2026.01.06 Tuesday
今日の朝日新聞夕刊に掲載されていた記事に目が留まりました。現在93歳になる日本美術史家辻惟雄氏のインタビュー記事です。「奇想の系譜」を著わした辻惟雄氏より私は日本美術の面白さや奥深さを学ばせていただきました。江戸時代の画家伊藤若冲がこんなにも人気が出たのは辻氏の功績です。因みに西洋美術史は一昨年逝去された高階秀爾氏で、私はこの2人の美術史家によって東西美術史を心に刻みました。私の学生時代は、西欧の美術に比べると日本美術は退屈なものという先入観があり、若い頃は欧米の動向に夢中になっていた時期がありましたが、「奇想の系譜」を読んでから日本美術の面白さに度肝を抜かれ、その時から日本画家が私の中に居座り始めました。記事から引用いたします。「『軽いけど自由で、エンターテインメントとして見る人を楽しませる』ことが、日本美術の特徴だと(辻氏は)語る。西洋のアカデミズムに値するものとして狩野派を挙げるが、『西洋ほどの権威はなかった』。だからこそ、庶民も絵を楽しむようになった江戸時代、若冲のように人々の好みに合わせて描く画家が登場したのではないかという。日本もかつては日展などが権威的な存在だったが、『現代ではそのような権威はないのでは』。現代の作家が美術一本で生計を立てることの困難さに思いを寄せる。一方で現代美術について『伝統芸能・美術からの”引用の美術”という部分があって、その引用の仕方を競うことになっているんじゃないか』と、行き詰まりも指摘する。」(弓長理佳著)現代ではオリジナリティを創り出すことが難しく、寧ろかつてあったモノをパロディにしたり、焼き直して今風に変えていくアートが多いように私も感じています。引用とは先人の芸術作品やその要素を副次的に自己の作品に取り入れることとネットにもありました。それはある種の行き詰まりとも言えるのかもしれません。それでも引用でもそうでなくても創作行為はなくならないと私は信じています。たとえAIが発達して芸術作品の(ようなモノ)を作れるようになったとしても、人間が作り出す世界を信じていたいと私は願っているのです。
2026.01.05 Monday
「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第4章 聖母像の日本への到来」は3つの単元から成っていて、今回は「3初期布教期の聖母神と『聖ルカの聖母』の到来」について取り上げます。「これは筆者の一貫した主張であるが、日本に来たものは多かれ少なかれ、どこぞの西欧の貧乏寺の遺品であるとか、手に入れられるものは何でも備品扱いで持って行ったという旧来の通年は誤りである。イエズス会は海外布教を会の一大使命としており、それは『正しい』信仰を広めるという対抗宗教改革特有の方針に裏付けられていた。宣教の強力な武器である画像に気まぐれは許されない。それは正しい信仰心を鼓吹する正しい画像でなければならない。したがって、日本に来たものの大部分はむざんに破壊され、残存しているものは断片に過ぎないとしても、その断片から全体を復元することは、けっして不可能ではない。そこでは細部までもが統制を受けていたからである。~略~布教の第二期、つまりトレント以後の布教にともなって、イエズス会宣教師の持ってくる図像に変化が起こった。そして、ローマの本部の方針によって、あらたに『聖ルカの聖母』が到来した。『慈しみの聖母』ではなく『導きの聖母』である。~略~東京国立博物館の所蔵になる、銅板に油彩の《聖母子》は、この『聖ルカの聖母』像にほかならない。~略~東京国立博物館にある像は、よりヴァレリアーノの絵画に近い。これが招来されたものか、または日本人画家が模写したものかは不明である。その表面の損傷が激しく顔料の剥落もあるためにこのイコンの芸術性が著しく損なわれたためか、この画像の重要性が認識されなかったためか、この画像が日本にあることの重要な意義が今まで看過されてきたのは残念である。」日本には西洋のような修復技術も保存技術もなく放置されてきた結果が、画像をこんな姿にしてしまったのだろうと思います。たとえ教会を模した寺にあっても、湿度の高い日本では西洋絵画の保存は近代になるまで実現できなかったのでしょう。今回はここまでにします。
2026.01.04 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動に纏わることを書くのが定番になっていますが、昨日の土曜日に1週間の振り返りをやるつもりが、例年正月に開催している従姉妹会に関する話題を取り上げてしまったため、今日は土曜日の代わりに1週間の振り返りを書くことにしました。先週の日曜日から土曜日までの1週間は年末年始の年を跨いだ1週間になりました。日曜日は昨年夏に開催した個展の搬出荷物をロフトに上げるために3人のスタッフと後輩の彫刻家に午前中工房に来てもらい、荷揚げ作業を行ないました。午後はカメラマンを呼んで、後輩の木彫の撮影を行ないました。月曜日から水曜日まで私は工房で杉板加工を行ないました。家内は自宅の掃除を行なっていましたが、頼んでおいたお節料理が自宅に届いたこともありました。元旦は裏山の祠へ細かく刻んだ餅や油揚げを持っていき、東京赤坂の豊川稲荷へ行ってお札をもらってきて、祠の古いお札との交換をしてきました。金曜日は祠の土台修理を行ない、午後は工房で杉板加工の続きを行なっていました。土曜日は従姉妹会に参加するため、自由が丘のレストランに出かけてきました。レストランで食事をした後、その近隣に住む従姉妹宅へお邪魔して、遅くまで語り合っていました。創作活動の合間に年末年始の恒例行事があり、私としてはいつもと変わらぬ年越しだったなぁと振り返っています。このいつもと変わらないことを幸せに思えることが私には歳をとった証拠なのかもしれず、静かで落ち着いた新年を迎えられたことを嬉しく思っています。制作に関してはいつのもような集中力は発揮できずにいました。作業は継続していても年を越したという気持ちの変化があったように思います。2026年はどんな年になるのか、未来の予測は出来ませんが、創作活動がいつも通りできるのは世の中が安定していないと厳しい結果になるのは歴史が証明しています。私が時事問題を考えるようになったのも、こうした世界情勢のキナ臭いニュースが飛び込んでくるので、否が応でも反応してしまうのです。今年こそ良い年になるように祈っています。
2026.01.03 Saturday
週末になりました。いつもなら1週間の振り返りを行なうところですが、今日は別の話題にいたします。昨年のNOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、正月に従姉妹会のことを書いています。家内も私も両親が他界し、昔のように親類縁者が集まって正月を祝うことがなくなり、いつの頃からか従姉妹会がスタートしていました。昨年亡くなった叔父や叔母もいたにも関わらず、従姉妹たちは喪に服しつつ、昨年もこの従姉妹会を開催していたことで、正月を祝うのとは別の目的で従姉妹会をやっているのだろうと思います。従姉妹たちは私の夏の個展に来てくれますが、仕事の都合で皆がバラバラにやってきます。一堂に集まれるのは正月しかないと思われるので、一人ひとりの情報交換を行うのは絶好の機会かもしれません。店の予約は順番で決めています。昨年は家内が渋谷にあるスペイン料理店を予約していましたが、今回は自由が丘にあるイタリア料理店で会を催しました。私はこんな機会がないと人と会食することもなく、自宅と工房を行き来する単調な生活なので、今回は久しぶりに自由が丘にやってきました。最近できたビルには洒落た店が入っていて、コース料理に舌鼓を打ちました。話題も多方面に及び、楽しい時間を過ごすことができました。従姉妹会の中で仕事を退職しているのは私だけで、他のメンバーは現役です。来週から仕事が始まるので、その一区切りとして忌憚のない話ができる場なのかもしれません。私も従姉妹会があると漸く新年を迎えられた感覚になります。また1年間頑張ろうと思います。
2026.01.02 Friday
2026年になって2日目、今日から制作を開始しようと工房に行きました。杉板材の刳り貫き作業を昨年末から継続しているので、新たな気持ちになることもなく、電動工具で作業を始めました。こうしている時が私は一番心が落ち着いて、少しずつ作品が出来上がってくると俄かに嬉しくなります。自分のペースで自分が描いたイメージを具現化することは、最高に幸せなことなのだろうと改めて感じました。創作活動を生涯の友としている自分は、それだけで十分満足なはずですが、制作が進むうちに造形的な力不足や不満が沸き上がってきて、自分には才能がないのかもしれないと落ち込むことが多々あります。そうであるからこそ制作を継続していかなければならないと自らに言い聞かせているのです。数年前に校長を退職しましたが、その時は重圧から解放された気分はありましたが、何かをやり遂げた気分にはなりませんでした。振り返れば教職は面白かったと思いましたが、それが自分の最終目的ではなく、二束の草鞋生活で教職に伴走していた創作活動が大きな比重を持って控えていたのでした。創作で何かを達成しなければ自分の人生に幕引きが図れないと私は思っているのです。話は変わりますが、昨日裏山の祠に餅と油揚げを持って行った時に、祠の土台が生えた竹によって斜めに傾いでいるのが気になりました。今日の昼頃、家内と鋸を持って裏山に行き、祠を少し移動させて、竹を根元から切断しました。祠の周囲は竹林になっていて、時季になるとタケノコを掘りに知人や近所の人たちがやってきます。祠は祖母がそこに据えたままになっていて、今まで修理をしていません。木造の小屋はまだ保っているので、土台の石を積み直して、そこに古い小屋を据え直しました。餅と油揚げはおそらく野鳥の餌になっているのかもしれず、数は減っていました。狐の陶器3体をまた置き直しました。これに霊験があるのかどうか分かりませんが、亡き祖母はそれによって相原家の商売はうまくいったのだと言っていました。信じれば救われるという宗教の文言が思い出されました。