2025.10.17 Friday
昨日、東京六本木にあるサントリー美術館で開催している「絵金」展に行ってきました。本展は「幕末土佐の天才絵師」という題名もついていて、高知県に根ざした土着性の強い絵画文化を見ることが出来て、私は些か驚きました。図録より紹介文を拾います。「江戸や京、大坂を文化の中心とする視点で見るとき、いずれの画系の様式とも異なる独特の画風で、『血みどろ』が印象的な芝居絵屏風を高知のみに大量に残した絵金は、異端、奇才の絵師そのものであるが、代表作となる芝居絵屏風の数々や絵馬提灯ばかりではなく、美人画、年中行事図、五月節句の幟、絵馬などの多数な作品を本展でご覧いただければ、絵金が職業絵師として高知の大衆文化の王道を歩んだ時代の寵児であったことが理解されるだろう。」詳細な内容を一部抜粋します。「絵金が芝居絵屏風や絵馬提灯に描いたのは、現実に上演された舞台の場面ではなく、芝居の物語そのものとされている。複数の場面をひとつの画面に登場させた、いわゆる『異時同図法』で描かれた芝居絵屏風が少なくない。~略~絵金の芝居絵屏風は、氏子たちによって神社に奉納され、夏の祭礼で多くの見物人に披露されるものであるが、さて、これらの屏風の制作を絵金に注文した氏子たちや祭りの見物人たちに、屏風に描かれたストーリーを読み解くだけの芝居の知識がどれだけあったのだろうかという疑問が、本稿を執筆したきっかけである。」それは時代背景により、芝居が上演禁止になっていた時期があったようです。「寛政11年と天保12年の幕府のお触れによれば、歌舞伎等、一切の見世物はご法度であったが、土佐藩内での制限はゆるやかで、文政期には稀にではあるが地方で地芝居があり、天保期には高知城下の近郊で地芝居があった。嘉永期には、質素倹約令など諸法度による制限が撤廃され、各所で流行した。」(引用は全て藤村忠範著)そんな時代を乗り越えてきた絵金の芝居絵屏風等を、現代になって見応えのあるアートとして鑑賞できるのは奇跡と言えるのかもしれません。毒々しい情念が織りなす「血みどろ」な絵画に、人間が元来持っている摩訶不思議な究極の美を感じるのは私だけでしょうか。
2025.10.16 Thursday
先日の月曜日、急遽師匠に会いに国立新美術館に出かけることになり、その前日に窯入れを行ないました。焼成から作品を取り出すのに3日間を要するので、昨日の水曜日に窯出しを行なって、すぐ作品を入れ替えて窯のスイッチを入れました。再び窯が稼働中になり、今日も月曜日と同じで、工房での作業は出来ませんでした。窯を焚いている時は、窯以外の電源を落として、窯が問題なく稼働できるようにしているため工房での作業は休むのです。そのため今日は東京の美術館2ヶ所に出かけました。家内は演奏活動がなかったために美術館巡りにつき合ってくれました。最初に訪れたのは六本木にあるサントリー美術館で、ここで開催している「絵金」展は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した絵師金蔵による芝居絵屏風や絵馬提灯などがあり、通常目にする浮世絵とは違う印象を持ちました。土佐(高知県)という地方が活躍の舞台だったためか、土着性の強い色彩や芝居のドラマ性を際立たせた構図を見ていると、血生臭い雰囲気が伝わってきて、相当強いインパクトがありました。私が大学生の頃、夢中になったアングラ演劇を思い出したのも、むべなるかなと納得していました。現在でも祭礼に使われる絵柄であることが分かり、図録から詳しい内容を引用して、さらに別稿を起こしたいと思っています。次に向かったのは汐留で、パナソニック汐留美術館で開催している「ウィーン・スタイル」展でした。副題を「ビーダーマイヤーと世紀末」としていて、つい先ほど見ていた「絵金」とは180度違う作風に、視覚芸術の幅広さを実感しました。ここで展示されていたウィーン工房による幾何学的なデザインやアール・デコ調の家具がある会場の雰囲気は、私には馴染みのあるものでした。これも私が大学を卒業してウィーンで暮らしていた頃に、比較的身近なものだったので自分には新鮮さがないものの、よくぞこれだけ収集してきたなぁと感心しました。「ウィーン・スタイル」展の詳しい感想は後日改めます。今日は充実した一日でした。
2025.10.15 Wednesday
今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「いつまでも…終わってほしくないほどのものが、幸福な生なのに、終わるからこそ幸福であるというパラドックス 古東哲明」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「面白い映画も、果てしなく続けば『退屈どころか、不気味』だ。マラソンもゴールがあるから苦役にならない。同じように、ずっと続いてほしい幸福な人生もエンドマークがあるから愉しめるのだと、哲学者は言う。眼の前の光景も〈死〉という終わりのほうから見つめると、『とたんにやさしい光をおびて』くると。『思考の平均律』から。」昨日のNOTE(ブログ)に書いた「カタチあるものはすべて壊れる」のは、何も物質に限ったことではなく、私たちの人生にも言えることで、人には必ず死が訪れます。それは頭で理解していても、若かった私には実感が伴わず、自らの死をイメージすることが出来ませんでした。身近な人、たとえば祖父母や両親が死を迎えたことで、死を徐々に実感するわけですが、私は心のどこかで死を恐れているのも確かです。母が他界した時に、自らの死生観を考えるために、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の中にあった死生観に関する箇所を熟読していました。人生にはエンドマークがあるからこそ充実するということも私は分かっていて、自分の創作活動もそのゴールに向かって突っ走っている意識はあります。死があるからこそ生が輝くのは、私が若い頃過ごしたウィーンに栄えた世紀末芸術の真髄で、自分が若かった時代に死がイメージできなくても、その爛熟した美しさを堪能してきました。生きる実感は終わりがあるからだと考えるのは、あるいは健康な精神状態かもしれず、それを受け入れて愉しんでいこうと思うのは私一人ではないと思っています。
2025.10.14 Tuesday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の5つ目の章は「模範とすべきはかなさ」という題がついています。「キリスト教では個人の死が、最後の審判の日に万人が復活するためには、ぜひとも必要なプレリュード(前奏曲)とされていた。廃墟はこのプロセスの完全なメタファー(隠喩)だった。つまり廃墟は皮膚の下のしゃれこうべだという。建造物が壮大であればあるほど、その骸骨はいっそう効果的に人間の誇りの虚しさを提示する。ローマの廃墟は巨大な規模で示された警告=メメント・モリ(〔なんじは死を覚悟せよ〕)なのである。1462年に教皇ピウス二世が、古代のモニュメントを破壊から保護する法令をはじめて導入したとき、彼がそれを発令した理由のひとつは、『模範とすべきはかなさ』を示す記念物の光景をなんとかして保存したいと思ったからだった。~略~衰亡や崩壊はすべての人間の身にかならず起こることだった。これは別の言葉でいえば、最後の審判のラッパが『時』の終わりを告げるとき、人間の作った建造物はことごとく崩壊するということである。農夫の草ぶきの小屋から皇帝の光輝くドームまで、崩壊を逃れる術はない。『裁きの日』の恐ろしい光景は、崩れ落ちた円柱やオベリスクなどによって視覚化されている。」カタチあるものはすべて壊れるという諺通り、はかなく砕け散った物質を見るにつけ、芸術性豊かな建築が崩れ落ちた光景を見ると、同じ領域に入る彫刻も、同じ運命にあると私は思っています。その廃墟を鑑賞の対象とした詩人は、人間の感性の広がりを認めたことで、本書が成り立つ要因になっていると私は考えます。「いち早く新しい『虚しさ』の材料を見つけ出したのは詩人だった。その材料とは800に及ぶ中世の修道院の廃墟である。それはヘンリー八世によって差し押えられ、掠奪され、売却されたものだった。寒々として寂しげな石の骸骨が、あたかも恐竜の骨のように田舎や町のあちらこちらに散在していた。そこを通り過ぎる人たちにとって、廃墟はあまりに生々しく、むき出しで、痛々しいまでに自らを語っているように見えた。それは現代でいえば、空爆によって崩れた建物の残骸を見るようなものだ。したがって、廃墟を最初に称賛した人々は、廃墟が目に訴えかけてくるより、むしろ魂に訴えかけてくるのを感じた。」今回はここまでにします。
2025.10.13 Monday
例年この時期は国立新美術館で「自由美術展」が開催されていて、師匠の彫刻家池田宗弘先生が出品しています。今年は案内状が先生から送られてこないので、心配をしておりました。今日が同展の最終日なので、昨日先生に電話をしたら、お元気な声が聞けて私は安心しました。先生は86歳という高齢なので、何があってもおかしくないと思っていました。身体が痛い日があって作業は難儀していると、先生にしたら珍しく弱音を吐いていましたが、真鍮直付けという技法は溶接が多く、同じ姿勢で作業をしなければならないため、身体への負担は相当のものだろうと察しました。今回は締め切りギリギリまで制作をして、なお未完成で搬入をしてしまったようで、数十年間も同展に出品された先生の作品で、未完成の作品を私は初めて見ました。他の作家から鋳造と言われていた作品が真鍮直付けだったことが、図らずも露呈してしまった形になりましたが、独特な制作技法を持つ先生の個性が際立つ結果になったわけです。昼頃、同展の会場にいたら池田先生が現れました。長野県の聖山高原から東京の六本木に、先生は搬出作業にやってきたのですが、彫刻出品者の控室に案内されて、私は久しぶりに先生と積もる話が出来ました。先生の制作意欲は衰え知らずで、今回未完成の作品「修道士と悪魔」を近いうちに完成させて、どこかで発表をしたいとおっしゃっていました。先生は以前住まわれていた東京秋津の工房兼住居を売り払って、現在は長野県だけで工房を一本化したため、気持ちは随分楽になったようです。先生が奥様を亡くされて、たった一人で長野県の山奥に暮らしている生活を、私は時折思い返しては、高村光太郎状態の池田先生にとって孤独に悩まされることはないのだろうかと思うことがありますが、創作活動がそれを救っているように思われます。私も工房にいて作業をしている時は孤独を感じず、この状態があらゆる生活面でも続いているのだろうとイメージしています。今日は予定を変更して国立新美術館まで出向いて、池田先生にお会いできたことを嬉しく思いました。