2025.11.22 Saturday
週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も毎日工房に通っていました。今週は窯入れを2回行いました。乾燥した後、仕上げや化粧掛けを施した陶彫部品があり、そのまま長く放置できなかったので、今週一気に焼成を行なうことにしたのでした。焼成をしていないうちは、ただ陶土を乾かしただけにすぎず、何かがあれば欠損してしまうリスクがあります。焼成しておけば、床に落とす等の衝撃がない限り、損傷はありません。この2回の焼成で新作の陶彫部分は全て終了になり、残すのは板材を刳り貫く加工だけなのです。この板材加工もなかなか手間のかかる作業で、今週の主だった制作は板材にデザインを施したことでした。陶彫の窯入れは月曜日と木曜日の夕方に行いました。月曜日に窯入れした作品は木曜日に窯出しを行い、次の作品をその日のうちに窯に入れました。窯入れをすると窯以外の電気のブレーカーを落としてしまうので、火曜日と金曜日は工房で作業が出来ず、通常なら美術館に行ったりしているのですが、今週はその予定がなく、火曜日は近隣のスポーツ施設で水泳をしていました。金曜日も水泳をしていましたが、夕方から東京銀座のギャラリーせいほうに出かけました。今週一番印象に残ったのが、このギャラリーせいほうの閉廊パーティーでした。ギャラリーとの付き合いは20年間に及び、私の陶彫による世界観のほとんどがそこで培われました。私は大勢の彫刻家がいたパーティーの中で、ギャラリーの空間をじっと見つめていて、そこに展示した自作の振り返りをしていました。白い空間に私の錆色をした出土品のような陶彫作品が映えるなぁと感じていた一方で、個展開催中は自作をじっくり眺めて、作り足りないところに気落ちしながら、来年こそ力量を高めていこうと決意していました。その決意の継続が20回も個展が続いた原動力になっていると改めて感じていました。
2025.11.21 Friday
20年にわたって私の個展を企画していただいた東京銀座のギャラリーせいほう。私は休むことなく無我夢中で創作に明け暮れ、20回の個展をやってきました。初めのうちは横浜市立中学校の校長職にありながら、休日を全て創作活動にあてて、開催日程に合わせ、綱渡りのような緊張をもって制作をしてきました。それによって私の世界観が育ったのも確かです。ギャラリーせいほうが閉廊することを画廊主の田中さんから知らされたのは個展の最終日でした。今日がその閉廊パーティーで、ここで個展を開催した彫刻家たち50数人が集まりました。私は母校の先輩や他の彫刻家諸氏と話が出来たのも幸運でした。ギャラリーせいほうは、私の学生時代に師匠の池田宗弘先生の個展を手伝ったことが契機になって、ここに時々顔を出すようになりました。陶彫家辻晋堂氏や速水史朗氏(速水氏は先日もせいほうで個展をやっていました。)の仕事を知って、私の脳裏に陶彫の技法が刻まれました。海外生活から帰って、地元で教職公務員になり、陶彫の研鑽を積み、以前影響を受けた陶彫家が個展をやっていたギャラリーせいほうを訪ねました。師匠からの紹介もあって、2006年に私は最初の個展を企画していただきました。私は天にも昇る心境になり、勢い勇んで個展に臨みました。当時、私は中学校で教務主任という立場で多忙を極めていましたが、せっかくのチャンスを何とかモノにしようと奮闘しました。それから毎年全力投球で、20年間を乗り切ってきました。二束の草鞋生活で時間がなかったせいか、創作の迷いはなく、また余計なことも考えず、一直線に自らの世界観を構築してきたのではないかと振り返っています。私の制作姿勢は今も変わりません。私の夏の個展は「うしお画廊」に引き継いでもらうことになりました。「うしお画廊」はギャラリーせいほうのような彫刻専門画廊ではないのですが、彫刻専門画廊はほとんどなくなってしまったのではないかと思っています。ギャラリーせいほうの田中譲様、20年間本当にお世話になりました。
2025.11.20 Thursday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の5つ目のパート「聖なる空間をレイアウトする」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の2つ「第18章 神殿と聖地」と「第19章 祈りと修行の場」を取り上げます。「日本の神社建築がどのようにして誕生したのかはよく分からない。飛鳥時代や奈良時代に仏教が高度な仏教建築とともに輸入されたが、これに応じて神道の神々も大きな社をもつようになった。有名なのはアマテラスを祀る伊勢神宮とオホクニヌシを祀る出雲大社だ。」その後にエルサレムについての記述があります。「古代のイスラエル人ないしユダヤ人は紀元前一千年紀のあいだにこの地に建国し、異民族に追い払われ、また戻ってきた。紀元後の70年にローマ帝国が神殿を完全に破壊した。現在、かつての神殿の丘の外壁の一部が露出した場所がユダヤ教徒にとっての祈りの地となっている。いわゆる嘆きの壁だ。エルサレムはキリスト教徒にとっても聖地である。~略~さらにこの地はイスラム教徒にとっても聖地だ。~略~なぜ三つの宗教の聖地が重なっているのかというと、三宗教の歴史が重なっているからである。キリスト教はユダヤ教から派生したものであり(イエスはユダヤ人だ)、イスラム教はユダヤ教とキリスト教の影響のもとに成立した。というわけで、エルサレムが聖地であるのは歴史的経緯による。」次は祈りと修行の場について。「場所や空間の特別性(聖性)は、そこに神霊が宿っている、あるいはかつて神霊が出現したという神話によって固定されることもあるし、開祖や先祖たちについての歴史の記憶によって固定されることもある。さらに、そうした条件がなくても、建築物や聖なる小道具や儀礼の演出によってプロジェクト的に構築されることもある。常設の建物であれば朽ち果てるまでのあいだずっと、建物がなければそのたびごとの祭礼や祝祭の場として臨時的に、聖なる空間が現出するわけだ。」今回はここまでにします。
2025.11.19 Wednesday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の4つ目のパート「儀礼と修行の可視化」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の2つ「第16章 戦いか和合か」と「第17章 聖なる文字」を取り上げます。「表象の世界では善は神仏に、悪は悪魔や鬼に振り分けられるが、この対立は伝統によってはそれほど峻厳なものではない。善人にも隠された悪があり、悪人にも人知れぬ善意があるように、神霊たちの善悪の状態もそう簡単には二分割できないと考える伝統は多い。~略~中国的な陰陽のロジックは、『古事記』における二柱の男女神、イザナキとイザナミのイメージにも影響を与えているかもしれない。~略~中国の影響がどこまであるかは分からないが、日本列島では女が巫女として霊界通信を担い、男が政治方面を担うというロジックが伝統的に根強い。~略~大ヒットのアニメでさえ、たとえばポニョと宗介(『崖の上のポニョ』)、三葉と瀧(『君の名は。』)、陽菜と帆高(『天気の子』)、禰豆子と炭治郎(『鬼滅の刃』)に、同様の設定が生きているようだ(いずれの場合も女性が原始の生命、巫女、竜神の生贄、鬼であり、男性が世俗の側に立っている)。」次は聖なる文字。「甲骨文字あるいは漢字というものの始原に呪術ないし宗教があると言うことができる。文字成立の問題を離れても、古代人が呪術的な世界観をもっていた以上、文字の形にそれが反映していないはずはない。~略~イスラエルの民の指導者であるモーセに、神ヤハウェが十戒を啓示した。『出エジプト記』によれば、神は二枚の板に自ら十戒を刻んでモーセに渡したらしい。映画ではそれを、古ヘブライ文字ーより古い文字体系であるフェニキア文字に近いーで再現している。~略~文字の伝播は宗教の伝播と連動しているからだ。インド系の文字の東方への広がりはヒンドゥー教や仏教の伝播と関連している。ヨーロッパのキリスト教はギリシャ系の正教かローマ系のカトリック(およびその派生形であるプロテスタント)かのどちらかだが、これが概ねキリル文字とローマ文字の分布に対応している。そして漢字文化圏の独自性は、この地域が儒教と道教と大乗仏教をミックスした独自の宗教文化をなしていることと無関係とは言えない。」今回はここまでにします。
2025.11.18 Tuesday
「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の4つ目のパート「儀礼と修行の可視化」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち前半の2つ「第14章 求道の階梯」と「第15章 大宇宙と小宇宙の照応」を扱います。「禅宗には、一人の求道者が悟りを求めてから悟りをものにするまでの流れを、若者が牛を捕まえるプロセスに擬して描いた十枚セットの図様がある。~略~十牛図は師匠のもとで坐禅を修行する者の精神トリップを象徴的に描いたものだ。~略~ここにある社会性は唯一、十枚目の絵で次世代に伝道していることだけである。こうした内向性は次で見る『天路歴程』の巡礼の外向的なビジョンとは大きく異なる。」そこでキリスト教を見ていきます。「『天路歴程』が前提とするプロテスタンティズムによれば、人生という試練の場の最終的な結論は天国行きではないとしたら地獄の滅びであるが、『神曲』が描くカトリックの世界観ではもう一つ可能性があり、それが煉獄だ。絵の背景にそびえたつのは南半球にあるという煉獄山である(七つの大罪ー傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲、暴食、淫乱ー応じて七つの段階がある)。」次に 大宇宙と小宇宙の照応について。「一神教の論理によれば、神が自らのイメージに従って人間を造った。他方、歴史的に見るならば、先史時代のいつかの時点で人間が神(神々)のイメージを生み出したことは間違いない。神が先か人間が先かはどうしても水掛け論になるが、いずれにせよ神々と人間は照応あるいは鏡像の関係にある。~略~インドで発展した仏教の最終的な形は密教であった。これは人間と神的対象(ここではブッダ、如来)との、イメージの中での照応関係が最大限に活用される。つまり修行者がイメージの中で大日如来などの尊像を構築し、ブッダと自らが一致することを目指すのである。この場合のブッダは宇宙全体の本質のような存在であり、小宇宙である人間と大宇宙であるブッダを一致させてしまうことを端的に即身成仏と呼ぶ。~略~キリスト教の神学では、人間でありかつ神であるキリストこそが、人間と神の媒介者である。ここから派生して、キリストが小宇宙(人間の体)と大宇宙(世界全体)との一致を体現しているという密教的な捉え方も出現した。」今回はここまでにします。