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  • 「 降誕、 開祖の生涯」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の2つ目のパート「開祖と聖人の生と死」は5つの章から成り立っています。今回はそのうち2つ「第4章 降誕」と「第5章 開祖の生涯」を扱います。まず降誕についてです。「インドでは宗教のいかんを問わず、あらゆる生物が延々と生まれ変わりを繰り返すという世界観、すなわち輪廻転生を当たり前としていたので、釈迦の伝記にも前世の神話が付け加えられた。だから釈迦は前世までの無数の過去世において自己犠牲的な善行を重ねてきたので、このたび世界の救済者として誕生することができたことになっている。~略~仏教には輪廻転生があるので、釈迦の過去世を神話化することで釈迦を特別な存在として描くことができたが、輪廻信仰をもたないキリスト伝の場合は『神の子』の誕生という形で神話化している。聖母マリアは処女でイエスを生んだ。マリアの夫ヨセフはイエスにとっては養父であり、実の父は天にまします父である。」次に開祖の生涯について記します。「仏教は修行の宗教である。釈迦の伝記は、修行を決意して完成させた大先輩の物語となっている。キリスト教は神を信仰する宗教である。イエスの伝記は神の子が地上に『神の国』の秘義を開陳していく物語となっている。~略~釈迦の教えの核心は瞑想による自己観察にあり、《快楽》と《苦行》の両極端を避ける《中道》を重んじる。この図式はそのまま伝記を枠づけるものとなっている。つまり、何不自由ない王宮暮らしが快楽を、出家してからが苦行を表し、その後にくる菩提樹の下での瞑想と悟りが中道というわけである。~略~イエスはユダヤ教徒であり、伝道の対象はパレスチナのユダヤ人たちだ。ローマ皇帝の権力が強まっていく中、ユダヤ人たちは救世主が現れて世界の構造を一新するのを待ち望んでいた。地上の権力は倒され、病気は消えてなくなり、死人までが甦る。そんな終末ユートピアの待望だ。」ここでは仏教とキリスト教を扱いましたが、そこには強烈な人格を有する開祖がいたからです。ヒンドゥー教や神道には開祖がいないので、ここでは取り上げませんでした。今回はここまでにします。
    「教えの本質と象徴化」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の最初のパート「教えの本質と象徴化」は3つの章から成り立っています。まず「第1章 十字架と法輪」次に「第2章 空と偶像禁止」さらに「第3章 三位一体と三神一体」があり、第1章では信者数の多いキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教のシンボルマークを扱っていました。第2章から次の内容を引用いたします。「人類が発達させた言語なるものは、目の前に存在しないものについても語ることができる。おそらくこれが人類が霊や神々の神話をもつことになった根本的な理由だろう。数十万年も続いた原初の狩猟採集生活は、動物などに範をとった精霊の図像を生み出した。一万年ほど前からの農耕生活がもたらした階級社会や帝王のイメージもまた、天界の王族のような神々や天人の図像を生み出した。~略~イスラエルの民は、さらに、自分たちの神ヤハウェを民族性を超越した普遍の神、唯一絶対神と解釈するようになった(紀元前6世紀ごろ)。かくして生まれた一神教から、1世紀にキリスト教が、7世紀にイスラム教が派生した。いずれも偶像禁止の建前を受け継いだ。~略~キリスト教徒にとってキリストが『神の子』であるように、イスラム教徒にとってコーランは『神の言葉』である。」一方、仏教はどうでしょうか。「一神教とは異なり、多神教世界では一般に神々を図像化することに抵抗はない。とはいえ、真理は偶像的な図像では描けないという思想がなかったわけではない。~略~仏教では、像だろうが現実の事物であろうが、それ自体には執着すべき実体がないという『無我』や『空』の教えを究極の奥義としている。」次に第3章から引用いたします。「三位一体も、仏身論や胎蔵曼荼羅の三層構造も、ヒンドゥー教の三神一体も、歴史的に増殖した神的存在を論理的に一つにまとめようという教理であった。三という数字が繰り返し現れるが、そこに論理的(あるいは神秘的?)必然性があるのか、単にまとまりのよい数というだけなのか、よく分からない。三に意味を認める人は、祭壇における三尊形式(仏像などを主尊と両脇侍の三体並べる形式)や、仏教の三宝(信者が帰依すべき対象としての仏、法、僧)、中国思想の三才(天、地、人)さらには哲学でいう『弁証法』(正・反・合の三段階に図式化されている)、近代政治の三権分立などに参考として言及することがある。」今回はここまでにします。
    「宗教図像学入門」を読み始める
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)を今日から読み始めました。自宅の書棚を探していて本書を見つけましたが、いつ頃購入したものか忘れています。私は特定宗教を信仰しているわけではなく、私の家は先祖代々、自宅の近隣にある浄土宗の寺に墓地がある関係で、仏教浄土宗の行事に最低限の関わりを持っています。それも昔からその寺に墓地があったわけではなく、その昔近くの丘の上に小さく区画された先祖の墓があり、その土地を処分するために墓地に眠る先祖の魂抜きを行ない、菩提寺に墓地を移したのでした。私の周囲には、哲学者で既に他界した叔父が、無教会主義を唱える内村鑑三に私淑したキリスト教信者であったり、彫刻の師匠がカソリック系のキリスト教信者で、聖書を題材にした作品を多く作っていて、親類も含め宗教の多様化があります。私自身も20代の頃にヨーロッパにいて、教会建築や装飾に圧倒されていました。私の先祖が関わる仏教より、留学を含めた私の修学時期に出会ったキリスト教の方が身近になっている現状もあります。宗教は人類史上最も古い学問として登場してきました。古代人は狩猟にも他力本願をしたのでしょう。そこに図像が生まれたのは私にも理解できます。本書の「はじめに」として書かれていることから引用いたします。「宗教はドグマや戒律や教典ばかりで成り立っているのではなく、美術のような感性的なものが果たす役割も大きいということを『イメージトリップ』を通じて実感していただくというのが本書の目標である。~略~狭い意味での図像を超えて、寺院や教会、聖地や巡礼地などの空間的な構造にも目配りした。というのは、神話や儀礼からなる宗教の世界観は、霊的象徴を通じて自然空間に広がり、儀礼を通じて身体、祭壇、神殿、環境、世界全体のそれぞれを対応させるからである。西洋でも東洋でも形而上的奥義として小宇宙(人間の身体)と大宇宙(環境世界の全体)の照応関係が説かれる。そういう世界観の一端が垣間見えるように努めた。」今回はここまでにします。
    寒さ増す11月をどう過ごすか
    今日は11月3日の文化の日です。三連休になっていて、教職にいた頃は貴重な時間でした。ましてや文化の日となれば、私は創作活動に邁進する一日と位置づけていました。教職を退職している現在では、昔のような高揚感はありませんが、今日も工房に籠って新作を作り続けていました。今月は寒さが増す1カ月となり、どのように過ごそうかと思案しています。まず制作目標ですが、現在は新作の成形や彫り込み加飾が全て終了していて、さらに陶彫部品がどれも乾燥しているので仕上げや化粧掛けを施しています。後は順次窯入れをしていくだけですが、今月は陶彫部品と組み合わせる厚板材のデザインをやっていきたいと思っています。この厚板材の加工は単純に木を刳り貫くだけで、これを支える陶彫部品の技法に比べれば、実に簡単なものですが、実はこの厚板材加工に作品の方向性を決定する要素があるのです。大きな陶彫制作を頑張ってやっていた今までは、いわば作品の内容を語らせる従者の役割となる黒幕を作っていたわけで、これから見せ場となる部品を登場させることになります。今月はその見せ場を作っていこうと思っています。実は今回の大きめな作品には、その同じデザインとなる小品を4点作っていて、板材加工を進めています。これは雛型ではなく、あくまでも小品として作っている一方で、実験として試みている面もあって、その効果を確かめています。新しい試みは小さな一歩から始まることがあり、最終的には広い空間を演出する装置のような彫刻作品になるのです。私は小品と言えども、そこから見えている風景を大きく捉えています。それが小品が楽しいと思える瞬間です。今月も鑑賞の機会を作っていこうと思っています。差し詰め高校の同級生である竹中直人君が主演する芝居が下北沢の本多劇場であるので、今月末に観に行く予定です。美術展も出かけたいと思っています。読書は廃墟論を読み終えて、次に何に挑もうか書棚を見まわしているところです。今月も楽しみながら創作生活を充実させていきたいものです。
    週末 月が移行した1週間
    日曜日になりました。日曜日には創作活動に纏わる内容をNOTE(ブログ)に書いていて、通常は土曜日にその週の振り返りを行なうのですが、昨日は多摩美芸祭に出かけてその感想を書いてしまった関係で、今日は土曜日に代わって先週の振り返りを行ないます。先週は10月から11月へ月が移行した1週間でした。先週も寒くなった関係で、制作時間を朝9時から午後3時までを基本として行っていました。新作の陶彫制作は、成形や彫り込み加飾が終わって、それら陶彫部品にブロックサンダーで仕上げを行ない、化粧掛けを施す作業に移行しています。先週も2回の窯入れを行ないました。窯入れをしたのは火曜日と金曜日で、その翌日は滞りなく焼成が行えるように電気のブレーカーを落としていました。ということは工房全体で電気が使えず、作業が出来なかったのは水曜日と土曜日でした。水曜日は健康保険代の振り込みやら、ブロックサンダー等の材料を買いに出かけました。土曜日は昨日のNOTE(ブログ)に書いた通り、教え子たちと一緒に美大の芸祭に行ってきました。こうして毎日元気に過ごせること、自分の目標に向かって邁進できることは本当に幸せなことなんだと思い返すことがあります。私は健康に不安がないわけではありませんが、一日中創作の事ばかり考えていられるこの時を有意義に過ごしたいと思っているのです。3年前までは教職との二束の草鞋生活があり、その限りある時間をやり繰りして彫刻作品を作ってきました。退職してからは彫刻家一本で、自分が昔から望んでいた生活が出来ているのです。工房には卒業制作をやりにきている美大生がいます。彼女はすべて単位が取れて、残すところ卒業制作だけということで、好きなことを朝から晩までやれていて、今の私と同じ気持ちでいるのだろうと思います。私もその頃は好きなことが一日中やれるのは生涯でこの時しかないと思って卒業制作に励んでおりました。あれから40数年が経って、幸運にも私は卒業制作の続きをやっているのです。ここまで意欲が続いたこともあるのですが、自ら環境を整えたことが大きいと思っています。