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  • 管理職退職辞令交付式に参加
    3月の最終日になりました。私が35年間勤めていた横浜市公務員としての仕事が終わる日でもあります。今日は保土ケ谷公会堂で管理職退職辞令交付式があり、参加をしてきました。定年退職と言っても私の場合は再任用満了で、この職種では本当の意味で終わりになります。晴れて明日から彫刻家と名乗れるのかなぁと思いつつ、今まで公務員と彫刻家の二足の草鞋生活を送ってきた私にとっては、人生のターニングポイントになります。人生の再出発と考えても、私にはまだ実感はなく、そのうち工房に日々通う中で、徐々に実感が湧いてくるのだろうと思います。退職辞令交付式では、自分も微力ながら大都市ヨコハマを支えてきた一人だったんだと改めて思いながら、さまざまなことが頭を過りました。35年は長かったようで、あっという間に過ぎた月日のようにも思えます。話は変わりますが、今日が今月の最終日なので、今月の制作を振り返ってみたいと思います。4回あった週末は全て陶彫制作に充てました。とは言え、母の一周忌やらロフトへの荷揚げ作業などがあって、完全に陶彫制作が出来たわけではありませんでした。また来月からずっと陶彫制作に時間を費やせるという考えが頭の片隅にあったため、例年のような気合が入ることもなく、自分を緩めてしまった嫌いがありました。RECORDもいつもの悪い癖が出て、下書きが先行しています。鑑賞は緊急事態宣言が出ていたこともあって、ついに美術館や映画館に出かけることはしませんでした。今月は創作活動よりもウィークディの仕事の方に重きが置かれていたように思います。自分の次なる目標は明日以降に書いていきたいと考えています。今日はいろいろな思いが交差した一日でした。
    「中空の彫刻」再読開始
    昨日まで集中して「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)を読んでいました。本書は私が現職のうちに、職場の私の部屋でなければ読み解くことができないと思っていたのでした。職場の私の部屋は、職員が打合せを行う場所からやや隔離されたところにあって、哲学系の書籍を読み込むのには静かで相応しい場所でした。今日から「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の読書を再開しました。以前までに「第一部 19世紀における『画家=彫刻家』と『芸術家=職人』の登場」を読み終えていたので、今回から「第二部 ゴーギャンの立体作品」に入ります。今日は「第1章 初期の彫刻(1877~1885)」のうちの「1 彫刻との出会い」をまとめます。「フランスの彫刻界の伝統においては、美術学校で奨励されていたように、彫刻家は粘土や蝋で原型のみを作り、石の彫り出しやブロンズの鋳造はそれぞれの技術者に委託するのが慣習であり、国立美術学校に彫りの実践の授業が開設されるのは1883年を待たなければならなかったことを思い起こしておきたい。こうした動きとともに、ブイヨのように、下彫り工から彫刻家に『昇進』する者も増えていた。このような状況も、大芸術と小芸術の間のヒエラルキーが緩和されたことを反映していると考えられる。当然ゴーギャンの意識の中にはこのような区別はなく、それ故に生活苦に晒され始める1885年、ブイヨに『下彫り工』の仕事を求めたりしたのである。」ゴーギャンの彫刻家としての出発は、ジュール・ブイヨの影響なくして成り立たなかったことが分かります。またもう一人のジャン=ポール・オーベの陶磁器装飾技術に負うところも多かったように思います。「オーベの装飾芸術に対する感性は、それを刷新しようとする彼に意欲とともに、やはりこの分野に鋭敏な感性をもっていたゴーギャンに大きな刻印を残したに違いない。」ゴーギャンが彫刻家として歩む契機になった2人の芸術家。今後が楽しみになる展開ですが、彫刻の概念が近代から現代に移っていく時代背景もあって、本書は私にとっては面白くなりそうな内容になっています。
    「形式論理学と超越論的論理学・付論3」第1節~第4節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)には本論の後に付論1.2.3がついていて、今回は付論3に入ります。付論3の第1節から第4節までを読み解いていこうと思いますが、これをもって付論3は終了です。「判断一般は《整合性》のシステムを形成しているーこの意味でー各判断が判断者によって《正確に考察》される場合、結合された一つの判断の統一性への合致する場合には、その統一の内部では、どの判断も他の判断と矛盾しない。」また「私見によれば、本論で述べた学説の根本的な要点はまさに次の点にある。すなわちここで疑問になる各意味の協調性、矛盾、整合性は、それらが形成的分析論全体の中で機能している場合の状態で、純粋な意味で精密にされうるし、しかも諸判断の真偽すなわち〈そのつど分析的な諸関連については主題的な判断と思われる諸判断の真偽〉にはまったく関与しない純粋な意味で精密にされうるし、そうされねばならない。」とありました。純粋な分析論についての論考では「純粋な分析論とは、実際の完全な能動性によって判断される諸判断の基本的な諸形式を体系的に発見して、それら自身の可能な統語論的な各種の変動の《基本的な操作》を、つまり(連係的、連言的な)結合の基本的な諸様式を見つけ出す学問である。」とありました。これで「形式論理学と超越論的論理学」を読み終えたことになりますが、難解な語彙に四苦八苦しながら、何とか終盤に辿り着いた感覚をもっています。そのつど頭に残る論考はあっても、全体は茫洋として明確な把握は出来ませんでした。論理学とは何ぞや、本書は今までの伝統的な形式論理学に一石を投じた学術論文であるのは間違いないのでしょうが、ドイツ語特有の言い回しとその翻訳に困難を覚えたことも確かでした。フッサールが現象学に踏み出したことがよく分かる箇所も散見されました。こうした西洋哲学の根幹をなす書籍を読んでいると、私たち日本人との論理構築の違いを見せつけられて、私自身は辟易する場面もありましたが、なかなか侮れない西洋文化の一端を垣間見た感じがします。その構築性や密度に凄さを感じるのは私だけではないでしょう。
    二足の草鞋生活最後の日
    3月最後の日曜日になりました。来月から週末のたびに創作活動をしなくて済むため、今日が二足の草鞋生活最後の日となりました。私は20歳の時に彫刻の魔力に取り憑かれて以来、生活費を稼ぐのは別の手段をとり、週末だけ彫刻を作る生活を続けてきました。別の手段と言ってもその日暮らしのアルバイトではなく、横浜市に正規に採用されて公務員となりました。ちょうど私が30歳になった時で、社会人としては遅い出発でした。12年前に管理職になり、今月末の定年までこの職種を続けてきました。二足の草鞋生活とは、公務員と彫刻家の二つの世界を持った自分に対して名づけたもので、30年以上も週末を利用した創作活動が習慣となっていました。日曜画家という言葉がありますが、私の場合は差し詰め週末彫刻家と言うべきでしょうか、それは趣味という範疇を超えていて、もし敵うなら彫刻家として独り立ちしたい思いが込められています。自分の工房を持つ前から、東京銀座のギャラリーせいほうで個展を企画していただき、個展は既に15回を記録しています。公務員のほうは責任を伴う管理職に抜擢されてからは、彫刻では食べられないからこれをやっているという意識ではなくなりました。自分の職場や職員を守るという強い意志に支えられるようになり、仕事に没頭している時は創作活動を忘れていました。公務員としてもインパクトのある日常を送っていたという自覚があります。週末になると気持ちがホッとして工房に行きましたが、それも束の間で彫刻の素材に触れていると、ウィークディの仕事は完全に忘れ、創作活動に没頭していました。二足の草鞋双方が厳しい状況でも、その環境に自分が置かれれば、何とかやっていけるものだなぁと実感しています。今日はいつものように工房に出かけ、混合陶土を作るために土錬機を回し、菊練りを行い、小分けにして成形のための保存をしました。午後は職場に用事があって出かけましたが、名残惜しい中で暫し職場の雰囲気を味わいました。そうしたことに比べ、工房は何も変わらず、いつもの空気が流れていました。この空気感が私を元気にさせるのだと改めて思いました。二足の草鞋生活最後の日と言えども、工房でやっていることは変わらず、今後もこれを続けていくと私は決めています。
    週末 母の一周忌&窯入れ準備
    週末になりました。今日は新作の制作ノルマがありましたが、昨年4月に亡くなった母の一周忌に当たるので、菩提寺に出かけて、お経をあげていただきました。その後で墓参りもして新しい卒塔婆を立てました。祖母の三十三回忌も一緒にやりました。母は大正、昭和、平成、令和の時代を生きてきました。祖母は明治、大正、昭和、平成の時代を生きてきました。私の家系は長生きなのかもしれません。久しぶりに妹夫婦を初めとする親類縁者が集まりました。昼食は料亭から弁当を取り寄せました。コロナ渦があって、親類縁者での会食は出来ないと考えて、弁当を持ち帰ることにしました。こうしたものは故人を偲びながら、生きている人たちの縁を深めるためにあるものと私は思っています。今日は天気が良く桜が満開を迎えていました。朝からお花見に行く人が多かったようで、菩提寺まで行くのに道路が渋滞していました。この週末はお花見客が増えて、コロナの感染が心配になります。私は車で通り過ぎる窓から見えた桜で満足しました。午後から工房に出かけました。工房からも遠くに桜並木が見えて、これには暫し見惚れてしまいました。日本人は桜を特別な花と認識していて、あっという間に散ってしまう花に儚さを感じているのだろうと思います。詩歌に詠まれる桜には華やかで淡い夢幻をイメージさせるのがその証です。今日は土曜日なので私はウィークディの疲れが出て、身体の動きが緩慢でした。しかも来月からはずっと工房に篭っていられるので、焦ることもなく制作に気が入らない状態でしたが、それでも乾燥した陶彫部品2点に仕上げをして、化粧掛けを施しました。陶彫部品2点の窯入れをしましたが、窯のスイッチは明日入れようと思います。明日は土練りをします。