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  • 「形式論理学と超越論的論理学・付論2」第4節~第7節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)には本論の後に付論1.2.3がついていて、今回は付論2の中の第4節から第7節までを読み解いていこうと思います。この第7節をもって付論2は終了です。「根源的に産出する《明白な》判断作用は、最初の過程としても、総合的な統一の形式においても、順次高い段階の判断作用として遂行される過程として、以下のようでありうる。」この以下の例として2つの文章が挙げられています。「(1)《徹底的に》根源的な能動性でありうる。~略~(2)別に事柄、通常の事例は判断の作業が以前の判断の成果と再び関連して、受動的に変様した所与の仕方で再び浮上する範疇的な対象性と結びついて、《旧知の》諸命題が再利用されたり、あるいは基本的な諸対象が、それら自身の意味のなかに、すでにそれら自身の豊かな規定内容を、それら以前の規定する諸判断から成果として保持して、そのように受動的に受容されたりする。」付論2が終盤に近づいてきて、今までの論考を確認する文章が出てきました。「文法的な諸命題と統一的な各論述を任意に形成する場合にもわれわれは、意味形成の通例の様式に従いうるし、ごく普通にそうしている。われわれは諸要素からも、使い慣れた典型的な形式の形成物からも新たな形成物を派生しうる。しかも少なくとも実際に範疇的な処置をして、範疇的な形成物を根源的に獲得しなくても、そうしうる。」そう単純に言い切る文章の後から言葉による不明な判断作用とその機能についての論述がありました。私はその論述があっても本来の理論に立ち帰るのが好きで、そもそもどういうことかを問いかける文章についアンダーラインを引いてしまいます。「明証がなければ、学問は成立しないであろう。生き生きした過去把持が無価値だとすれば、思索の成果はまったく生じないであろう。さらに証明についても、やはり過去把持が関与し、その重要性が前提されている。再生的な想起の場合も同様である。」今回はここまでにします。次回から付論3に入ります。
    「形式論理学と超越論的論理学・付論2」第1節~第3節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)には本論の後に付論1.2.3がついていて、今日から付論2に入ります。今回はこの付論2の中の第1節から第3節までを読み解いていこうと思います。最初に能動的な判断作用について書かれていました。「能動的な判断作用は《思索の諸対象》を、すなわち範疇的な形成物を産出する働きである。~略~能動的な判断作用が唯一の形式ではないが、しかしそれが判断作用本来の形式である。能動的な判断作用こそが、推定された範疇的な対象性そのものが実際に本来産出される場合の、換言すれば《判断》が根元的な自己所与性になる場合の形式である。」志向性の一般的な理論から次のような論考がありました。「同一の対象が非常に多様な意識の仕方(知覚、想起、空虚な意識などの主要な遡形式)でアプリオリに意識されうる。それらの仕方の中でも、そのつど《経験する》仕方、すなわち根元的な意識の仕方に優利な特性があるので、これ以外の志向的な諸変様としての意識の仕方はどれも、経験する意識の仕方と関連している。」また過去把持的な変様に関する論考もありました。「内在的な現在性という根元様態で現われる各体験(そのような仕方で発生するものとしてそれ自体意識されている)には不変で必然性で《過去把持的》な意識が根源的な変様として接続しており、その変様によって《現在の所与》という根元様態が連続する総合の中で《たった今》存在したものという変様された形態へ移行する。今現在のものとして変様されたこの意識は、同じ法則性によって、新しい変様(変様の変様)のための相対的な根元変様として機能し、しかもさらに連続して機能する。」統覚による着想として思いついたものとして「記号と表現の場合のように、連想を喚起する知覚や、喚起もしくはそれに似たことによって統覚的に生じる事柄が統一されてテーマになり、さらにその結果、二面的ー統一的な対象構成がテーマを示す的確な意味で成立するーそこではその後、知覚によって喚起された事柄だけでは刺激せず、それはテーマの対象にならない。むしろ今後は、喚起された事柄が構成要素の性格をもつようになる。」とありました。今回はここまでにします。
    「形式論理学と超越論的論理学・付論1」第6節~第14節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)には本論の後に付論1.2.3がついていて、今回はこの付論1の中の第6節から第14節までを読み解いていこうと思います。この14節をもって付論1は終了になります。まず最も広範囲の範疇的領域への移行が論じられていました。「今後の研究は、カテゴリーの領分全体(最も広い意味での判断の、しかも価値論と実践の領域との並行的な統語論的な形成物も含めた)いっそう広大な一般性をもちえて、問題のノエマ的な理想的形成物の領野全体において非常に重要な記述的諸課題が指示されているが、しかし広大な一般性への見通しも不足していない。」また構文論の諸形式についてこんな論考がありました。「命題論の統一性の純粋な全体形式について、その統一性自身に含まれる純粋かつ特殊な諸形式を包括して、われわれが言えることは〈命題論の統一性はさまざまな統語論の統一性であり、それによってそれらの統語論が捨象された後に残る同じ素材が統語論的に形成されている。それゆえ主語形式、目的語形式などは構文論的な諸形式である〉ということである。」次に統語体と分肢について。「われわれが再び構文の各素材をそれらの諸形式について、したがって具体的に一様に扱おうとすれば、われわれはこの統一性を統語体と名づける。それゆえこの統語体は、文の中の文肢の統一に他ならず、この分肢は形成された素材であり、さまざまな諸分肢は同じ形式をもちながら、異なる素材をもち、しかも他方では異なる諸形式と同じ素材とをもちうるのである。」複雑化への移行について。「文の内容(構文の素材としての《文》の意味での)は、変動する主要範疇としての名詞性の範疇と単独で成立する文の範疇とを所有しており、その中の一面では構文的な形式が示され、そして別の面では〈その形式を形式化と一緒に《名詞性》の中で共有している〉。この形式によって、どの名詞化の場合とも同様、構文の変化も一緒に行なわれているのである。」今回はここまでにします。次回は付論2に入ります。
    退職前に歯科治療
    私は何年かに一度は歯科治療に行っています。NOTE(ブログ)に書いているので、アーカイブを調べれば分かります。歯磨きが上手くないのか、歯そのものが丈夫でないのか、よく分かりませんが、親の代から同じ歯科医院に行っているのです。横浜駅近隣にある鶴見歯科というのが私が通っている歯科医院です。ここ数週間前から仕事で疲労すると左上の奥歯の神経がぼんやり痛くなるのです。疲労が回復すると痛みは消えます。その奥歯は既に治療済みの歯だったので、私は大して気に留めていませんでしたが、来年度の新しい人事を具体的に考え始めた時から、かなり痛むようになりました。今日は職場で年休を取得して鶴見歯科の担当医のところにやってきました。レントゲンを撮ったところ、治療済みの歯を支えている根の部分が割れていることが判明して、そこから菌が入っていると医者に指摘されました。早速治療が始まりました。私は歯科治療が苦手です。まぁ、得意な人はいないかもしれませんが、私は数年に一度はここに来ているので、苦手意識がより強くなっているのだろうと思います。暫く通うことになりそうで、公務員の退職前に決着がつかず、4月からの新生活でも歯科医院通いが続きそうです。4月からは予約時間の設定に気を使うこともなく、いつでも医院に来られる事がいいことくらいかなぁと思いました。今日は歯科治療に行ったせいで、何だか疲れました。職場に帰る意欲がもてず、早めに自宅に戻りました。工房に行く気にもなりませんでした。自宅のソファで休んでいると、普段の疲労が出てきたせいか、ぐったりしていました。週末も創作活動をして、職場とは違うところで身体を酷使している自分は、何もしない時間が貴重なのかもしれません。明日は職場に出勤して来年度人事の最後の仕上げを行います。人事は創作活動とほんの少し似ているかもしれないと気づきましたが、果たしてどうでしょうか。
    最小の立体で最大の空間を…
    最小の立体で最大の空間を感じさせる彫刻作品とはどんなものでしょうか。ジャコメッティの針金のように細くなった人物塑造か、池田宗弘の量感を削り取った風景彫刻か、それともブランクーシの簡潔に磨き上げられた抽象的な立体か、イサムノグチの自然石を点在させた庭園風の空間造形か、私の頭にはさまざまな空間の在り方が浮かんできます。学生時代に鉛筆でデッサンをやっていて、私は対象の量感を黒々と描いていたところ、気に入らなくなって練りゴムで消し始めました。そこに消すという行為が逆に豊かな空間を作っていく状況を見取って、消去は単なる消し去るものではなく、大きな空間を感じさせる方法のひとつだとその時に理解しました。消す、削る、欠ける…そうしたことが寧ろ想像を刺激し、頭の中で欠損した物体を補うことがあります。ルーブル美術館にあるミロのビーナスは欠損しているからこそ美しいと解釈できます。夢をあまり見ない私が、以前見た夢で完璧に塑造した人物群像を少しずつ削り取り、どこまで削れば人物としての存在を失うのか、何度も試みている場面がありました。それも欠損したものに大きな空間を見取っている自分を投影して、私自身が普段からモノの存在の意義を頭の隅でぼんやりと考えている証だろうと思っています。存在とは何か、現象とは何かを自ら問いかけている自分は、ハイデガーやフッサールの哲学書を四苦八苦しながら読んだ経緯もあり、その答えを求めて彷徨っている傾向があります。つまるところ私が求める彫刻的なゴールは、最小の立体で最大の空間を作ることにあります。そのために夢を見て、書籍を抱え、彫刻的素材に向き合っているのだろうと思っています。私の「発掘シリーズ」は地中に埋もれた都市が現れ出た景観を作っていますが、それも地中に埋もれた部分を隠された部分とすれば、それを鑑賞者に補って欲しいという私のエゴが働いているのです。隠された部分、消去された部分、欠損された部分…その謎めいた部分が、闇の空間として私を駆り立てているのかもしれません。