2023.12.22 Friday
20日付の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「胸や、顔面などという中心部に、塗り残されたキャンバス地があらわれている。赤瀬川原平」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「どんな『名画』も解釈に縛られずに飄々と見る美術家が眼をとめたのは、セザンヌの『坐る農夫』。いつもサクサクと筆を進める画家はなぜ画面のあちこちを塗り残したまま筆を擱いたのか。空白が画面の中心をも穿ち、存在の『全域が等価』になったことが重要だという。我流で見ると言いつつ『近代』をその深層で触診するところが出色。『赤瀬川原平の名画読本』から。」美術家赤瀬川原平の在りし日の活動を、私は調べ尽くし、出版された書籍は全部読み、展覧会にも足を運びました。彼が私の母校の先輩であることを知り、また私の親戚の住む近所に「ニラハウス」という自宅を建てていたことも知っていました。彼の評論も、深い内容を簡単なコトバで語っていて、その凄さに驚きます。著書「老人力」はそろそろ私にも実感できる部分があって、思わず苦笑してしまいます。さて、近代絵画の父セザンヌの近代を通り越して現代性に達したものが、存在の「全域が等価」を評した視点ではないかと考えます。塗り残しをそのまま完成としていたならば、まさに絵の具を塗る行為を示した現代絵画の領域です。セザンヌの時代には、造形の価値転換が図られた時代でしたが、それは対象をどう描いたかが問題であって、描いた部分と描かれていない部分を共存させることは、まだ革新すぎて誰も完成と認めなかったのではないかと察しています。現代人の眼において、まさに「全域が等価」になった世界観を見取って評価をするところが赤瀬川原平流の切れ味の鋭いところですが、セザンヌ自身は果たしてそこまで考えていたのでしょうか。
2023.12.21 Thursday
昨日、鎌倉にある神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「イメージと記号」展に行ってきました。学芸員によるテーマに従って、収蔵作品を集めた企画なので、本展では大掛かりな宣伝をすることもなく、図録も用意していないのですが、私個人としては、自分の若い頃を振り返る良い機会になり、また日本の戦後に興った前衛を見つめ直すことになりました。本展のパンフレットに掲載された文章を引用いたします。「新たに登場したのが、記号や幾何学を取り入れた理知的な美術の動向で、視覚を惑わすだまし絵のような表現や、量産されたマルチプル・オブジェが流行します。それは『見る』ことによって成りたつ美術の制度を問いかけ、作品のオリジナリティ(真性)を見直そうとするものでした。」本展の中で、私が一番惹かれたのは「S/P 後から来るC」という作品でした。これは若林奮ワールドと言える作品で、私が学んでいた大学の教壇に立っていた若林先生は、今でも私の造形に影響を及ぼしています。当時から先生の講義を聞いても私には理解できず、カタチをどう人が捉えるか、空間をどう理解するか、極めて個人的な哲学がそこにあるように思っています。大きなテーブル彫刻である「S/P 後から来るC」は、タイトルこそよく分かりませんが、表現したいものはテーブルの下面の造形にあるように思えました。テーブルの上面は板を張り合わせた木材と鉄板で、下を除くと下面に木材や鉄による突起物が多く接合されていて、主張はそこにあって、逆さまになって豊かな空間を形成しているように感じました。私もテーブル彫刻を作っています。テーブルを大地に見立てて、その下面には地中に埋もれた造形が存在しているというのが「発掘シリーズ」ですが、若林先生の造形はそう短絡的ではないように思えます。彫刻を下から覗くという視点も考慮しているのかもしれません。「イメージと記号」展は、昭和の時代に美術概念を問いかけた芸術家たちが、今も輝きを失わずに斬新な造形を提示している展覧会だと私は考えています。
2023.12.20 Wednesday
今日は工房での作業を休んで、鎌倉へ出かけました。同行してくれたのは文学に興味がある教え子で、幾度となく一緒に美術館に出かけています。彼女の視点が面白いと私は感じていて、実際、文学の学生コンクールでの受賞経験もあります。鎌倉は久しぶりに訪れました。小町通りは店が様変わりしていて、小町通りの入口近くにあったカウンターしかない小さなラーメン店がなくなっていました。コロナ禍で一旦落ち込んだ観光客が現在は増えつつあって、とりわけ外国人観光客は確実に増えている実感があります。食べ歩きができる店も多く、古くからあってリニューアルした喫茶店もありました。私たちは小さな食堂に入って生シラスと釜揚げシラスの二色丼を食べました。今日、鎌倉に来た目的は単なる散策ではなく、神奈川県立近代美術館で開催している「イメージと記号」展を見るためでした。県立近代美術館は本館がまだ修理中のため別館での開催でしたが、出品作家の充実ぶりが伺えて、私は満足を覚えました。出品作家は私が学生時代に活躍していた日本人アーティスト達で、若かった私に刺激を与えてくれたのでした。その頃、私は彫刻の基礎学習である人体塑造を作りながら、当時のアートの動向を探っていました。現代彫刻が持て囃されていた時代で、空間芸術の面白さにその先の未来を見ていました。自分の母校の教壇に立っていた故若林奮先生の作品は、今も私を刺激し続けています。実物を見て以外に大きいと感じたのは「S/P 後から来るC」と題された作品で、所謂テーブル彫刻でした。同行した教え子と共に彫刻の回りをウロウロしながら、何を表現したかったのか意見を出し合いました。教え子は多角的な視点を持って、この作品に限らず全ての作品を見るべきだと言っていました。うーん、成程。それも含めて展覧会についての別稿を起こそうかと考えています。今日の鎌倉散策は面白かったなぁと思いました。
2023.12.19 Tuesday
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の第2章「1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ」の中の「2 クレメンス八世治世下のローマ画壇 」の気になった箇所を取り上げます。「クレメンス八世(在位1592-1605)は反宗教改革の熱心な推進者であり、その治世下は美術史上きわめて多産で重要な変革期となった。~略~1600年の聖年に備えて多くの枢機卿がローマの教会を増改築し、装飾させた。反宗教改革の成功を祝すかのような盛大な造営や装飾事業が見られ、それらがバロック美術を開花させる契機となったのである。大規模な美術活動の中心となったローマには、仕事の機会を求めてイタリアのみならずヨーロッパ中から多くの才能ある芸術家が集まり、諸流派が混交して新たな美術が生み出された。その結果、18世紀半ばまでローマが西洋美術の中心地となった。」こうした動向を私はよく知らず、バロック美術に対して貧困な知識しか持ち合わせていないことを恥じています。「世紀のかわり目には、イエズス会においても血生臭い殉教を強調する必要がなくなり、美的な鑑賞に適したものが好まれるようになった、つまり反宗教改革の闘争的な精神がすでに和らいでいたことがわかる。こうした、『移行期』の画家たちとカラヴァッジョとの関係については、ほとんど明らかになっていない。しかし、カラヴァッジョは1603年の有名な『バリオーネ裁判』において、ローマ中の画家を知っていると証言していることから、同時代の作品には敏感に反応していたと思われる。~略~彼は同時代の後期マニエリスムや折衷派の画家を高く評価しているにもかかわらず、従来の研究では、ロンバルディアの伝統やミケランジェロやラファエロの古典が彼の画風に果たした役割を強調するあまり、同時代の画家の影響を軽視するきらいがあった。また、当時のローマ画壇については、本格的な研究がなされてこなかったという事情も、両者の関係を不明瞭にする一因となっている。16世紀末、教会や宮殿において膨大な美術作品が生産されたにもかかわらず、質的な低さのゆえに研究が立ち遅れ、その全貌や画家の事蹟についてはいまだ不明瞭な点が多い。」今回はここまでにします。
2023.12.18 Monday
先日、映画「鬼太郎誕生」というアニメ映画を観に行った日の夜に、私は久しぶりに夢を見ました。映画に登場した戦後復興期に都市化から取り残された農村風景が、どうやら私を刺激したらしく、私の夢には自分が幼い頃、近所の友達とよく遊んだ田畑が出てきました。事実、私の実家の前は、まだ舗装もされていないデコボコな道路があって、その脇には小川が流れ、田んぼが広がっていました。田んぼの畦道を行くと広い畑があり、さまざまな農作物を生産していました。その頃はスイカ泥棒もいました。そんなムラには因習も残っていたはずですが、私にはその記憶がありません。母は東京から嫁に来ていたので、きっといろいろなことがあったのでしょうが、私には何も言いませんでした。私の実家には、祖父母や父の2人の妹(つまり私の叔母)がまだ未婚で同居していたため、母はきっと苦労していたはずです。実家の近くには雑木林がいっぱいあって、苔むした地蔵もよく見かけました。私は土地の御霊を祀った場所に、畏れを抱きながら惹かれていたのは事実で、見えないものを感じる力があればいいのにと思っていました。そんな私の怪奇趣味を両親は嫌っていて、友人から借りた「墓場鬼太郎」など読むのは止めろと言われました。ただし、私の住む横浜は都心に近く、田畑や雑木林は忽ち開発されて宅地になっていきました。横浜が都心に通勤する人たちのベッドタウンになっていくのを見るにつけ、私は小さな地蔵や稲荷はどこへいってしまったのだろうと思っていました。捨てられていた稲荷を拾って裏山に据えたと祖母が言っていたのを私は覚えていて、これは大切にしないといけないと今も思っています。横浜は地方の農村ではないので、あっという間に都市化が進み、今では港周辺は観光地として成立しています。私の朧げな記憶も消えかけています。でも日本古来が発祥となる幻を尊ぶ文化は、どこかで残したいと私は考えていて、絵巻物などに表現された魑魅魍魎が跋扈する世界を忘れてはならないと思います。