2021.03.16 Tuesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」に今日から入ります。本書はこの第7章をもって本論が終わります。今回は第101節から第103節までを読み解いていきます。最初に理性の超越論的現象学としての論理学の主観的基礎づけという単元の中で、論理学的理性についての問いかけがありました。「われわれは果てしない疑問ゲームに陥るのではなかろうか?例えば論理学的理性についての理論はどのようにして可能か?というような次の疑問が否応なくすぐに出て来るのではなかろうか。このことについてのわれわれの最新の研究は〈その理論はその根本的な可能性を超越論的現象学全体の枠組みの中の、この理性の現象学として保持している〉と回答している。」さらに「究極の論理学は理論としての客観的論理学のすべての原理を、それら自身の根源的で合法的な超越論的ー現象学的な意味へ引き戻して、その論理学に真の学問性を付与するだけではない。究極の論理学はこの目標に向かって段階的に努力することなどによって当然、拡充されることになる。」とありました。また超越論的主観性についての普遍学の中での可能性について「超越論的主観性の中では、想定されるすべての学問が実際にも可能性としても本質的に予示されている超越論的な諸形態であり、自由な作動が予め指定されて実現される超越論的主観性についての普遍的な学問は、絶対的な無前提性と先入見のない状態での認識の基礎づけの理想にも、合法的な意味と唯一想定される意味を与えている。」とありました。今回はここまでにしますが、本論は私の教養程度では到底まとめられるものではなく、読んでいくうちに自分なりに気に留まった箇所にラインを引いて、それをピックアップすることでNOTE(ブログ)にしています。NOTE(ブログ)を読んでいる人は前後の意味が掴めないままで、引用した文章が難解になっていることは承知しています。もう少し端的なコトバで書くのがいいのでしょうが、文章を読み解くのが今の私の限界と思っています。
2021.03.15 Monday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第100節を読み解いていきます。この節では歴史に残る哲学者たちが登場していますが、大きく取り上げられていたのはヒュームとカントでした。超越論的哲学の発展の中でヒュームの偉大さがあったようです。「彼こそが超越論的哲学の普遍的な具体的問題を把握した最初の人であり、初めて彼が純粋に自我論的な内面性を具象化して、彼の見解ではすべての客観的事物が主観的に発生したことが意識され、しかも最善の場合には経験されて、まさにこの客観的事物が自己発生の形成物として究明され、この最終的な根源から、われわれにとって存在する諸事物すべての正当な存在意味が理解可能にされるのである。」一方、カントは「彼は形式論理学(推論式論)すなわち彼の言う《純粋な一般》論理学を、あのイギリス経験論のように、無価値なスコラ哲学の遺物とは見ておらず、さらにあの経験論のように(カントが形式論理学について認めるように)論理学のイデア性についての心理学主義的な曲解によって、論理学からその固有の真の意味を奪っている。しかし彼は〈形式論理学には超越論的な諸疑問を提起せず、そのような疑問を超越させる特殊なアプリオリがある〉としている。」とありました。またカントの不十分な部分の指摘もありました。「カント自身はアリストテレス的な伝統の核心的な諸部分を顧慮して、論理学のアプリオリな性格を、すなわち論理学が経験心理学的な一切の事柄から純粋なことや、したがって論理学を経験論と関係づけるのは倒錯であることも明確に認識していたのに、そのカントでさえ論理学のイデア性本来の意味を把握していなかったのである。」さらに「広狭両義の客観的論理学がイデア的な各対象性の分野について提起せざるをえない超越論的な問題は、実在性についての諸科学の超越論的な諸問題と、すなわち諸実在の各領域についての、したがって特にヒュームとカントが論考した自然についての超越論的な諸問題と並行している。」とありました。「いずれにせよ確実だと思えるのは、カントと新カント派の彼の後継者たちの超越論的哲学の歴史的な諸形態が、真の超越論的哲学の重要な前段階を示していながら、イデア的な諸世界の、特に論理学的な諸世界についての超越論的な考察への移行を促すのに適していなかったことである。」今回はここまでにしますが、第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」は以上で終了です。
2021.03.14 Sunday
今日の天気は昨日の雨風が嘘のように晴れわたり、気温も上昇しました。工房に流れているFMラジオから、東京の桜の開花宣言があったと報道されていました。気温だけを考えれば春爛漫と言える季節になりました。工房のストーブも終日点けずに作業が出来ました。今日は昨日より身体が動きました。本来なら制作サイクルを回して、新たな陶彫成形を行うところですが、昨日からちょっと足踏みをして、制作サイクルを1週間遅らせました。陶彫成形が終わった作品がいくつかあって、彫り込み加飾に追われていたため、制作工程を多少替えました。職場での仕事が多忙を極めている昨今の事情と、来月から毎日でも工房に通える状況を考えれば、制作工程が遅れ気味でも例年のような焦りはないのです。それより陶土の乾燥具合を確かめながら彫り込み加飾を優先した方が良いと判断しました。彫り込み加飾が完全に終わっている作品も数点あり、それらの乾燥が進んでいるため、午後はそれら陶彫部品2点の表面にヤスリをかけ、化粧掛けを施しました。久しぶりに窯に入れる準備をしていました。ちょうどその頃、窯の業者が工房にやってきて、焼成窯の様子を見ていきました。彼は既に一線を退いていて、たまに工房に話をしに来るのです。彼や次世代の業者たちに私は支えられてきました。窯のメンテナンスもこうした人たちがいるおかげでやっていただいているのです。今日はいつも来ている美大受験生もデッサンを描きに来ていました。来月になったら彼女には受験生の通うアトリエに行くように勧めました。同世代の人たちと競い合う機会が必要と私は思っています。工房は自分のペースでゆっくりやれるので、制限時間が決められている実技の受験には向いていません。工房は静かに時間が流れていて、個人のペースに応じてじっくり取り組むのには都合が良いのですが、競争にはそれなりの環境に身を置く必要があります。今日も夕方まで作業を頑張り、受験生を車で自宅近くまで送っていきました。今日窯入れした作品2点は、水曜日に焼成が終わります。
2021.03.13 Saturday
今週は職場で儀礼的なイベントがあり、また来年度人事が始まったこともあり、その他諸々のことで心身共に疲労してしまいました。帰宅した時の私の顔に疲労が滲み出ているせいか、家内にも心配される状況でした。管理職としては今が大変な時で、これを乗り切らないと先へは進めません。歯の奥にある神経がぼんやりと痛んでいて、私の疲れのバロメーターになっています。この役職を何年やってきても、人を動かす仕事は慣れるものではありません。今日、やっと週末を迎えました。まだ職場には用事があって、午前中ちょっと顔を出しましたが、一日のほとんどを工房で過ごせる幸せが私にはあります。創作活動は職場とは違う意志が働きますが、それでも創作という別の世界を持っていられる私は幸運な人と言えます。今日は創作活動を利用して疲労回復を試みました。作りかけの陶彫部品に彫り込み加飾を施すため、陶土に触れていると私は非日常という別世界が広がってきて、素材との対話を始めていきます。自宅でゆっくり休んでいても職場の人事が頭から離れないので、どんなに疲労していても工房にやってきて、別世界の扉を開けることが私にとって癒しにもなります。私は何十年も彫刻のための素材と向き合ってきました。公務員管理職との二足の草鞋生活も残り僅かとなりましたが、これからはずっと彫刻のことを考えていられるわけで、私にとっては20代からの夢の実現になるのです。陶土を触りだすと周囲が気にならなくなり、時間や空間の概念がどこかへ飛んでいってしまうのです。ふと気がつくと雨風が激しく工房の外壁を叩いていました。ラジオから大雨警報が出ているというニュースが流れていました。駅前ビルに演奏に出かけた家内を迎えにいく時間が迫っていました。今日は疲労のため身体が今ひとつ動かずにいましたが、制作に集中した時間もあり、少しでも疲労が回復したように思えました。明日はどっぷり創作活動に浸って、陶彫制作を頑張りたいと思います。
2021.03.12 Friday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第98節から第99節までを読み解いていきます。「私の意識生活全体は、その全体性においても、その意識の中で構成される多様な特殊な対象性のどれにも損なわれずに、その成果の統一も含めた能作する生活の普遍的な統一であるから、意識生活全体が普遍的に構成的で、すべての志向性を包摂するアプリオリによって支配されている。なおこのアプリオリ〔=超経験的な原理〕は、エゴの中で構成される間主観性の特性によって、間主観的な志向性と間主観的な諸統一と《諸世界》の成果との一つのアプリオリへ拡大する。このアプリオリ全体の究明はきわめて広大であるが、しかし完全に把握でき、段階的に究明しうる超越論的現象学の課題である。」またこんな考察もありました。「われわれがわれわれ自身の諸考察の中で構成について詳述したことはすべて、何よりもまず、与えられている諸対象の任意の各種類の任意の諸範例について判明にすること、すなわちわれわれがリアルまたはイデア的な対象性を簡単にすぐ《所有する》際の志向性を反省的に開明することである。」次に時間の概念が登場してきます。「もし実際に主観的な事柄はどれも、各自の内在的な時間的成立をもつとすれば〈その成立にもそれ自身のアプリオリがある〉と期待される。そうだとすれば、すでに《発展した》主観性と関係する諸対象の《静的》な構成には、当然それに先行する静的構成に基づくアプリオリな発生的構成が対応している。」著者が西欧人であることが分かるのは神が登場するこの文章でした。「世界への意識の関係、それは〈外部から偶然そのように設定する神によって課せられた事実〉でもなく、あるいは〈予め偶然存在する世界から、しかもその世界に属する因果法則によおって負わされた事実〉でもない。主観的アプリオリは、神と世界と思惟する私にとっての万物の存在に先行するものである。神でさえ私にとっては、私自身の意識の能作によって存在するのであるから、この点でも私は、神に対する冒涜だと誤解される不安を無視できず、この問題に注目せざるをえない。」心理学的主観性と超越論的主観性の違いについて書かれた箇所も気になりました。「心理学的な主観性と超越論的な主観性(この中で心理学的主観性が世界的な〔=世界についての〕すなわち超越論的な意味内実をも具備して構成される)との根本的な区別は心理学と超越論的哲学との根本的な区別、特に超越的な認識についての超越論的な理論との区別を意味している。」今回はここまでにします。