2025.08.17 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動について書いていますが、私にとって創作活動には実践と鑑賞が両輪のようにあって、相互理解の上に成り立っていると考えています。私が実践している陶彫は「陶」と「彫」に分けて考えるとなかなか興味深いものがあります。「陶」では、私が20代後半に海外で見た日本の陶磁器展にイメージの原点があります。ちょうどこの頃、私はヨーロッパにいて自分なりの彫刻の在り方を考えていました。日本の陶芸が醸す陶土の何とも言えないほっこりした雰囲気に私は忽ち魅了され、日本人として自然に手に馴染むものについて見つめ直したように思います。「陶」で何かを作るべきと考えた私は、現地の美術学校でやっていた彫刻も否定できず、その彫刻的構築性はそのままにして、「陶」はひとまず置いておいて、まずヨーロッパ的「彫」を推し進めることにしたのでした。「陶」と「彫」の融合はヨーロッパから帰国後に試し始めました。融合して何を作るか、それはギリシャ、トルコの遺跡の発掘現場で体感を伴う鑑賞をしてきたおかげで、そのヒントを掴んでいました。「陶彫」というコトバはいつ頃から使われ始めたのか、私自身もよく分かりません。嘗て京都で興った「走泥社」は、用を持たない陶芸を作った作家集団で、そこでは「オブジェ焼き」と呼ばれていました。最近、東京で「走泥社展」があって、その図録の解説に「オブジェ焼き」と「陶彫」は異なるものという論考があり、ならば「陶彫」はイサム・ノグチか辻晋堂あたりの彫刻家が広めた概念かもしれません。これは「陶」を素材としつつ、本質はあくまでも「彫刻」なのだとする考え方であって、それは私の作品にも合致するものです。彫刻は明治時代以降に西洋から入ってきた造形概念で、空間に存在する立体を構築から学び、その美しさを周囲どこからでも鑑賞できる芸術品なのです。明治時代以前の仏像にもそうした考え方はありましたが、論理的な立体の説明は西洋が発祥と言えます。そうした西洋美術の考え方が小中高校の美術教育に齎せた影響は大きく、私たち日本人の美術作品の見方を決定してしまいました。私の作品もどんなに陶という味わいを持たせても基本は西洋美術にあります。それでも自分独自の方向を今も探っているところです。
2025.08.16 Saturday
週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週は新作の陶彫作品の下部に置く6点の彫り込み加飾が終わり、その上に置く陶彫作品を作り始めました。下部6点よりやや小さめの直方体で、まずその1点目に着手しました。そのやや小さめの直方体も6点必要で、順を追って作っていこうと思います。陶彫作品は言うまでもなく、最終工程である焼成をしなければ完成とは言えず、現在のところは1点も焼成していないので、まだ何も出来ていないとも言えます。この尋常でない暑さの中では到底窯入れをする気持ちになれずに、乾燥台に置いてあるだけというのが現状です。陶土を乾燥させただけでは、いかにも脆く危ない状態なので、早く窯入れをしたいと思っていますが、もう少し周囲に涼風が立ち、季節が変わってくれれば窯入れも出来るかなぁと思います。今週の木曜日には家内と近所の菩提寺に墓参りに行ってきました。お盆という宗教行事は旧家で育った私には馴染みがあります。祖母や母が先祖を迎えるために迎え火を焚いていました。座敷に小さな台が設けられ、位牌やら仏具、お供えの花や果物が置いてありました。菩提寺の僧侶がやってきてお経をあげ、翌日には送り火を焚いていました。ナスやキュウリに足をつけて玄関に置いていましたが、私が小さい頃、それに悪戯をして野菜の動物をつぶして歩いたので、親から大目玉を食らいました。その旧家もなくなり、旧家を支えていた大黒柱は、ついに私の彫刻になってしまいました。現在では私たちが墓参りに行くだけで、旧家で行っていた盂蘭盆会の意味は薄れています。なぜこの時期に先祖を供養するのか、なぜ各地域で盆踊りがあるのか、そんなことも紐解けば、それぞれに意味があって実践していることなんだと納得がいきます。お盆は日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事であるとネットにありました。宗教に疎い私でもお盆の意味だけは知っておこうと思っています。
2025.08.15 Friday
「芸術家列伝2」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ティツィアーノ」について、2つに分けて気に留まった箇所をピックアップいたします。今回は後半です。「ティツィアーノの手法は、実のところ、若かりし日の彼の手法とはかなり違ったもので、青年時代の作品には、洗練された信じがたいほどの入念さで仕事がしてあったから、近くから眺めることにも遠くから見ることにも耐えるが、最近の作品は、大まかに、一気呵成に、斑点でもって描いてあるから、近くから見るとなんのことかわけがわからない。ところが、離れて見ると完璧な姿が浮かびあがってくる。これが原因で大勢の者がこの真似をしだす。実際やってみると、つまらぬ下手な絵ばかり出来あがる。というのは結局、こうした絵が労せずして描けると思うのがそもそも間違いなので、実際はなんどもなんども筆を加え、その上に色を何回も塗っている、だからよく見ればその辛苦のさまもわかろうというものである。」さらに評価について書かれていました。「ティツィアーノは素晴らしい絵画の数々でヴェネツィアもイタリアもまた世界のほかの国々をも飾りたてたわけだから、画工たちから愛され尊敬されるだけのことはあるので、いくらほめてもほめたりない作品を作った人として、いや、今も作りつつある人として、多くの点で讃美され模倣もされている。その作品は、有名な人々の後世に記憶される限りは、長く長く伝えられるであろう。大勢の人々がティツィアーノについて学ぼうとしたが、しかしいま、真に彼の弟子といえそうな人の数は実は案外多くない。というのもティツィアーノはあまり多くを教えないからで、弟子は、ティツィアーノの作品から学び取れるところを多かれ少なかれ各自勝手に学び取っていたようである。」モザイクについて触れた箇所がありました。「モザイク芸術がまだ当地で栄えている主因はなんといってもティツィアーノで、彼自身がモザイクの仕事をしたものだから、ヴェネツィアでこの仕事を手がけた人たちはそのおかげで名誉ある報奨をいただくことができた。それだからサン・マルコ寺ではさまざまな作品が作られ、昔のモザイクはほとんど修復され、ジョット、アレッソ・バルドヴィネッティ、ギルランダイオ、細密画家ゲラルドなどの時代のフィレンツェやローマではとうてい想像もされなかった高い位置に、この種の絵画を持ちあげたのである。」今回はここまでにしますが、ティツィアーノをもって「芸術家列伝2」は終わります。引き続き「芸術家列伝3」を読み始めます。
2025.08.14 Thursday
「芸術家列伝2」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ティツィアーノ」について、2つに分けて気に留まった箇所をピックアップいたします。「色を塗っているときに、いつも自分の目の前に、裸婦姿であれ着衣姿であれ、モデルがいる、というのは悪いことではない。紙にデッサンを描いているうちに、だんだんたやすくデッサンも着色もできるようになる。こうして芸をみがいていけば、様式もでき、正しい判断もできあがる。そして前述のような絵画制作上の徒労や無理から脱却するのである。また紙にデッサンすることによって、頭に次々とすばらしい着想が浮かぶことはいうまでもない。そしてたとえいつも手もとにないにしても、自然の事物をみな頭にとどめることを覚えてしまえば、古代ローマやそのほかの完成した諸作品を身ならうことをしなかったヴェネツィア派の画家たち、ジョルジョーネ、パルマ、ボルデノーネなどの従来の様式にみられるような、『デッサンを知らないがための無理を、漠たる色彩によって隠さざるを得なかった』などどいう羽目に陥らずにすむはずである。」ヴェネツィア派であったティツィアーノにもその傾向があったようです。「ある日、ミケランジェロとヴァザーリはベルヴェデーレにティツィアーノを訪ねたが、その折、ティツィアーノが描きあげたばかりの一枚の、ダナエとして表わされた裸の女が、金の雨に化けたゼウスを膝の上に抱いている図を見せてもらった。人前ではいつもそうするものだが、ティツィアーノに向かって二人はその女の図をほめちぎった。しかし彼の邸を辞去した後で、ティツィアーノの手法について論じながら、ミケランジェロはかなりいろいろ批判して、こう言った。『ティツィアーノの色彩も様式も私の気に入ったが、しかしヴェネツィアでは、まず最初にデッサンを学ぶということをしない。これは残念なことだ。ヴェネツィアの画家たちは勉強の仕方をもっと改善することもできように、その点が惜しまれる。もしあの男が、あれだけ天賦の才があるのだから、技術を磨きデッサンで進歩したら、とくに実物を描写する訓練をしたら、もう匹敵する男はいないであろう。ティツィアーノは実に美しい精神の持主だし、実に愛らしく溌剌とした様式をもっている』これはまことにもっともな説で、デッサンをしっかりやらず、古代や近代の作品を選んで研鑽をつまなかった者は、当然のことながら、技倆がうまくないし、また実物をそのまま写した物に手加減をくわえることができない。自然というものは、通常美しくない部分を仕上げるためには役立つが、実物をそのまま写しとった物に、あの完璧な優雅さを与えるもの、それが自然とは次元を異にした芸というものなのである。」今回はここまでにします。
2025.08.13 Wednesday
「芸術家列伝2」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「アンドレーア・デル・サルト」について、2つに分けて気に留まった箇所をピックアップいたします。今回は後半です。「アンドレーアの死は彼の町フィレンツェや絵画にとって非常なる大損失であった。それというのも彼が生きた42歳という年齢まで彼は常に次から次へと作品ごとに良くなっていったから、もしあれ以上に長生きしたらそれだけ必ずや芸術の面でも上達したに相違ない。それというのも人間芸術の困難な道を少しずつ堅実確実に進む方が、一度に天性や天分に無理をしてなにかしようとするより好ましいからである。またアンドレーアがローマに行ってラファエㇽロやミケランジェロの作品を見、あわせて古代の廃墟や彫像を見物した時、もしそこに居を定めていたなら、アンドレーアが物語絵の情景のコンポジションにおける様式を豊かにしたであろうこと、またいつかは彼の人物像にもっと力ともっと洗練を加えたであろうことも疑いない。そうしたことはローマに暫くの間滞在してそうしたことを仔細に観察し実際にやってみた人でなければ完全には会得できないことなのである。アンドレーアは天性デッサンにおける甘美で優雅な様式に恵まれ、たいへん生き生きとした彩色を手軽に描く天分に恵まれていた。そしてそれはフレスコで仕事をする際も同じであった。彼がもしローマに居を定めていたなら、当代のあらゆる画工たちを凌駕したであろうことは疑いないと思われるのである。しかし何人かの人々は次のように考えている。アンドレーアがそのローマの都であり余るほど多い古代や近代の彫刻や絵画の作品を見たこと、またそこでラファエㇽロの数多くの若い弟子たちやその他の人々が思いきったデッサンを描き、自信を持ってたゆまず仕事をしているのを見たことが原因で、アンドレーアはもともと臆病な性質だから、とてもこの連中を凌駕することはできないと思いこみ、それで意気を沮喪してローマに滞留しなかったのだ、というのである。それで臆病風にとりつかれ、自信を喪失して、フィレンツェへ帰る方がいいと決心した。そこへ戻って来てから自分がローマで見たことを次第次第に熟考し、非常に得るところがあったので、アンドレーアの作品は非常に高く評価された。そして存命中よりも死後になってさらに模倣されるにいたったが、これはなかなかの事である。」今回はここまでにします。