2024.04.10 Wednesday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「イマージュの反抗」について気を留めた箇所をピックアップいたします。本単元には「シュルレアリストの文章」という副題がありました。「シュルレアリストは言語にたいして、象徴主義ならびにその後のあらゆる象徴主義者が取ったような迷信を持たないのです。このことは時の進むにしたがって、明確なものとなっています。マラルメのいわゆる捕捉しがたいものの効果は、象徴あるいは比喩の音楽的用法によるものでした。しかしランボーにあっては、感覚の類似や一致というような手ぬるいものではなく、まったく新しい感覚を創造することが企てられたのでした。彼が言語の錬金術と呼んだところのものです。~略~シュルレアリスムは、いたずらに奇異な表現を好むものでもなく、言語の遊戯者に終るものでもないことはあきらかです。アンドレ・ブルトンや他の詩人たちが『溶解する魚』や『磁場』のような自動筆記の文章や夢の記録を発表したときはさまざまな誤解を受けたものでした。詩人のしゃべるすべてが詩になるといったダダイストのアナルシックな宣言から、かれらは一歩すすんで、あらゆる現実の統制を斥けた状態で書くことをこころみたのです。これはいいかえると、ランボーの思想の組織化の計画に第一歩を印したものだといえるでしょう。ブルトンが、二つの距った、あるいは互いに矛盾した像を無意識の力で結合したとき、電磁気のように、精神的な火花を散らすといったのは、結局影像の具体性の力であり、無意識裡に捕ええた人間の矛盾の秘密です。」夢の記述というのがシュルレアリスムには度々登場して、それが芸術の創造に関与していると、私は他の書籍より学んでいます。「われわれは、夢のなかではこれに(文章の前にポール・エリュアールの例文がありました)似た現象に平気で直面するのですが、夢のあとにはすぐに黒い忘却と不思議な悔恨とに蔽われてしまいます。『ポエジーはただ平等にする目的でのみ矛盾を使用し、けっして自己満足に終らない。』この不易の信念をもとにシュルレアリストたちは実験の範囲を拡大してゆくのです。それはすでに、文学としての文章の改革とか表現手法の問題を超えて、もっと広い人間模様の実験の領域にはいるものなのです。」今回はここまでにします。
2024.04.09 Tuesday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「詩の全体性」について気を留めた箇所をピックアップいたします。これは上田敏雄著「仮説の運動」についての評論ですが、シュルレアリスム系の詩人瀧口修造が、上田敏雄の現代詩を論じる図式が、私にとって難解過ぎて、理解が覚束ない状況になるのではないかと危惧しています。「上田敏雄氏の活動性は『仮説の運動』で一頂点に達しているのではなかろうか。これはおそらく氏の原理的主張がその詩作に決定的性格を与えようとしているからである。初期の詩の表現主義的表現、絶対的な印象の作品から発達した最近の俳優的態度の作品は疑いなく氏の現在の詩的成立の結果である。」上田敏雄の詩を読んでいない私には、詩的世界を想像で補うしかないのですが、俳優的態度の作品とはどんなものでしょうか。「上田氏はひとつの思想表現を持つ。それは機械的である。それは上田敏雄氏における文明操作ということができるであろう。しかし氏はこの地点で厳に現実と対立的となる。~略~氏の芸術は反対色のあるいはとくに近似色の現象を呈する。しかしそこに鮮烈な光線を放射することは誰れもが認めるところであろう。そしてそこに氏のあらゆる優雅なあるいはあらゆる恐るべき運動が出現する。事実上、上田氏は明白な俳優の原理を実行している。そのような場合、いかなる官能の代弁が必要とされるであろうか。単に官能は俳優の行為を行なうにすぎない。そこに主観は永遠に表出されず、しかしついに明瞭な組織の文明が展開される。」多少、上田敏雄の詩的世界が見えてきたように思います。詩は私にとって魅力的であってもなかなか自分の世界観が構築できずにいます。造形美術の基本となる形態と色彩は、自分なりの意図や意味を持たせられるのに、詩は語彙を駆使するために、そこには意味が存在し、そこに自分なりの世界観を培うことが出来ないのです。本単元を読みながら、そんなことが頭を過りました。
2024.04.08 Monday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「アルチュール・ランボー」について書かれた単元の気を留めた箇所をピックアップいたします。その前にランボーとは何者か、ネットからの記事を掲載いたします。「ランボーはフランス象徴派の詩人。 早熟の才を示し、16歳で初期詩篇を書き、文学界を驚かせる。 20歳で文学と縁を切り、世界を放浪。 アフリカで交易に従事し、37歳で逝去。」というのが早熟の天才詩人ランボーの略歴です。本単元ではランボーの代表作品「地獄の季節」の小林秀雄訳を取り上げています。「ランボーほど熾烈に〈日〉と〈夜〉との真理を等分にもっていた詩人はない。それは、彼の実験室を曝露した原因である。そしてまた、彼の領域が公衆の領域に混合する原因のようにも見える。『不眠の夜々』『平凡な夜曲』などにあらわれた幻覚は〈清々しい夢〉の連続である。〈あらゆる面貌を備え、あらゆる性格を持った、様々な存在を孕み群をなす感情の烈しく速かな夢。〉である。〈結構を持ち、諧調を持ったあらゆる可能性は、お前の椅子の周りを動くだろう。予見を許さぬ、完璧な諸存在が、お前の様々な経験に献げられるだろう。お前の記憶と感覚とは、正しくお前の創造する衝動の栄養となるだろう。…〉しかし彼が肯定した実在は正確にいってない。彼が残したのは方法のみである。」本単元では翻訳者に対しても労をねぎらう箇所がありました。「(翻訳しえないという性質はそれ自身絶対的のものではないから、この点についても、この努力された翻訳に対して、わたしは別個の敬意を払うものである。)わたしが方法といったことは単に作詩法に終始する問題ではない。むしろ彼は純粋詩というような腐蝕性の観念には永遠に無縁の詩人である。」外国語で表現された詩をいかに日本語に置き換えるか、むしろその言語の意味するところをよく理解して意訳をしていかないと私たちに伝わらないのではないかと、私は考えています。造形美術以上に、詩としてのコトバの感覚が異文化によって異なるのではないかと察するからです。
2024.04.07 Sunday
日曜日になり、創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていきます。現在私が作っている陶彫作品は365点で構成する集合彫刻ですが、従来の私が作ってきた集合彫刻とは違ったコンセプトがあります。従来の集合彫刻とは、単体で見せる作品ではなく、全体の彫刻を形成する部品を組み合わせて作っていくものです。私が集合彫刻を作ろうとした意図は、陶を素材として使うのを決めたことで、この方法を採用せざるを得なかったのでした。陶は焼成を要するので、窯内の大きさに限界があり、巨大なものを作るとすれば、陶彫部品を数多く作って組み合わせるしか方法がなく、ましてや私の「発掘シリーズ」は古代の住居跡のような空間のイメージがあったので、全体のイメージを分解し、それぞれの部品を何回かに分けて制作し、焼成後に集合させたのでした。ところが2年前より作っている陶彫立方体は、それぞれが独立した単体で、同じサイズで統一した作品です。それを場に応じて集合させたり、拡散させたりして見せていく集合彫刻なのです。従来の集合彫刻ならば、部品が一つ足りなければ、そこがポッカリ空いて構成が成り立たなくなりますが、現行作品ではそれがありません。これは集合彫刻と言えども、かなり大きな違いがあると考えます。この陶彫立方体は限りなく作っていかれるものですが、1年間という範囲限定をして、ひとつずつに日付を刻印することにしました。私としては従来にない考え方で作っているのですが、日付があるといっても日記性を持ちこむことについてはやや希薄です。正直に言えばあくまでも1年間という範囲限定をしただけに過ぎません。これは従来の集合彫刻とは違ったコンセプトで作ったことが、私にとっては重要なのです。
2024.04.06 Saturday
4月に入って最初の週末を迎えました。今週を振り返ると、陶彫制作に拍車をかけた1週間を過ごしました。工房で過ごす時間は基本的に午前9時から午後3時までにしていましたが、日によっては3時以降になることもあって、陶彫立方体を頑張って作っていました。春休みが最後を迎えた美大生も毎日工房に顔を出し、自らの課題や来月予定しているグループ展の作品を作っていました。春になって寒暖差は激しいものの真冬のような寒さはなく、作業をするのに適した季節になったと感じています。桜が開花を迎え、工房周囲の花々が咲き始めました。遠くの山にもところどころに桜があったのかと花が咲いたので気づきました。これはまさに日本の風景だなぁと思います。私の手元には陶土があって、これも日本文化を担う重要な素材のひとつです。表現分野としては彫刻ですが、毎日陶土を触っている私は日本人として自覚があるとも言えます。毎日来ている美大生は染めのデザインとして植物デッサンをしたり、平面構成をやっているので、彼女も日本人らしいことをやっています。今月に入ってシュルレアリスムについての書籍を読み始めました。こればかりはヨーロッパ発祥の芸術運動なのですが、日本人にシュルレアリスムがよく浸透しているところを見ると、日本人はシュルレアリスムが性に合っているのかもしれません。私の自宅の書棚にもシュルレアリスム関係の書籍が数多く並んでいます。ただし、詩的文体で綴られた文章は瀧口修造だろうとアンドレ・ブルトンだろうと私にとって難解であり、同じ匂いが漂います。そんな難解さと闘いながら書籍を読んでいこうと思っています。