2021.02.19 Friday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」は題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第75節から第77節までを読み解いていこうと思います。第75節に登場するのは分析的な矛盾律です。「純粋に客観的にみれば、単純な分析的矛盾律はイデア的な数学的《実在》と共実在についての、したがって複数の判断の判明な同時的可能性についての定理である。しかし主観的な側面には、明証性のアプリオリな構造と、その構造にさらに付随する主観的な諸能作のアプリオリな構造とがあり、そしてその構造が開明されることによって、それら能作の客観的な意味に対応する主観の側の本質的な実状が開明されるのである。」第76節に登場するのが真理論理学に関する考察です。冒頭に「われわれがこれまでに論述したのは《単純な》普遍学という、かなり狭義の分析論についてであったが、この分析論は、われわれがすでに知っているように、新しい諸教科を増やすのではなく、特殊な論理学的機能を獲得するだけであるが、しかしやがて真理の諸概念をテーマにして、それらの概念に関する諸定理を拡充すれば、無限に稔り豊かな学問である。」という一文がありました。「論理的な諸教科が、形式の本質的な諸概念を各範例からの本質一般化によって創るのと同じように、形式的真理論も真の存在と述定の真理の諸範例から創るのである。」さらに「われわれの研究が適切な出発点にしているのは真理の概念と、この概念を公理論的に解明する《論理学の諸原理》とである。われわれがここで想起するのは、〔判断される事象の〕真の存在と判断の正当性としての真理のこの両概念であり、しかも双方をさらに自己能与(すなわち広狭両義の経験)と合致とに遡って関係づける、これら両概念の起源についての分析である。」第77節では矛盾律と排中律が登場します。「矛盾律と排中律のこの二重の原理が端的に述べているのは〈どの判断も真か偽のどちらか一方だ〉ということである。真と偽が根源的にその意味と正当性を汲み取るのは明証性からではあるが、しかしどの判断も明証性というような主観的な語を含んでいない。同一の判断が時に応じて真であったり偽であったりすることもなく、その判断はいつも確実に真もしくは偽である。」今回はここまでにします。
2021.02.18 Thursday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」に今回から入りますが、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第73節から第74節を読み解いていこうと思います。最初にこんな問いかけがありました。「今回必要なことは、分析的論理学に対する批判であり、この批判を通してわれわれ自身が、一連の理想化する諸前提をはっきり意識〔問題視〕すべきである。その諸前提とは〈分析的論理学が、主題化された方法によってではなく、やはりまだ素朴に行使されていた方法によって、あたかも当然のことのように用いており、そしてわれわれがそのことに気づかずに継承してきた諸前提〉のことである。」第73節では数学的解析学が用いる理想化する諸前提が出てきます。「明らかに論理学はその形式的な一般性と法則性とによって、あらゆる種類と段階の諸判断すなわち範疇的形成物を前提しており、そしてそれら諸判断の自体存在は同一の状態で確定している。論理学は、どの思惟者どの思惟共同体に対しても自明な次のことを前提している。すなわち〈私が言ったことは私が言ったのであり、私の思惟の顕在性がいかに中断しようと、私は自分の判断の思念内容の、すなわち私の確信の同一性をつねに確信しうるのであり、しかもその同一性はいつでも自由に利用しうる持続的な所有物であることを、洞察し確信しうること〉を前提している。」また「〈形式的には一般に、あらゆる具体的に論理的な、すなわち学問的な思惟作用に含まれていて、広く一般的に理解されている方法、すなわち同一の意味を顕在化する方法〉は論理学の基本概念を形成する方法の主要部分である。」第74節では「等々」とは何かを考察する部分が出てきます。「ここでは、論理学者たちがこれまでまだ一度も取り上げなかった《等々》という基本形式を、すなわち《何度でも反復しうること》を主観的な相関項にもつ反復の《無限性》の基本形式だけでも思い起こしたい。」とあって、こうした私たちが何気なく使っている語彙のことも論理学の中で明確に論考していくのかと思いました。
2021.02.17 Wednesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第2章「超越論的ー論理学的な問題設定の最後の諸疑問、基本概念の諸問題」は、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第71節から第72節を読み解いていきますが、これで第2章は終了になります。第71節では論理学の位置づけを確認している文章がありました。「(基本概念の創作は)あらゆる学問にとって、真実この語の最高の意味での基礎づけの遂行である。しかし何よりも論理学にとってそうである。論理学はあらゆる学問にとっての原理的な方法であり、そして方法一般の先験性(アプリオリ)の内部で、あらゆる学問の特殊な諸方法を包括し、しかも諸原理に基づく特殊な諸方法の形成を自覚して規制することを使命にしているのである。」第72節ではアプリオリを客観的、相関的に分けて考察していました。「主観的な諸構造は客観的なアプリオリと相関的なアプリオリを示している。~略~一つの事実判断を一つの判断形式一般へ変える形式化の一般化は、主観的な観点では必然的に本質の一般化であり、しかも事実判断の明証性を相関的な意味で形式的に一般化することである。」また著者はこのようにも述べています。「形式論のどの操作法則にもアプリオリに対応しているのが、構成する主観性についての主観的な法則性、すべての各判断者と、諸判断から新たな諸判断を形成する彼自身の主観的な種々の可能性とについての形式的な法則性である。」次の章では論理学が用いる理想化(イデア化)する諸前提についての考察が出てきます。今回はここまでにします。
2021.02.16 Tuesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第2章「超越論的ー論理学的な問題設定の最後の諸疑問、基本概念の諸問題」に今回から入りますが、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第69節から第70節を読み解いていこうと思います。第69節は明証性についての論考です。明証性は至る所に登場していて、論理学を学問的に扱う上で重要な語彙であることが分かります。「(明証性においては)最前は主題化されない素朴な態度で簡単に行なった形成作用を主題にした反省が必要である。その場合に大切なことは、その形成作用の中で最初に唯一《与えられていた》形成物と一般的な諸形式(一層高次の形成物)を《明確にすること》であり、そうすることによって、それらの形成物と諸形式の対象的意味を根本的な目標にして、その意味を実現する志向性を解明することによって、この意味自身を正しい仕方で把握し、その範囲を限定して、その同一性を確保して、素朴な態度では生じうるあらゆる変動と隠蔽を防ぐことである。」第70節では構成についての根源的研究が続き、「論理学自身の根本的なテーマが混乱した状況では、いったいどのようにして学問的な論理学が可能になるというのであろう?」という発問があり、今までの研究成果を振り返る機会がありました。「(主観的な諸研究においては)研究はどれも根源的な論理学的方法の開明と批判についての基本的な諸研究を特徴にしているので、これらすべての研究は分析論の《基本的諸概念》を根源的に創作する方法の探究と呼ぶこともできる。しかもこの創作は〈それら各基本概念にとって同一で、あらゆる変動から守られている本質を、われわれに保証してくれるような明証性〉の中で行なわれるのである。」論理学を学問として体系化していこうとする本書の論理的な考察の仕方に慣れてきましたが、おそらくドイツ語訳の独特な言い回しがあって、日本語にすると難しくなってしまう嫌いがあるのではないかと察しています。ところどころドイツ語表記があり、私にとって懐かしい語彙が出てくると、そうか、この言葉はこんなふうに訳しているのかと思うことがあります。と言っても言語で読めるほど私には語彙力がないので、翻訳に頼らざるをえない自分がいます。
2021.02.15 Monday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第1章「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」の中の第65節から第68節までのまとめを行います。この第68節で第1章「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」が終了します。今回は第1章のまとめとしての展開があり、第2章へ続く流れが記されていました。まず心理学主義に関する引用です。「明証化されるべき各対象性の種類がーあるいはすべての種類までも、ヒューム哲学の場合のように心理学化される。なぜならそれらの種類は自明のとおり、意識によって構成されるのであり、したがって経験によるか、もしくは経験と絡み合った他の意識の仕方によって、それら自身の存在意味を主観性の中で、主観性のために構築されるからである。それらの種概念が《心理学化される》ということは、それら諸概念の対象的意味を、すなわち独自の本質をもつ諸対象の種概念としての意味を無視して、主観的な諸体験を、すなわち内在的で心理学的な時間性の中にある各与件を、優位に置くことである。」また純粋論理学から心理学主義の越境についても述べられていました。「批判と優勢な見解一般との意味に含まれているのは〈学問と理性批判とを区別して、学問には独自の権利をもつ独自の現存在を認め、そして理性批判はどの学問にも関係する一層高次の新たな種類の学問ではあるが、しかし他の諸学の正当な固有の存在を妨げはしない〉とする理解である。したがって何よりもまず分析的論理学について言えば、この論理学は元来〈すべての理性的認識が前提する絶対的な規範〉と認められている。」最後にこんな論考を引用して第1章を終了いたします。「学問の真実性が、論理学の諸原理によって意識された規範化に基づく真実性でありうる場合、したがってわれわれがすでに序論で主張しながら、その後あらためて実際に基礎づけねばならなかったように、論理学は他の諸学と並ぶ独自の一学科であるだけでなく同時に、あらゆる可能な学問一般としての方法の基礎でもある。」今回はここまでにします。