Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 新聞記事より「技術と表現」の関係

    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「手にしている技術をあまりにも容易に使えるようになると、技術が表現を許すものだけを表現するようになる。イサム・ノグチ」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「表現には技術が必要だが、それに溺れ、世界の存在を蔑ろにしてはいけないと米国の彫刻家は語る。物の重量にしても相対的なもので、茶道では袱紗(ふくさ)が世界で最も重いもののように扱われる。それで人は世界の手綱を辛うじて握る。石と違いどうにでも成形できる粘土はだから危ういと。『イサム・ノグチ  エッセイ』(北代美和子訳)から。」コメントの中で出てきた袱紗について解説をいれます。「茶道で茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いるおよそ縦9寸、横9寸5分の絹布。」というのが袱紗です。表現媒体によって、絹布が重く扱われる例として引用したと思われます。イサム・ノグチの思考では、あらゆる素材に対し、作家がその素材に抵抗される分、表現する困難さに直面し、そこに打ち克つことで、緊張感のあるクオリティの高い作品が生まれることを示唆していると思われます。それはその通りで、扱う素材が容易になってしまったら、作品のクオリティは落ちていきます。彫刻を学び始める時は、粘土を扱うことが多く、それは成形が容易だからです。粘土には可塑性があって、膨らませたり削ったりすることが自由で、何度でもやり直しがきくところもあります。私も大学でまず粘土による人体塑造をやりましたが、立体構造を学ぶ習作には適した素材だなぁと思っていました。ただし、現在私がやっている陶土となると、そこに焼成という工程が付き纏うので自由度は減っていきます。造形も嘗て習作で扱った粘土とは違い、可塑性はあるものの、最終工程を見極めながら進めていかないと、作品として成立しなくなるのです。そこが面白いところでもあります。

    映画「国宝」雑感
    私は工房で作業をする時は、ラジオを何気なく聞いています。今日も朝からFMヨコハマをつけていましたが、番組のMCが映画「国宝」の話をしていて興味が湧きました。今日は陶彫制作を早めに切り上げて、鴨居のエンターテイメント系映画館に家内を誘って、映画「国宝」を観に行きました。家内は胡弓の演奏者で、芸の世界に生きる者として映画「国宝」に関心があるのではないかと私は察していました。本作は歌舞伎の世界をドラマに仕立てたもので、ドラマチックな展開があって面白い題材だなぁと思いました。本作の主人公は2人います。一人は任侠の一門に生まれ、ヤクザの抗争で親を殺され、歌舞伎役者に引き取られます。もう一人はその歌舞伎役者の一門に生まれた御曹司で、その2人が同い年だったことで切磋琢磨して、芸の道に精進していく物語です。2人とも美形だったために女形をはり、歌舞伎でお馴染みの演目が次々と出てきて、しかも実際の歌舞伎より映画版としてアレンジされているため、あらゆる角度から見た舞台演出や、裏方の様子なども描かれて、3時間の長丁場でも観客を飽きさせることなく進行していきました。任侠の一門に生まれた主人公は、芸事に長けた才能を持ち、しかも芸以外の全てを捨ててもよいと悪魔と取引する場面がありましたが、どうしても手に入らないものが血統。つまり歌舞伎には血縁関係が根強くあって、歌舞伎役者の一門に生まれた主人公を羨んだりしましたが、一門を継ぐことになったのは、何と血の繋がりのない任侠の一門に生まれた主人公でした。ところが先代の死去によって事態が一変、素性を週刊誌にすっぱ抜かれて、歌舞伎界を追われてしまうのです。それでも芸道の性質上、時に昇降する潮流に翻弄されつつ、再び2人が同じ舞台を踏む機会が訪れていました。芸を磨くとはどういうことか、これは家内ばかりではなく、私の創作活動にも関係するような気がします。芸術のために犠牲を払った先達は数多くおります。他者を惹きつけ、感動させるもの、それは媒体を問わず存在していると私は考えています。
    「幻想の系譜」について
    「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第19章 幻想の系譜」について気になったところをピックアップしていきます。「写実主義というのは、少なくともルネサンス以来の西欧の絵画の歴史においては、ものの見方であると同時に表現の技術であった。『素朴派』の画家たちは、ちょうど子供と同じように、技術的な修練を重ねる機会を持たず、またその気もなかったため、写実主義が絵画の基本的条件のひとつと考えられていたあいだは、芸術の歴史に参加することはありえなかった。また、彼ら自身にしても、そのようなことは考えなかったであろう。20世紀の『素朴派』たちの場合でも、彼らを歴史の舞台に引っ張り上げたのは、アポリネールやヴィルヘルム・ウーデのような批評家たちであり、カンディンスキーやピカソのような専門の画家たちであって、彼ら自身ではない。」ここで2人の画家を取り上げます。まず、ルソー。「おそらくルソーは、あまりにも生き生きとした想像力に恵まれていたので、自分自身の幻想の世界と現実との区別がつかなくなってしまっていたのであろう。詩人のジャン・コクトーは、1897年アンデパンダン展に出品された《眠るジプシー女》について、この画面に登場するライオンや河は、眠っているジプシー女の夢に出てくるものであったろうと述べているが、それ以上に、この画面が、そしてルソーの描き出す映像世界のすべてが、現実以上に強烈な彼の夢にほかならなかったのである。」次にシャガール。「多様な民族的特質が発揮される現代絵画の歴史においても、シャガールくらいそのインスピレーションにおいて、自己の属する民族の血に忠実であった画家は例が少ないと言ってよい。その民族的な伝承や風習を取り上げて奔放に造形化し、華麗に飾りたてたところに、あの屋根の上のヴァイオリン弾きとか、空を飛ぶ恋人たちとか、空中で音楽を奏する動物たちとか、首のとれた農婦など、シャガール特有の、しかしユダヤ的雰囲気の濃厚なあの幻想世界が生まれてくるのである。」今回はここまでにします。
    「キュビスムの画家たち」について
    「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第18章 キュビスムの画家たち」について気になったところをピックアップしていきます。「考えてみれば『印象派』以来、近代絵画はずいぶん悪口によって色どりを与えられてきた。『キュビスム』もそのひとつで、あらゆる前衛的なものに強い興味を示した詩人ギョーム・アポリネールは、早くも1911年も講演で、『私は、嘲笑の言葉として与えられたこの〈キュビスト〉という呼び名を、私の友人たちのために採用したいと思う』と宣言して、事実、それから2年後には、『キュビスムの画家たち』と題する評論集を刊行した。~略~歴史的にはキュビスムの美学の展開は、対象の『解体』を徹底的に追求する1908年ごろから11年ごろまでの『分析的時代』と、その『解体』の結果、画面ではほとんど見分けがつかないまでばらばらにされてしまった対象をもう一度はっきりした形で復活させようとするその後の『綜合的時代』とに分けられるが、その『分析』から『綜合』への転換を特徴づけるものは、ほかならぬ『オブジェ』の利用であった。」ここで2人の画家に注目します。まず、ブラック。「1907年から第一次世界大戦の始まる1914年まで、彼はピカソとほとんど一体になってキュビスムの探求にすべてを捧げるが、この時代のキュビスムの持つ厳しい知的な構成は、ピカソ以上にむしろブラックの気質に似つかわしいものであった。もっとも、この時期のふたりの活動は、きわめて密接に結びついており、『コラージュ』の利用などもふたりの作品に相前後して登場してくるので、キュビスムの美学への寄与においてどちらがいっそう大きな役割を果たしたかは、容易に決定しがたい。むしろ奔放で情熱的なピカソと、冷静で理知的なブラックとの文字どおりの協力によって、あの革命的な事業がなしとげられたと言うべきであろう。」次はレジェ。「『私はセザンヌの影響を追いはらうのに3年かかった。そのために私は、ほとんど抽象の世界にまで行ったのだ』という彼自身の告白は、おそらく正直なところであったろう。そして、そのことは同時に、セザンヌからキュビスムを経て抽象絵画へと向かう道程が、モンドリアンの場合ばかりではなく、レジェにおいても暗示されている点で、われわれにとってきわめて興味深い。」今回はここまでにします。
    「ピカソとキュビスム」について
    「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第17章 ピカソとキュビスム」について気になったところをピックアップしていきます。「14歳の時、一家とともにバルセローナに移ったピカソは、ただちに父の勤める美術学校に入学した。その入学試験の時も、普通には1か月の猶予を与えられる課題作品をたった一日で仕上げ、しかも先輩の誰よりも優れた成績で人々を驚かせたという。後にピカソが、『自分は子供のころはラファエㇽロのように描いていたものだ』と述懐したというのも、まんざら誇張ではなかったわけである。」さらに《アヴィニョンの娘たち》を描いたピカソについて書かれた箇所を引用します。「5人の裸の『娘たち』をほぼ正方形の画面にまとめ上げたこの大作は、当時何よりも新しい表現を求めていた前衛的な仲間の画家たちをもびっくりさせるほど型破りなものであった。画商のカーンウェイレルの仲介でちょうどこの大作を制作中のピカソと知り合ったブラックですら、最初のうちはピカソの意図を理解できなかったほどである。もちろん、その後の歴史の展開を知っている今日の眼から見れば、この『娘たち』もある意味ではほとんど古典的とさえ言ってよいような落ち着いた表現を持ったものと見えるかもしれない。また、ピカソをここまで導いた道筋についても、当時ルーヴル美術館で公開されていた古代イベリア彫刻の影響とか、ピカソ自身は後に否定しているが、アフリカの黒人彫刻からの暗示などを指摘することによって、ある程度まで説明することが可能であるにちがいない。」次なる注目作は《ゲルニカ》です。「第二次大戦後、ピカソは共産党に入党して話題を呼んだほど政治や社会の問題に関心をいだいており、直接政治的活動はしなかったにせよ、彼の画面は、しばしば強い政治的主張や社会的告発を含んでいるが、30年代は、そのような社会的関心が最もあらわに表現された時代でもあった。そして、その頂点を形成するのが、言うまでもなく、1937年のパリ万国博覧会に出品された《ゲルニカ》である。ほとんどモノクロームに近いほど抑制された色調によって、ナチス空軍による無差別爆撃の暴挙を受けたゲルニカの町の悲鳴を思いきり激越なイメージによって描き出したこの大作は、その強烈な表現力と恐ろしいまでの迫力のゆえに、20世紀の美術の歴史において、最も忘れがたい傑作のひとつとなったのである。」今回はここまでにします。