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  • 思いが錯綜する3月に…
    思いが錯綜する3月になりました。錯綜と言うのは、今月いっぱいで私が退職を迎え、創作活動との二足の草鞋生活にピリオドを打つからです。私は昭和62年(1986)に横浜市の公務員になり、平成21年(2009)には管理職になって現在まで35年間勤めあげてきました。その間ずっと創作活動との二足の草鞋生活を送り、それが現在までの習慣になっています。東京銀座のギャラリーせいほうでの個展が始まったのが平成18年(2006)で、それから毎年陶彫による集合彫刻を発表し続けてきました。作業場として無くてはならない存在になっている相原工房は平成21年(2009)の夏に完成し、同年9月20日付のNOTE(ブログ)に「相原工房の出発」という文章を掲載しています。それまでは作業場を借りていて、道具を揃えるのも一苦労でした。最初から現在の形でやっているわけではないことを確認していくうちに、複雑な思いが込み上げてきて、タイトルにある通り思いが錯綜することになりました。泣いても笑っても残り1ヶ月。来月から新しい生活形態が始まります。今は最後の二足の草鞋生活を思いっきり楽しんで過ごそうと考えています。今月の制作目標は別稿を起こします。今月は公務員管理職としての職務整理をきっちりしていかなければなりません。35年前に海外から帰国したばかりの放浪癖のある若者を雇ってくれた横浜市に感謝を込めて、しっかりと次の方に引き継ぎをしていきます。二足の草鞋生活をしていくために、それが職務に影響してはいけないと、私は仕事を人一倍やってきたつもりです。負い目をバネに仕事に励んできましたが、その原動力を来月から根本的に見直さなければならない時期にやってきたと自覚しています。今月は錯綜する思いを整理して、次のステップに備えたいと思います。
    週末 2月を振り返って…
    今日で2月が終わります。週末で朝から工房に籠りましたが、今日の制作状況と併せて今月を振り返ってみたいと思います。今日は陶彫成形を1点、彫り込み加飾も行いました。晴天で梅の花が青空に映える一日でしたが、気温は寒くストーブで手を温めながら作業をしていました。いつものように美大受験生がデッサンをやりにきていました。この季節は三寒四温とは言うけれど、気温の幅が大きくて辛いときもあります。今月は4回の週末や建国記念の日や天皇誕生日を含めると10日間の休日がありました。全て創作活動に費やし、制作サイクルを回していきました。創作活動に関してはまずまず頑張ったと思っています。鑑賞では「日本のたてもの」展(東京国立博物館)、「河鍋暁斎の底力」展(東京ステーションギャラリー)に行って来ました。コロナ渦の中で展覧会に行くのも慎重にならざるを得ない状況でしたが、鬱々としていた気分が晴れて、美術展の威力に改めて驚きました。映画や演劇にはまだ行けないのですが、アートの力には精神を救済するパワーがあるのを実感しました。首都圏では緊急事態宣言がまだ継続していて、行動が自由にはなりませんが、来月も展覧会を選択して出かけたいと思っています。ただ少ない外的情報の中で、自分の思索が内面に向けられていたことも確かで、職場に持ち込んだ論理学の難解な書籍をじっくり読む機会が与えられていたのではないかと思っていました。一日1点制作のRECORDにしても、精神的疲労の多い日常の中で何とか挽回しながら追いついて制作に励んでいました。日常生活では外食が減り、家内が毎晩夕食に腕を振るっていました。料理をじっくり味わうことが出来たり、飼い猫と戯れることが出来たのは、コロナ渦が齎せたものかもしれません。私は元々仕事人間ではなく、管理職という立場であっても、日頃から創作活動に励み、読書を楽しみ、美術館や映画館に出かけていく趣味人でもあると自負しています。余暇がなければ生きていかれないとさえ思っているのです。そういう意味で私には精神的なダウンはありません。どんな状況になっても創作活動という支えは、私に生きがいを齎せてくれます。今月はそんなことを考えた1ヶ月でもありました。
    週末 陶彫成形の準備
    やっと週末になりました。職場ではいよいよ来年度に向けた取り組みが始まり、私は来年度人事に着手しました。管理職として全職員の適材適所を見極め、人事を決定することは、私にしてみれば年間を通じた一番大きな仕事です。これがあるからこそ私がここにいるのだと思っています。まだ実際に人事を動かすのは始まったばかりですが、この1週間はとても疲れました。天皇誕生日で一日休みがあっても、夜の時間帯に自宅でRECORD制作が辛くなるほど、昼間の仕事の負担が増しているのだろうと感じています。やっと週末になり、ウィークディの仕事から解放されましたが、今度は創作活動という世界が私に休息を与えてくれません。これが二足の草鞋生活の実態で、私が昔から慣れ親しんだ激務とも言えます。さて、創作活動ですが、新作の陶彫が制作サイクルに従って回っている最中です。今日は朝から工房に篭りました。土曜日の予定としては土練り、タタラを準備していくのが定番です。これを明日の陶彫成形に繋げていくのです。ウィークディの仕事の疲れがあっても、今日の制作ノルマを達成していくまでは工房を出ることが出来ませんでした。土練りにしても大きなタタラを準備するにしても、今日は肉体労働で神経を使うものではありません。ウィークディの疲れはそこで解消されていくのを実感しました。身体を動かすのは実材を扱う彫刻の良い面でもあると思います。素材に触れていることがストレス解消になっているのかもしれません。二束の草鞋生活になっている双方の世界が真逆にあることが私を救っているとも思っています。今日は夕方になって工房を出てから、自宅でRECORDを制作しました。1週間の遅れを取り戻そうとRECORDも懸命に取り組みました。
    「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第85節~第86節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第85節から第86節までを読み解いていこうと思います。ここでまた判断論の掘り下げた論考が登場します。「判断の意味の成立を開示することは、もっと正確に言えば〈明示された意味の中に含まれており、しかも本質的にその意味に属している意味の諸契機を開明すること〉と同じである。《構成》または《成立》の既製の産物としての判断については、その構成ないし成立を問いうるし、問わねばならない。このような産物としての判断は、それ自身の意味内包として一種の歴史性を内蔵する意味だ、ということ、それら諸判断の内部では段階的に、意味は根源的な意味と、それに属するノエマ的な志向性とを回帰的に指示していること、したがってわれわれはどの意味形成物についても、その形成物にとって本質的な意味の歴史を問いうること、これらのことこそまさに、このような産物の本質特性である。」次に経験の明証性が登場します。「形式的な分析論はその分野と理論については、可能な諸判断と諸真理の諸形式だけを扱うのであるから、そこでは明証性と経験については何も表面に出ないとしても、やはり志向的な各能作の根本的な方法に向けられる主観的な《認識批判的》な諸研究においては、形式的分析論も、明証または確証の範疇的な各媒体を探究し、それらに基づいて根源的な諸判断の能作を解明しなければならない。われわれが見るとおり、それらの研究を通してあらゆる真理と、あらゆる判断の明証性が、経験という根元的な基盤へ回帰的に関係づけられるのである。」私自身の頭脳の巡りが悪いせいか、明証性に対して、また判断に対しても、小節ごとの相違が分からなくなっています。部分的に言わんとすることは分かっても、これはどこかで論じられてきた気がするし、微細なところまで論理が入ってしまうと、その襞に私の思考では食らいつくことができません。難解なのはこうした論考の用いられ方かなぁと思っています。
    「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第82節~第84節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に今日から入ります。これも第3章同様に題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第82節から第84節までを読み解いていこうと思います。最初に還元という語彙が出てきます。まず冒頭に「われわれが最初になすべきことは判断から判断の基体への回帰、諸真理からそれらの関連対象への回帰でなければならない。」という問いかけがありました。「現実の判断も可能な判断もそれらはどれも、われわれがその統語の仕方を調べてみると、究極の核へ立ち帰ること、したがって〈どの判断も最後には、もはや何の統語の仕方も含まぬ複数の要素的な核からなる、一つの統語論的な構造であり、場合によっては非常に間接的な構造でもありうること〉を、アプリオリに洞察しなければならない。」また「還元とは、われわれが純粋に思念と追跡して、究極的な或るものの思念内容に到達すること、すなわち何よりもまず、思念された判断の対象について、思念された絶対的な論題の対象へ到達することであり、そしてさらに、さまざまな段階の判断が構築される基盤となる究極の諸判断の場合には、意味の範疇的な根本的諸変化へ、すなわち絶対的な或るものへ、意味としての絶対的な諸特性、諸関係などへ回帰することである。」とありました。次に諸真理の類似した還元についてです。「判断が究極的な意味をもつ究極的な判断へ還元されるのに対応して、真理も高次の段階の真理から最低段階の真理へ、すなわち諸事象とそれらの各領野に直接関係する真理へ還元される。換言すれば、そこでは各基体が指導的な役割を果たしているのであるから、それぞれの対象領野に含まれている個々の対象と関係する真理へ還元されるーちなみに個々の諸対象とは、それら自身の内に判断の統語を少しも含まず、しかもそれら自身の経験可能な現存在についてはあらゆる判断作用に先だって存在するものである。」次に明証性の階層についての論考です。「種々の判断とそれらの判断意味の階層には種々の明証性の階層が随伴しており、本来最初の各真理と明証性は、個物のそれらでなければならない。〈明証性の、しかも実際に最も根源的な明証性、すなわちその各基体と各事態を根源的にまったく直接把握する明証性という形式で、主観的に形成される各判断〉はアプリオリに個物判断でなければならない。」今回はここまでにします。