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  • 週末 砂マチエールの1週間
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。先週で新作の板材の刳り貫き作業が完了したため、今週はその板材に砂マチエールを貼る作業に移行しました。板材は厚い合板で、それを刳り貫いただけでは陶彫作品との融合が図れません。陶土の肌合いとの組合せとして、板の表面に砂を硬化剤で貼り付け、そこに錆色の油絵の具を染み込ませ、さらにドリッピングをすると、表面がざらついた雰囲気になり、深い色合いのコラボレーションが生まれるのです。今までの作品でも私はこの方法を多用してきました。ただし、作業としてはこれは彫刻的な作業ではなく、どちらかと言うと退屈な作業になりますが、効果を考えるとなおざりに出来ないものだなぁと思っています。彫刻の工程のなかには、こうした職人的作業が多く含まれていて、例えば木や石を磨いたり、石目彫りのような加工は、現在私がやっている砂マチエールに近いものだろうと思います。今週はこんな作業をじっくり1週間やり続けていました。火曜日と金曜日はルーティンとして近隣のスポーツ施設に水泳に行ってきました。作業で使う筋肉だけでは身体を健康に保つことが出来ないので、私は昔から継続している水泳をやっています。水泳で心拍数を上げた後で、身体に器材をつけて水中筋トレをやっています。水泳にも水中筋トレにもコーチがついていますが、個人ではなく何人かで行うスポーツを私は気に入っていて、余程のことがない限り休むことはありません。スポーツに関しては自分一人で行うことが私は苦手なのかもしれません。金曜日は水泳の後、工房には戻らずに、注文したシュトーレンを受け取りに川崎市まで車を走らせました。友人のパティシエが作るシュトーレンは私にとって最高の品で、20代の頃に暮らしたウィーンの思い出がいっぱい詰まっているのです。
    友人が作るシュトレン
    1980年から85年まで私はオーストリアの首都ウィーンに住んでいました。同地の美術アカデミーに通っていましたが、そこで知り合った日本人の菓子職人と仲良くなっていました。彼はウィーンでの菓子修行を終えると、地元の神奈川県川崎市に戻り、ドイツ・オーストリアの菓子を売る店をオープンしました。私も帰国後に彼の店を訪ね、パティシエの作る本格的なドイツ系の菓子に舌鼓を打っていました。ウィーンでよくクリスマス時期に食べていた保存用の菓子パンであるシュトレンは、当時の日本では知名度が低く、ベーカリーに並ぶことが少なかったように記憶しています。今でこそよく知られたシュトレンですが、私にとっては懐かしい味であり、彼がシュトレン作りを始めたのは本当に幸いでした。毎年この時期になると私は彼の店「マリアツェル」にシュトレンを注文しています。あの頃、ウィーンに滞在していた先輩の画家や、時期が前後してスペインに滞在していた彫刻の師匠宅へシュトレンを郵送するのが、私にとって晦日の定番になっていて、あの頃の思い出をいつまでも共有したいと願っているからです。以前NOTE(ブログ)に書きましたが、シュトレンはドレスデン発祥のドイツパンと言われていますが、資料によると1329年ナウムブルグの司教に贈呈したクリスマスの贈り物という記録があるようです。シュトレンは坑道と訳されていますが、幼子イエスのおくるみに形を似せていることがあって、その生誕であるクリスマスまでに食べていくパンという謂れがあるのかもしれません。シュトレンを薄く切って紅茶と楽しむと、そろそろクリスマスだなぁ、今年もあと僅かと思うのも私がキリスト教国で暮らした名残りなのだろうと感じています。
    「世界市場の形成」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第1章 16世紀における近代世界システムの形成と『世界文化市場』の成立」は6つの単元からなっています。まず最初の「1 世界市場の形成」を取り上げます。「フェルディナンドの跡を継いだカルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)は、絶対主義権力とその手段である軍事と財政を手中におさめた。さらにまた、この時、ローマ・カトリック教会がルターの離反(1517年)と教会の分裂の危機を迎え、ヨーロッパにおいて失った信者を新世界とアジアにおいて獲得しようという対抗政策を立てなかったならば、キリスト教を軸とするヨーロッパ文化の世界進出という契機も生まれなかったのである。この鍵となるのは、スペイン、ポルトガルを主として、西欧世界が世界市場の獲得に進出する際に果たしたカトリック教会(教皇庁)と教皇の役割である。~略~ポルトガル国王、スペイン国王いずれもが自己の海外征服事業を正当化し、またその正当性を宣伝するために、教皇の精神的支援を求めた。いっぽう教皇側は、カトリック教会の拡大を計るために、かれらの征服に対してその正当性を証明した。~略~ポルトガルの布教圏内では、現地人の聖職者養成は基本的に支持された。これを推進したのは、日本の布教の中心人物だったアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。彼は日本、中国における聖職者の養成を積極的に推進し、日本に司教を置くべきだと強く主張した。~略~彼がポルトガル布教圏に属していたことと、国籍がイタリア人であったこと、南アメリカの悲惨を報告によって知っていたことによって、日本における宣教は、新世界とはきわめて異なったものになったのである。日本史を変えた豊臣秀吉の禁教令再交布の直接の契機は、難破船サン・フェリペ号の『スペイン人乗組員』が口走ったスペイン的征服者の言辞が引き金だったといわれている。~略~サン・フェリペ号の積荷を没収されて怒った水先案内人のデ・ランダというスペイン人が、土佐の奉行増田右衛門に向かって『スペイン王の支配は全世界におよぶのだ』と威嚇した。そこで奉行は『どうやってそのような征服をやることができたのか』と聞いた。するとこの男は『最初に神父を布教に出し、しかるのちに、スペイン艦隊がくる、そして前もってキリシタンにしておいた信徒を使ってその国をスペインの領土にするのだ』と答えたそうである。この言辞はこの後ながくキリシタン迫害と排除、ついには鎖国の根拠ともなった言辞であり、征服を行なう意図のないポルトガル布教圏とは異質の理念であったにもかかわらず、キリシタン排除の戦略を練る秀吉によって格好の言質とされたものであった。」今回はここまでにします。
    新聞記事より「固有の構築物」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「感情過多なんて、感情の豊かさとは何ら関係ないよ。無関係。 田村隆一」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「感情の豊かな人は感情的ではない。ヒステリックな感情表現は『感情の貧しさ、卑小さ』を示すにすぎないと、詩人は言う。詩もなまの感情の発露ではない。言葉のリズムや色彩、語と語とのデリケートな関係などによって、人のもやもやした感情を内側から補強した『固有の構築物』だと。詩人の語りを編んだ『言葉なんかおぼえるんじゃなかった』(文・永薗安浩)から。」喜怒哀楽が即座に表に出る人は、実直な感情に左右されがちで、それでその人は自己完結していると私は思っています。あの人は感情に走りがちと周囲に思われている人は、きっと身近に一人や二人はいるのではないでしょうか。その人が豊かな感情表現を持っているとは限らないという意味はどこにあるのでしょうか。素直な感情を発露していることを人に伝えるとしたら、直情型では難しいと私も思います。他者に感情を伝えるとしたら、そこには表現のために必要な計算があります。どんな媒体であれ自己表現を行なう時には、感情が底辺に流れていたとしても、それをどのように表現として昇華していくのか、そのための技巧を駆使して、自分と同じような制作意図と感情を他者に汲み取ってほしいと願うのです。「固有の構築物」とはそういうもので、それを下支えするものが感情の豊かさであろうと思います。ましてや言葉を表現要素としている詩は、「リズムや色彩、語と語とのデリケートな関係など」とコメントに書かれていますが、練りに練って構築していくものなのでしょう。造形美術にしてもそれは同じです。ただし、詩と違うのは造形美術が言葉を媒介しないために、説明がなくても創造行為が成り立つところです。私はそこが気に入って日々制作しているのです。
    「聖母像の到来」読み始める
    今日から「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)を読み始めました。これは先日まで読んでいた「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)に続くもので、つい先日、池袋のジュンク堂書店で購入したものです。宗教を学問として考えると、人々の信仰に纏わる心理状態と、布教という組織的活動が齎す社会的活動が絡み合って、大変深みのある事象が導きだされてきて、私自身の興味関心が尽きません。日本にキリスト教がどのような経路でやってきたのか、そもそもキリスト教の布教戦略とはどんなものだったのか、本書から紐解けることで私自身が得るものは大きいように思えます。本書の序論に主題となる文章がありました。「布教の世界地図を俯瞰すれば、スペイン人入植地のアメリカと、ポルトガル人入植地のアジアとではそれぞれ母国の政策の差異、そして、征服されるべき対象国の文化の差異によってその政策は大きな相違を生んだ。スペイン人が入植した南アメリカの各地では、その土着文化が破壊され、住民は殲滅されるか、奴隷化された。しかし、ポルトガル人が征服の対象としたアジアのうち、中国と日本は、この時期の西欧人の世界認識において、『例外的存在』であった。それは第一に、西欧とはきわめて異質であるが、きわめて高い同等の文化をもっていると西欧が認識したこと。第二に、両国は、ウォーラーステイン(※米の社会学者)によれば、世界システムの『圏外』におかれていたということである。すなわち、16,17世紀の時点においては、両国は、南アメリカや東南アジア諸地域におけるような征服/入植/奴隷売買の対象にならなかったのである。~略~日本には、まず布教の初期には、16世紀半ばから末にかけてローマで形成された対抗宗教改革期固有のマリア像が輸入され、それが模写された。その後、信者と聖堂が増加し、マリア像の需要が大幅に上昇すると、組織的な工房や学校がつくられ、招聘されたイタリア人画家が画工を育成し、聖母像も日本人の手によって量産された。~略~その時かれらは、『仏教』の観音像とみられるものを『聖母像』として崇敬した。旧来キリシタン研究者は、これは、仏教徒となるべく強制された信者らが、カムフラージュのために、既存の仏像を『転用』したのであると解釈してきた。しかし、当時の記録によると、この像は、信者によって真の『聖母マリア像』としての崇敬を受けていたのである。」今回はここまでにします。