2024.04.25 Thursday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「シュルレアリスムの作家像」について気になった箇所をピックアップいたします。ただし、本章は個々の芸術家の言葉を掲載しているため、前後半に分けて書いていきます。今日は芸術家の言葉の前に、その導入としての論考を中心にしていきます。まずシュルレアリスムで使われる技法の解説から。「コラージュとは、いわば既成の絵を切り抜いた貼り合わせ絵である。~略~ブルトンは『平凡な銅像でも溝のなかに立っていると驚異の対象となる。平常な位置から対象を追放して夢のなかでしか見られないような、異常な位置に置くことが芸術の重要な機能である』といっているように、コラージュは超現実主義詩法の完全な絵画的適用であるといわねばならない。」次にフロッタージュについて。「フロッタージュ(摩擦画)はエルンストの発見した手法であって、子供がよく銅貨や木理に紙を当てて鉛筆を擦って遊ぶ手法である。~略~近代絵画における触覚の役割は非常に大きなものであるが、彼はこの触覚的な苛立たしさのいわばネガティヴを取るために、あらゆる材質に応用して見た。これは物質に内在する不思議な呟きを触発するのであった。」次はダリの絵画論について書かれた箇所を引用いたします。「彼は偏執狂的な絵画によって、ヨーロッパの絵画史を作りかえているのだ。近代絵画は立体派以後、造型的様式はいよいよアブストラクトな傾向を帯びて来たのであるが、ダリはむしろこうした系統の全き対蹠点に位置している。彼はイギリスのラファエル前派に関する特異な論文のなかで、セザンヌの林檎はプラトニックな食べられないゴツゴツしたものであるが、ラファエル前派の描いたそれは水々しく形態的にも真に重力と弾力をもった感性的な林檎であると歎賞しているのは、現代絵画の形態学に興味ある暗示を与えるのである。彼の一定義にしたがえば『美は可食的である』ということになる。」今回はここまでにします。
2024.04.24 Wednesday
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「現代の美学的凝結」について気になった箇所をピックアップいたします。「超現実主義はまず、現代の詩と造型芸術とにもっとも新鮮な生命力を注入すると同時に、エスプリの解放に寄与せんことを望むものである。」本単元には、シュルレアリスムが取り上げているオブジェについての考察があり、そうした物体、とりわけレディメイド(既製品)に関する論考に、私は常に関心を寄せてきました。既製品を本来の用途ではなく、芸術作品として扱ったことは、芸術を学び始めた当時の私には驚きであり、自分が大学で人体塑造をやる意義さえ分からなくなっていたのでした。とは言え、その頃の自分の習作に対し、私は芸術的概念を持ち合わせていなかったので、視野を広げることを自制せざるを得ず、大学で学ぶことと社会で起こっていることが乖離している状況を受け入れていました。本書に戻ります。「もっとも注目すべきものとして、オブジェ(物体)の発見がある。この実験はダリの提唱した〈象徴的機能の物体〉に発したものであるが、既製品の物体の非合理的な再創造が、言語影像、絵画影像における場合と同じく、不可思議な凝結の幻影を形づくることを証明するのである。そしてひいては自然におけるオートマティスムの発見にまで到達する。〈捨得物あるいは発見されたオブジェ〉がそれである。こうした物体再発見の実験は、人間と対象との交通のための公有道路を見出したものであり、造型美術の領域にあっては、対象と材料の不当な極限、ジャンルの不当な防壁を打破するものである。ここでも、超現実主義は、表現芸術を、人間の内部欲望の総体において解釈するものであることを示している。オブジェと詩とを結合したブルトンの〈物体詩〉のようなこころみは芸術の仮象的境界に驚異的な通路を暗示したものである。オブジェの再認識は、彫刻の観念を革命しつつある。ピカソ、ジャコメッティ、アルプ、エルンストなどの彫刻は従来の彫刻の観念をまったく破棄したものというべきである。」今回はここまでにします。
2024.04.23 Tuesday
今日は朝のうちに工房にある窯の温度確認に行き、それから地域の公立中学校で開催された学校運営協議会に参加してきました。そんな用事を午前中に済ませて、午後は家内と久しぶりに映画に行ってきました。観たのは劇場版スポーツアニメで、教え子が勧めてくれた「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」でした。私は社会性のあるドキュメンタリー映画に関心がありますが、娯楽性を盛り込んだアニメもよく観に行きます。「ハイキュー」はバレーボールのチームを描いた漫画で、「スラムダンク」のバスケットボールと双璧を成すドラマではないかと思っています。私は学校に勤めていたおかげで、部活動と密接な関わりがありました。勿論そのアニメになった部活動の顧問をやったことはありませんが、身近な生徒たちが一所懸命そのスポーツに励んでいたことを思い出します。部活動に打ち込むことによって個人の心身の成長も、チームとしての協調や結束も、教員の立場としてよくわかっています。しかも最近のアニメの技術は眼を見張るものがあり、その迅速な動きと視点の誘導に思わず引き込まれてしまい、息つく暇を与えてくれません。「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」も烏野高校と音駒高校という因縁の対決を、個々の選手を際立たせながら、巧みに描いていました。試合にはドラマがあり、肉弾線でありながら心理戦でもあります。体力に自信のある選手もいれば、冷静な判断をして戦略を練る選手もいます。違う個性が化学変化を起こし、チームを強くしていくのは、小さな人間社会を見るようです。昭和の時代のスポーツ漫画は、一人のヒーローが全てを解決していましたが、現代のスポーツ漫画には万能なヒーローが存在しません。しかもライバルを丁寧に描くことで、試合のリアルさが増しています。映画が短く感じたのは、それなりに面白かった証だろうと思っています。今日は充実した一日を過ごしました。
2024.04.22 Monday
トラ吉は我が家に来て17年が経ちました。亡父の残した植木畑の中で泣いていて、それを私が発見したのが始まりです。まだ掌に乗る生まれたての子猫だったのですが、保護せざるを得ない状況で、動物病院に預かってもらうはずが、結局我が家で飼うことになった経緯があります。トラ吉は元気いっぱいで、よく食べ、よく排泄し、家中を駆け回っていたのですが、先々週くらいから足腰が立たなくなり、ここ数日間は何も食べず飲まずで、次第に身体が弱っていきました。昨晩息を引き取ったようで、今朝はペット火葬をやっている業者に連絡し、火葬車で自宅まで来ていただきました。私は幼少時に実家で猫を飼っていた経験があります。外にいた野良猫に母や祖母が人の食べ残しの餌を与えていたので、ペットと言えるかどうか分かりませんが、いつの間にかその猫が実家に来なくなり、裏山で死んでいるのを父が発見しました。その場で父が穴を掘って猫を埋葬しました。自分がペットとしての意識を持って飼い始めたのは兎です。この兎は、近隣にあるスポーツ施設に籠に入れて捨てられていたのを私が拾ってきたのでした。兎は数年我が家にいて亡くなりましたが、その時は亡父の植木畑に私が穴を掘って埋葬しました。今回のトラ吉は17年間寄り添った家族として、きちんと火葬をしなければならないかなぁと思ったのでした。私も家内もペットショップで動物を買ったことはありません。保護せざるを得ない状況があって、その動物を飼うはめになったというのが私たちのペット歴ですが、飼う以上は最期まで面倒を見るのが自分の信条です。私たちはペットロスを心配していますが、猫が20年近く生きることを考えれば、もうペットは飼わないかなぁと思っています。彫刻家の師匠池田宗弘先生も多数の猫の面倒を見ていて、私が大学に入って初めて目にしたのが、先生が展覧会に出品した真鍮直付けの作品で、複数の瘦せ細った猫たちがひとつの餌を狙って歩み寄る情景を作ったものでした。私の創作活動も猫の作品を見たことで本格的に始まったので、猫には何か縁があるのかもしれません。
2024.04.21 Sunday
週末の日曜日になりました。週末には創作活動について書くことにしています。1週間前になりますが、「ブランクーシ展」で見た金属による抽象彫刻のことに触れたいと思っています。現在の眼から見れば、磨き抜かれたシンプルな彫刻は、この彫刻が作られた当時に比べれば、どこにでもある形体になっていて、量産されている工業製品のようにも見えてしまいます。ブランクーシが飛行機の展示会に行き、そこで目にしたプロペラを見て、今後彫刻を作る必要があるかを他の芸術家に問う場面があったことが、どこかの書籍に書かれていました。確かにステンレスやアルミ等の工業素材を彫刻に使用するとなると、工業デザインとの関わりがあるだろうと思います。デザインとアートでは用途があるかどうかの違いはあっても、彫刻によっては、美術館で見れば芸術作品として認知したとしても、その形体が別の場所に置かれていれば、果たしてそれが芸術作品として認知されるかどうか、一般の人の眼から見れば、分からないのではないかと思うのです。本音を言えば、私がステンレスやアルミ等の工業素材を作品に使わない原因がそこにあります。私の学生時代は、教壇に立っていた教授たちがステンレスやアルミ等を使った大きな彫刻作品を野外に展示して、それが美術雑誌等で話題になっていました。私もそれがカッコ良く見えて、自分も将来はそんな建築性が強く、磨き抜かれた作品を野外に置きたいなぁと思っていました。私は元々工業デザイナー志望で、自動車のシャープなデザインを作るのが憧れでもあり、それを止めて彫刻に変えたのですが、それならデザイナーとして頑張っていても良かったかもしれないと思うこともありました。現在私が使っている焼き締めの陶土は、さすがに工業製品とは言えず、寧ろ原始性の強い素材です。土器か陶彫にしかならない素材を私が愛用しているのは、そんな要因があるのだろうと思っています。