Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 週末 曖昧なイメージを育てる
    日曜日になりました。日曜日は主に創作活動について書いていますが、まだ来年発表予定の新作が具体性を持たず、湧いてきたイメージも曖昧なままです。それでも陶土を混合して、菊練りを行ない、まず陶彫成形の第一歩を踏み出しました。今年7月にギャラリーせいほうで発表する「発掘~跨橋~」は陶彫作品と陶彫作品を繋ぐ橋を、タイトルとして採用しています。新しい作品も「発掘~跨橋~」の発展形としてイメージしているので、主張するところは同じですが、橋桁から橋桁を繋ぐ橋が崩壊している姿を、私は思い浮かべていて、これをどうしようか思案しているところです。彫刻は物質を据えるため重力があり、それを支えるための工夫が必要です。絵画のような平面表現であれば、イメージを羽ばたかせることもできますが、空間芸術には制約が多いので、橋をどのように作り、それを支えるのか、または吊るのか、構造を具体的にするために原初的なイメージを育てていかなければならないのです。橋桁も重要な造形になり、それは私に画像としてイメージできているものがあります。従来なら20代終わりに旅したエーゲ海沿岸の古代遺跡がイメージの土台にあると言いたいところですが、40年も前の記憶は既に朧気で、自作に相応しい新たに仕入れたものを使うしか方法はありません。ふと頭を過ったのはドイツロマン派の画家フリードリヒの廃墟になった僧院を描いた絵画で、その暗いイメージが崩壊された橋にぴったりだなぁと思ったのでした。それはあくまでもイメージの補助でしかなく、その絵画を模倣することはありませんが、私はフリードリヒの広漠とした世界が好きで、崩壊と言うとドイツの画家フリードリヒか、イタリアの版画家ピラネージが浮かんできます。自分の引き出しにある芸術家はそれくらいですが、時折彼らの作風に接して見たくなるのは私の性癖だろうと思います。
    週末 梱包&鑑賞の1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行ないます。今週は新作の陶彫作品を作る一方で、7月の個展に向けて出品作品の梱包作業に追われていました。エアキャップのついたシートによる平面作品や古木材の梱包は終わっていて、陶彫作品を収める木箱作りを始めていました。昨年の作り方を思い出しながら、木箱を補強する垂木を切断しました。昨年ほど陶彫作品は多くはないので、作品量を確かめながら木箱作りを進めていきます。先日、カメラマンが撮影した案内状の画像がラインで届きました。私が確認して印刷を開始してもらうことにしました。今週はそうした作品に関すること以外に、2日間にわたる鑑賞の機会があって、私は楽しい時間を過ごしました。まず水曜日に出かけた川崎市立日本民家園。私以外に20代の女性たちが3人も一緒で、数多く点在する古民家を訪ね歩きました。彼女たちに背中を押されながら、私は白川郷の民家の中で、賑やかな彼女たちとアイスクリームを食べました。知り合ったばかりの台湾人アーティストもいて、彼女はスケッチをやっていました。翌日の木曜日に私は家内と東京新橋まで出かけ、パナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見てきました。印象派と同世代のルドンは、印象派の代表的な画家と比べても新しい感覚があります。とりわけ内面的で幻想的な作風は、印象主義の次にやってきた象徴主義を体現していて、私はこの時代以降が好きなのです。眼に見えるものを光や影を使って感じたものを感じたように描いた印象主義に対して、眼に見えないものを想像力を駆使して描いた象徴主義。現代美術はそこから始まっていると言っても過言ではありません。パナソニック汐留美術館には所蔵作品としてルオーの絵画があります。ルオーも同世代ですが、ルオーは表現主義と言うべきで、そこに宗教性を感じさせる骨太で静謐な画面を作っています。今回はルドンとルオーの比較も出来て、私には楽しい時間がありました。ただ、私がルオーを理解するには時間がかかりました。最近漸くルオーの誠実な作風が分かってきたところです。
    造形に内包される文学性
    昨日、東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見て、造形とそこに内包される文学性について考えてみます。図録から引用します。「ルドンの描く生き物には、まったく想像上のものとしか思えないものが出てくる。これには、ボルドーの植物学者アルマン・クラヴォー(1828ー90)の影響が大きい。ルドンは、20歳の頃かれと知り合い、かれに教えられた顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。若きルドンにボードレールなどの文学に触れる機会を提供したのもかれであり、ルドンの版画集『夢想』(1891年)はこのクラヴォーに捧げたものであった。この時顕微鏡の世界で知った日常的には見慣れないミクロの世界、そこで実際に生きる生き物が、ルドンのもう一つの発想源であったという。」(古谷可由著)ルドンの絵画には詩人の言葉や作家の物語からイメージされているものも多く、タイトルにそれが表れています。私の彫刻の師匠である池田宗弘先生も、時代の風刺を発想源にしていて、ドーミエのような文学表現が見られます。しかしながら、私は高校時代には現代詩に興味があったにもかかわらず、それが造形に及ばず、創作を始めた時から文学性や宗教性を排除しています。それでも私は造形の根幹には詩的発想があることは承知していて、詩に対する関心は人一倍強いのですが、私の造形は造形以外の何ものでもなく、そこに素材があるという存在感だけで成り立っています。私は自分自身のホームページの作品画像の最後にコトバを添えていますが、それは作品の根本理念を伝えるものではありません。作品に関して私は、作品タイトルにも反映していますが、具体性と簡潔性を持って称していて、そこに内在する何事もなく、陶は陶であり、木は木であるというモノ派のような考え方をしています。それは説明的要素を省く思考があるのも確かです。ただ、私は造形に内包される文学性や宗教性を鑑賞作品として味わうのは大好きで、自分の造形とは真逆にあるものを認め、大切にしています。「オディロン・ルドン展」を見て、そんなことも頭を過りました。
    新橋の「オディロン・ルドン展」
    今日は朝から工房に行き、新作の陶彫作品の乾燥具合を見てきました。まだ窯入れが出来るほど新作は進んでいるわけではなく、工房は通常通りに使える状態でしたが、今日は家内を誘って東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見てきました。私は昨日に続いて鑑賞の機会を設けましたが、今は7月個展に向けての準備期間なので、多少の余裕が持てる時期でもあります。ルドンは日本でも人気のある画家らしく、入場口で整理券が配られました。魑魅魍魎の好きな私は、ルドンの初期に見られる眼のある奇怪な世界に昔から魅かれていて、石版画集「夢のなかで」や「エドガー・ポーに」の連作が見られたのは幸運でした。本展の図録を読んで発見したことがありました。象徴主義の旗手だったゴーガンとの交流で、共にポスト印象派として親交があってもおかしくないと私は思っていました。「第8回『印象派展』の出品作家としてその前後にゴーガンを見知ったであろうルドンは、この時期、ゴーガンに対して急速に親交を深め、カフェ・ヴォルピニで開かれたタヒチ渡航への壮行会にも出席している。結局は僅かな期間しか交わることはなかったが、ゴーガンと8歳年長のルドンは非常に通じ合うものがあったようだ。~略~ペルーのインカ文明やブルターニュ地方のケルト的プリミティヴィズムに惹かれるゴーガンと、ある種の神秘主義の探訪者であり自然や夢の領域に浸るルドンの間には、さまざまな共通項が生まれていたことは容易に想像される。しかし、ゴーガンは結局ヨーロッパを去った。~略~邂逅したゴーガンとルドンの逸話は、そうしたもののささやかな一例として位置付けられるだろう。しかし、これはある意味、近・現代美術、ルドンとポスト印象主義、とりわけ色彩や色面の扱いなどの造形表現のディテールと西欧近代芸術全般に敷衍される本質的な命題が含まれており、過小評価すべきではない。」(高橋明也著)話題を本展に戻します。ルドンの初期はモノクロの幻想性の強い作品で知られますが、後半の色彩豊かな作品にも魅力的なものが多く、会場の最後にあった花を描いた作品の数々に、多くの鑑賞者は足を留めていました。家内も私も食い入るように見つめ、その美しさを堪能しました。ルドンの内包する文学性については別稿を起こそうと思います。
    久しぶりに日本民家園を散策
    工房に出入りしているスタッフ2人と最近工房を訪れた台湾人女流アーティストを連れて、今日は川崎市立日本民家園を散策してきました。2人のスタッフは女子美大卒業生と在学中の学生ですが、学生が染織の授業が午前中にあると言うので、卒業生と台湾人アーティストに相模原の女子美術大学まで同行してもらい、同大の学生食堂で学生と落ち合いました。日本民家園は学生が染織専攻の課題資料にするためと、台湾人アーティストのスケッチ題材のために、相模原から川崎市多摩区まで車を飛ばして行ったのでした。私にとっては久しぶりの日本民家園の散策になりました。よく全国からこんなに古民家を集めたものだなぁと改めて思いましたが、昔の記憶を頼りにしても、こんなに広かったっけと感じてしまいました。私の脚力が弱くなったのか、3人の女性に背中を押されながら、全ての古民家をやっとの思いで回りました。私が今年の個展で発表する「発掘~跨橋~」に使っている実家の古木材を彷彿とさせていたのは、古民家の縦横を支える曲がった古木の数々で、土壁と相まって私の感覚を刺激するものでした。私が高校時代に目指した建築家としては、こうした古民家を現代に生かすにはどうすればいいのかを考える仕事をしたかったのでした。保存と修復というより、現代生活の中で木材と土壁を美的価値として用いる家屋を建てることが私の理想でしたが、高校時代に建築家になることは諦めて方向転換をしてしまった私は、今更ながら彫刻という媒体を使って、その美的価値をアートとして問うことにしているのです。生活感のない彫刻では、素材の面白さだけで、その他の制約は一切ないので自由気儘な感じは拭えません。それでもそうした素材を場に配置するだけで、何か新しい空間認識が生まれるのではないかと期待しています。美術館の鑑賞もいいと思いますが、古民家の散策も楽しいと私は思いながら、充実した一日を過ごしました。