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  • 「ベㇽリーニ」について
    「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ベㇽリーニ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「天は、絵画における名声がベㇽリーニ一族ならびに子孫によって、いつまでも現状維持ではなく、さらに増大するよう望みを給うたのか、二人の子供がヤーコポに授かった。二人とも絵を大いに好み、かつまた輝かしい天才に恵まれていた。名を片やジョヴァンニ、片やジェンティーレという。ジェンティーレの名は、慈父のごとき師匠のジェンティーレ・ダ・ファブリアーノに父が抱き続けた優しい思い出にちなんでつけられている。~略~ヴェネツィアでは画布を使うのがしきたりで、その理由としては、割れない、虫食いがない、好みのサイズの画布が得られる、あるいは別のところで言及したが、望みの場所へ手軽にごく安く送れるといったことがあげられる。そのいずれかの理由で、ヤーコポとジェンティーレは初期の作品を画布に描いている。~略~この画布の上に描かれた物語絵のすべてが、ジェンティーレに大いなる名声をもたらした。その後、ヤーコポは一人で仕事をするようになり、息子たちも父にならって、個々に独立して画業の上達に専念するようになった。」兄ジェンティーレについての記述を入れます。「ジェンティーレはコンスタンティノポリスを出発し、平安な航海ののちヴェネツィアに帰着した。ヴェネツィアでは弟ジョヴァンニをはじめとして、ほとんど全市民に歓呼の声で迎えられた。メフメット二世がジェンティーレの才能に与えた名誉に一同大満悦であった。」次に弟ジョヴァンニに関する記述です。「心から兄を愛してやまなかったジョヴァンニは、ジェンティーレ亡きあとも生き長らえ、老齢にもめげず、なんらかの仕事を続けつつ時を過ごした。~略~90歳にしてついにジョヴァンニは、祖国ヴェネツィアならびに異郷にて制作した作品によって永遠に記憶さるべき名を残して、老衰のためこの世を去った。兄ジェンティーレを自ら安置した同じ寺院の同じ場所に、名誉ある葬儀とともに葬られた。」今回はここまでにします。
    「フィリッポ・リッピ」について
    「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「フィリッポ・リッピ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「(フィリッポが)マルカ・ダンコーナにいたころ、ある日、友人たちと小舟で海に遊びに出たが、そのあたりを跳梁していたムーア人の海賊船に全員とっ捕まってしまい、みな北アフリカのバルバリーへ連れて行かれた。そしてそれぞれ鎖につながれて奴隷にされてしまい、そこでひどく難儀な目にあいながら18カ月を過ごした。しかしフィリッポ・リッピは親方といい仲であったので、親分の肖像を描こうという気まぐれを起こし、その機会に恵まれた。フィリッポは火の消えた炭を取ると、それでもって、白い壁にムーア風の服装をした親分の全身像を描いたのである。そのことは他の奴隷の口からたちまち親分の耳に伝わった。というのは、この地方ではデッサンも絵画も行われていないので、その肖像画は皆の目に奇蹟のように映じたからである。」フィリッポの悪癖について述べた箇所があります。「噂によると、このフィリッポはたいへんな女好きで、自分の気に入った女を見かけると、その女をものにすることができるなら、自分の持物はすべてくれてやるような男だった。またそうした手段で女をものにすることができないときは、女の肖像を絵に描いたが、それは絵を描くことによって自分の恋の焔を消すためであった。彼は色欲に溺れることのはなはだしい男で、そうした情にとらわれた時は、自分が手がけた作品にほとんど、あるいは全然注意を払わない始末であった。」絵画に関しては一流だったようです。「フラ・フィリッポはあらゆる絵において稀にみるすぐれた人であったが、小さな絵においてはとくにすぐれていた。というのは、そうした小さな絵をいかにも優雅に美しく描いたので、これ以上上手には描けないという域に達していたからである。そのことは彼が描いたどの板絵の裾絵を見てもわかることである。要するに彼は、その当時では誰にも凌駕されることのない傑出した画家であったし、今日でも彼をしのぐ人の数は少ない。それだからミケランジェロは、ただ単に彼をいつも褒めそやすばかりか、いろいろな点で彼を模倣した。」今回はここまでにします。
    「フラ・アンジェリコ」について
    「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「フラ・アンジェリコ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「フラ・ジョヴァンニ(アンジェリコ)は、質素で品性の清純な人物であった。謙虚な性格を物語る良い話がある。ある朝、法王ニコラウス五世に食事に誘われたが、相手が最高権力者の法王であるのをつい失念して、修道院長の許可なしに肉は食べられないと遠慮したという。フラ・ジョヴァンニは俗界の喧躁をまったく遠ざけ、美しく簡素な生活をおくり、貧しき人々の友であった。よって今では、その魂は天上の友として遇されているだろう。絵画において努力を惜しまなかったが、聖者を題材にとったものしか扱わず、その気になれば金持になれたが金銭には無関心であった。逆にわずかなものに満足することこそ真の裕福であると、繰り返すのが常であった。多くの人を使う身分にもなり得たが、それも望まなかった。他人につかえるほうが苦労は少なく、間違いはないというのである。修道院の外でも内でも、栄誉は意のままであったが、それに重きを置かず、地獄を避け天国に上がること以外、いかなる現世の栄誉をも求めなかった。信仰に生きる人のみならず、すべての人間が探し求めるべきであり、しかも神と敬虔な生活においてのみ見出すことのできる栄誉に比すべきものがあるだろうか。フラ・ジョヴァンニは人間味あふれる節度ある性格で、清らかな生活を送っていたため、俗世の罠にはまらなかった。自分のような仕事に従事するならば、静かな憂いのない生活を送るべきだとも、キリストにまつわる話を描くなら、いつもキリストの近くにいなくてはならないとも、繰り返し言っていた。修道僧といるときも、信じがたいことだが、怒った顔ひとつ見せなかったのは立派というほかない。友をさとすにあたっても、素直な微笑をたやさなかった。」今回はここまでにします。
    20冊目の図録に思う
    今晩、図録用の撮影をしてくれたカメラマン2人が、完成した図録を持って自宅にやってきました。図録は色校正をするときに一度見ていますが、やはり刷り上がった図録を見るのは何とも言えない気持ちになります。今年の図録で20冊目です。最初から意図したわけではないのですが、私は1冊目から20冊目まで同じサイズで作っていて、ページ数も構成もほぼ同じに統一しています。ただ、毎年作品が異なるので画像の雰囲気はガラリと変わっています。過去の図録を開くと、その時苦労したことが浮かび上がってきて、自分がいかに全力で取り組んできたか、また課題も見えてきて、私自身は懐かしむ気持ちにはなりません。自分の作品に満足しないからこそ、翌年に繋げられるし、自分が紆余曲折しながら歩んできた道が見えています。図録のクオリティは高いと思いつつ、今年の作品もそうですが、造形世界がまだここだけでしかないと感じることが自己満足が得られない原因です。広く存在感のある造形世界をどう作っていくのか、どう演出していくのか、自分には課題が山積みしていると実感する由縁です。図録の最終ページに私自身の画像を載せています。20年も経てば年老いるのは分かっていますが、今年は笑顔で撮影してもらっているので、やや柔和な感じを持ちます。いつぞやは飼い猫トラ吉と一緒の写真を載せていました。トラ吉はもう虹を渡ってしまっています。手伝っていただけるスタッフたちも様変わりしていて、野外撮影の際に作品設置の場面を撮影してもらうのは、いい記録になっていると思っています。展示を企画していただいている東京銀座のギャラリーせいほうも長いつきあいになっていて、20回もやらせていただけたことに感謝しています。
    「ピエーロ・デㇽラ・フランチェスカ」について
    「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ピエーロ・デㇽラ・フランチェスカ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「彼は数学、幾何学および正面体の図学的処理に関して、傑出した大家とみなされていたが、老年になってからの失明、それに続く死のために、優れた業績や、書き上げられた論文は公にされなかった。論文は今もなお故郷のボルゴに残されている。この人の名誉を全力を傾けて推輓すべき人物が、すべてをこの人から学んだのであるから当然そうすべきであるにもかかわらず、邪な悪意を抱いて、師ピエーロの名を闇に葬ってしまった。そして師にのみに捧げられるべき栄光を、すなわち、数学などの前述の学問ばかりでなく、絵画にも秀でていた善良なる老師の全業績を、自分の名、フラ・ルーカ・ダル・ボルゴを冠して出版することによって横取りしようとしたのであった。」私は本書を読む前にピエーロ・デㇽラ・フランチェスカの生涯を綴った伝記を読んでいました。このエピソードはこの大家を語る上で重要な位置を占めているようです。絵画に関する記述を拾います。「ローマでの作品を完成した後、ピエーロは母が死んだためボルゴに帰ってきた。ボルゴでは、町の本寺の正面扉の裏に壁画で二人の聖人を描き上げ、美しさで評判になった。サン・アゴスティーノ修道会の僧院では、主祭壇用の絵を描いて大きな賞讃をうけた。つづいて、通称同志団と呼ばれる信仰団体の寺に、壁画『慈悲の聖母』を描いた。さらにはコンセルヴァドーリの宮殿に『キリストの復活』を描くが、これは、この町のなかではもちろんピエーロの全作品の最良のものとされている。~略~ピエーロは研究熱心であった。とりわけ遠近法の造詣は深く、ユークリッド幾何学を完全に把握していた。正面体上に描かれた曲線を、いかなる幾何学者よりも明瞭に理解しており、この分野でのすべての光明はピエーロの手によって灯されたといえる。というのは、幾何学上の正面体について論文を著わしたフランチェスコ派の僧、ルーカ・ダル・ボルゴ先生はピエーロの教え子だったのである。ピエーロは死間近の老年期には、すでに多くの本を書いていた。巨匠の死後、本を手に入れた前述のルーカは、それをそのまま横取りして、自分の著作として印刷させたのであった。」今回はここまでにします。