらしめたのは、世界史に対する彼の眼界の狭小のゆえであって、自然類型の意義が少ないからではない。」西洋の考え方に染まった世界史観は、へーゲル以降も続いていて、ヘーゲルの論理を否定したところから始まったマルクスやラッツェルが登場してきます。その頃は国土学は国家を論じ、国家を地理的有機体として扱うようになり、次第に現代に近づいていくように本書の論考は進んでいきます。本書は昭和初期に脱稿しているので、グローバルな時代を生きる私たちまでは到達していませんが、それでも風土から考察するさまざまな事象が今も不変なものがあり、私は本書によってその本質に幾度となく気づかされてきました。本書は難解な箇所も多い書籍ですが、風土という身近なテーマだったために、何とか意味を咀嚼して理解が及びました。40年以上も自宅の書棚にあった書物を漸く読み終えました。
2023.09.24 Sunday
週末のNOTE(ブログ)には創作活動について書くことにしています。このところ毎日工房に通って陶彫制作に時間を割いていますが、視野が狭まっている感じが否めません。時折、美術館や博物館に足を運んでいることが刺激剤になって、自分の世界を一回り大きく捉えることが出来ていると思っています。制作と鑑賞が両輪となって創作活動が進んで行くというのが私の持論ですが、それは広い視野が持てるかどうかに関わっているのです。制作を暫く休んでみることも必要と思いますが、私の性格上それがなかなか出来ません。近視眼的な視点に気づくと、自ら戒めることもありますが、手さえ動かしていれば安心感が得られるという私の安直な考え方は、根本から反省をする必要がありそうです。今日の朝日新聞にこんな記事が掲載されていました。「内側で生きない。自分の力をギリギリの外側で測る。」これは「加藤登紀子のひらり一言」にあったもので、ベテラン歌手による格言のようなものです。「自分の可能性の想定範囲を小さく測らない。」という解説もあり、上記のようなことを考えている私の心には刺さりました。近視眼的な視点はつい内向きになり、自分を納得させるラインが低下します。たった一人で工房に籠っている弊害もあるのでしょうが、自分で自分の殻を打ち破らないと解決には至りません。学生時代は大学の彫塑工房に同じテーマで人体塑造をする学生たちが多数いて、お互いが競うような環境がありました。口に出して言わないものの、私は周囲の学生たちの作品をしっかり見取って、それぞれの欠如したところを把握していました。自分の作品は自分ではよく分からなかったくせに、他人の作品はよく見えていて、冷静な判断が出来ました。自分も他人からどう見えているのか気になるところもあり、その結果、内側で生きることはなかったのでした。それが自分の工房を持った途端に、自分に対して自己満足に浸ってしまうのはマズいなぁと思っています。自らを戒めながら今後も創作活動を継続していく、そんなことを思った一日でした。
2023.09.23 Saturday
週末になりました。今週も毎日工房に通い、朝から夕方まで陶彫制作に精を出していました。空調設備のない工房にいると、その日の気温や湿度に作業が左右されることがあります。今まで酷暑だったので、長く工房にいることが辛いと感じてきました。とりわけ午後は工房内に温度が籠るので、外より蒸し暑くなるのです。気温の上昇で陶土の乾燥が早くなり、そんな状況もあって、作業を休むことができなかったのでした。陶土に寄り添いながら接していると、暫し暑さを忘れることもありますが、それは精神的なものであって、身体を酷使していることに変わりありません。だからと言って作品が大いに進むことはなく、進度は坦々としています。私はこの積み重ねが良い結果を生むと信じてやっているのです。今週の後半になって漸く気温が下がってきました。それでも30度前後はあるし、湿度は相変わらず高いので、汗は滴っていますが、身体の負担はかなり軽減されています。今日は大型扇風機に身体が晒されていると、若干寒いと感じました。これで次第に涼しくなっていくのでしょうか。涼しくなれば朝から夕方まで精一杯創作活動に取り組むことができます。ただし、過去に幾度となく経験していますが、今までの酷暑の疲れが身体に蓄積されていて、涼しくなった当初はなかなか思うように身体が動いてくれないのです。ここで無理をするとその後の負荷が大きすぎて、健康を害することにもなりかねません。創作活動がやり易い気候になっても、身体を労わることを忘れてはならないと思います。というのも私は酷暑を凌いでも、その後に続く季節で体調を崩す傾向があるからです。どんなに悪い条件であっても私は終日休むことが出来ない性格のために、障害を乗り越えた後のことを心配しなければならないのです。ともかく今週後半は漸く秋がやってきたように感じました。
2023.09.22 Friday
「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)の「第五章 風土学の歴史的考察」の中で気に留めた箇所をピックアップします。今回は前回に続いてヘルゲルに関する➁です。「風土とは極限すれば地球上のそれぞれの土地に固有な、唯一のものなのである。それは鋭敏な観察によって叙述することはできても、普遍的な結論に到達せしめるものではない。それに対してこの風土から影響を受けるとされている人体が、また生理的な一般法則にのみ従うものではない。熱を受け取りまた送り出す仕方において、動物には種々の特性があり、人類にも地方的に相違がある。」それを踏まえてヘルデルは人間の精神の風土的な構造を明らかにしようとしたのでした。「まず第一には、人の感覚が風土的である。人がその日常生活において出合うものの特性は、同時に感覚の特性になる。~略~第二には、想像力が風土的である。すべての感性的民族はその国土において感受せるもののほかは表象や概念になし得ない。従って表象の仕方、把捉の仕方において風土的に限定せられている。~略~第三には、実践的な理解が風土的である。それは生活の仕方の必要から生じ、民族の精神、伝承、習慣を反映する。~略~第四には、感情や衝動が風土的である。それらは人間生活の状態とその組織とによって限定せられている。特に重大なのは人と人とを結びつける愛情である。~略~最後に幸福もまた風土的である。幸福はヘルデルにとって特に重要な概念であるが、彼においては文明あるいは文化は必ずしも幸福を意味しない。ただ素朴な、健やかな生の歓びこそ、真の幸福なのである。」ヘルゲルの論考に対して、歴史哲学に取り組んでいたカントが登場してきます。カントはヘルゲルの方法論が学的でないことを指摘しています。「哲学の領域からいつか詩の国に移行する」とカントは述べていますが、カントの批評哲学をもってすればもっともな批判であると思えます。著者はそれでもヘルゲルの論証を支持していて、概念の欠乏にも関わらず、ヘルゲルの全体直観に本書が多くの示唆を受けていると、私は感じました。今回はここまでにします。
2023.09.21 Thursday
「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)の「第五章 風土学の歴史的考察」の中で気に留めた箇所をピックアップします。第五章が本書の最終章になるため、じっくり読んでいきたいと考えて、本章を3つの単元に分けることにしました。ここでは歴史哲学という分野に着目していますが、その分野で有名なヘーゲルではなく、著者はヘルゲルを取り上げています。ヘルゲルは風土と人間の関わりに重要な先駆的業績を残した人らしく、冒頭にこんな文章がありました。「近世においてこの問題を特に取り上げたのは、歴史学精神科学の上に新時期を画したヘルゲルである。ちょうど啓蒙時代の合理主義的な文化解釈、悟性的な目的概念に導かれた歴史叙述、などが流行していた時代に、彼はおのおのの国民おのおのの時代の独自の価値を承認し、それを風土との連関において考察したのである。しかもそれが自然科学の力強い勃興の時代、従って認識論がただ自然科学の基礎づけにのみ努力していた時代に起こった、というところに、非常に大きい意義が認められる。彼以前にあっては自然環境と歴史(あるいは運命)との連関の問題は、自然科学的な見方と精神科学的な見方との無自覚的な混淆の下に取り扱われていた。彼はこの混淆に打ち克って、それを精神科学的な問題として立てようとしたのである。」その一般的な方法について論及したところがあります。「彼の『人類史の構想』は、当時の自然科学的知識にもとづいて、まず天体の世界における地球の位置から説き起こし、次いで地球上の動植物の組織、その中での人の組織の特性、従って人の存在の意義に説き及び、そこから種々の民族の特性に論じ入って行くのである。」壮大な捉えはさまざまな分野に及んでいきますが、私はほんの些細な箇所を扱ったちょっとした文章に惹かれました。「我々は日常生活においてすでにかかる人相学を使っている。慣れた医者は病人の態度や顔つきを見てその病気を直覚する。子供は相手の顔つきやそぶりから子供好きであるか否かを見破ってしまう。もっと一般的には、人の顔つきを見ただけでその人の心に渦巻いている感情を理解することができる。すなわち我々は普通に人相学的な眼を使って、形姿に開示されている精神を理解しているのである。このような日常生活的人相学情相学を学問的に純粋にしたのが彼の方法にほかならぬのである。」今回はここまでにします。