2025.11.02 Sunday
日曜日になりました。日曜日には創作活動に纏わる内容をNOTE(ブログ)に書いていて、通常は土曜日にその週の振り返りを行なうのですが、昨日は多摩美芸祭に出かけてその感想を書いてしまった関係で、今日は土曜日に代わって先週の振り返りを行ないます。先週は10月から11月へ月が移行した1週間でした。先週も寒くなった関係で、制作時間を朝9時から午後3時までを基本として行っていました。新作の陶彫制作は、成形や彫り込み加飾が終わって、それら陶彫部品にブロックサンダーで仕上げを行ない、化粧掛けを施す作業に移行しています。先週も2回の窯入れを行ないました。窯入れをしたのは火曜日と金曜日で、その翌日は滞りなく焼成が行えるように電気のブレーカーを落としていました。ということは工房全体で電気が使えず、作業が出来なかったのは水曜日と土曜日でした。水曜日は健康保険代の振り込みやら、ブロックサンダー等の材料を買いに出かけました。土曜日は昨日のNOTE(ブログ)に書いた通り、教え子たちと一緒に美大の芸祭に行ってきました。こうして毎日元気に過ごせること、自分の目標に向かって邁進できることは本当に幸せなことなんだと思い返すことがあります。私は健康に不安がないわけではありませんが、一日中創作の事ばかり考えていられるこの時を有意義に過ごしたいと思っているのです。3年前までは教職との二束の草鞋生活があり、その限りある時間をやり繰りして彫刻作品を作ってきました。退職してからは彫刻家一本で、自分が昔から望んでいた生活が出来ているのです。工房には卒業制作をやりにきている美大生がいます。彼女はすべて単位が取れて、残すところ卒業制作だけということで、好きなことを朝から晩までやれていて、今の私と同じ気持ちでいるのだろうと思います。私もその頃は好きなことが一日中やれるのは生涯でこの時しかないと思って卒業制作に励んでおりました。あれから40数年が経って、幸運にも私は卒業制作の続きをやっているのです。ここまで意欲が続いたこともあるのですが、自ら環境を整えたことが大きいと思っています。
2025.11.01 Saturday
先週の土曜日は女子美術大学の女子美祭に行ってきました。今日は多摩美術大学の多摩美芸祭に行ってきました。そのきっかけは工房に出入りしている教え子が多摩美術大学でグラフィックデザインを学んでいるからです。この専攻科は私の高校の同級生である竹中直人君が学んでいたところであり、なかなか水準の高い科でもあります。昨晩は雨が降っていたので、天候を心配しましたが、今日は朝から晴れました。昨日窯入れをしたので、私は工房に窯内の温度確認に行って、彼女たちを迎えに自宅を出ました。彼女たちと言うのは前述の美大生の他に、文学性に優れた教え子も誘っていて、私はこの小さな詩人を同行させることで、彼女のコトバの引出しを増やそうと企てているのです。多摩美芸祭の展示作品は少々毒気のあるキャラクター風のイラスト作品群がどれも印象的で、現代日本美術の特徴を示しているのかもしれないと考えました。大阪万博のミャクミャクもそうでしたが、美しいだけではない独特な美意識が私たちの中に眠っているのかもしれません。多摩美芸祭は展示よりフリーマーケットに重点が置かれていたと考えたのは私だけでしょうか。模擬店の数が多く、一店舗ずつ回り切れるものではなく、私は暫し野外のベンチで休憩を取っていました。教え子たちはマーケットを散策して、小さなグッズを買っていました。そこが卒業制作展と今回の芸祭の違うところで、祭り気分で回るのが多くの参加者には楽しい思い出になると思っています。まだ教え子が美大に在籍しているうちは、私も彼女たちに誘われて、こういう機会を持てることに嬉しさを感じます。同時に美術系の学校には、自分自身を生かす環境や設備があって、そこで過ごす珠玉の時間があります。美大を卒業すれば、社会人として世の中の世知辛い風に当たるわけですが、自己表現ばかり考えて過ごした4年間に対して、世間に対応しきれなくなる学生がいることも確かです。芸祭を見ていると刹那に楽しむ学生が見え隠れしてしまうのは、私ばかりではないはずです。
2025.10.31 Friday
今日は10月の最終日です。先月はまだ酷暑が続いていたにも関わらず、今月になって秋が深まったというより、急に寒さが増していきなり冬が訪れたような気分になっています。今月の制作は夏前のルーティンに戻し、朝9時から夕方3時までを基本の制作時間としていました。そのためか陶彫制作もかなり進みました。新作の大き目の陶彫作品は、3段上積みで構成する陶彫部品を、6点で組み合わせて集合体で見せる作品ですが、合計18点の陶彫部品は全て作り終え、そのうち土台になる一番大きな陶彫部品6点は焼成も終わりました。現在は2段目と3段目になる陶彫部品の窯入れを待っている状態です。ただし、この作品は陶彫だけで終わるものではなく、そこに厚板材を加工して組み合わせるので、当初のイメージの主たる表現がまだ出来ていないことになります。それは来月以降に挑みたいと思っています。今月は31日間あって、工房へは31日間、つまり一日も休むことなく通い続けていました。そのうち窯内の温度確認だけで工房を訪れたのが6日間あります。つまり焼成を6回やったことになるわけで、1カ月の窯入れとしては多かったなぁと振り返っています。温度確認だけの日は、その後で美術館などに出かけて鑑賞を楽しんでいました。「円山応挙」展(三井記念美術館)、「インド更紗 世界をめぐる物語」展(東京ステーションギャラリー)、「絵金」展(サントリー美術館)、「ウィーン・スタイル」展(パナソニック汐留美術館)の他に、師匠が出品していた「自由美術展」(国立新美術館)や教え子が学んでいる女子美術大学の「女子美祭」にも行ってきました。家内の従弟がライヴをやっていた横浜市中区日ノ出町の「視聴室3」で音楽に触れることができました。映画鑑賞では「チェンソーマン レゼ篇」(TOHOシネマズららぽーと)にも行きました。今月は鑑賞が充実していました。読書ではイギリスの美術史家が著した廃墟論の読んでいました。私の「発掘」シリーズが廃墟に関わるイメージを持つために廃墟論を読んでいたのですが、ヨーロッパ的思考に私も影響を受けていることを自覚しながら、自作の今後の在り方を考えていきたいと思います。
2025.10.30 Thursday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)を読み終えました。最後に著者による謝辞が載っていました。「廃墟が昔から、どれくらいたくさんのインスピレーションを生み出す源となってきたかについて述べたものである。読者の方々が私の意見に賛成してくださるかどうかは、この際、あまり重要ではない。この本を読んだ人々がこれを機に、自分で廃墟に出かけ、廃墟を楽しんでくだされば、作者としてそれに越した喜びはない。」さらに翻訳者によるあとがきもありました。「いわば廃墟は、不完全な現実と、それを見る者の想像力との間で取り交わされる対話といってよいだろう。したがって、つねに見る側はイマジネーションの喚起を強いられる。~略~廃墟の歴史を語る過程でウッドワードがとりわけ明らかにしたのが、イギリスの画家たちの使った『ピクチャレスク』という言葉である。この語は元来、イタリア語の『ピットレスコ』(絵のような)に由来し、きまじめさとは少しちがう、遊び心や風流心、それに気晴らしの要素の強い絵画性を表わしていた。それが転じて、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、イギリスで流行した建築・造園上の趣味を示す言葉となった。」煉瓦や石で構築された建物や都市空間は、幾星霜を経て、それが風化したとしても人間の美意識に働きかけてくることを、私はヨーロッパで体験してきました。とりわけエーゲ海沿岸の遺跡群は、私の陶彫による集合彫刻の発想の源になっています。まさにピクチャレスクとしての印象が私のイメージを刺激したものだったと述懐しています。廃墟と言っても世界にはさまざまなものが存在し、ヨーロッパ的ピクチャレスクでは語れないものもあります。日本では自然災害によって廃墟化した町に対して、それを保存する意識は芽生えません。少なくても私にはその発想はなく、一刻も早く復興を願うばかりです。日本で保存しているのは広島の原爆ドームを初めとする一部施設で、それは悲劇を繰り返さないための人類に対する戒めの碑なのです。古来から保存されてきた建造物等はありますが、日本の場合はそれは信仰の対象であって廃墟ではないと考えます。私は自分の成育歴にはないヨーロッパ的ピクチャレスクを創造の要にしている点が、今も自問自答を繰り返す要素になっていますが、若い頃の強烈な体感がそれを補って余りあるものとして納得している次第です。
2025.10.29 Wednesday
「廃墟論」(クリストファー・ウッドワード著 森夏樹訳 青土社)の11番目の章は「小説家、漁師、そして公爵」という題がついています。本書はこれが最後の章になります。本章では3人の作家が登場します。まず、ローズ・マコーレー。「ローズ・マコーレー(1881-1958。イギリスの小説家・詩人)の小説『世界・私の荒野』の中では、ロンドンのシティが廃墟とされている。~略~マコーレーは『世界・私の荒野』を書く準備のために、ロンドンのシティにいき、瓦礫の中を探険し調査する人となった。このときのことをペネロピ・フィッツジェラルドが記憶している。それは『驚くべき経験』だった。フィッツジェラルドはマコーレーのあとをはうようにしてついていく。『そしてマコーレーの痩せぎすのうしろ姿を見つめていた。マコーレーは臆することなく、爆弾によってできた穴の中へと下りていく。また背をかがめては、こちらに手で合図を送りながら、ガラスが砕け散った危険な窓の中へ体を滑り込ませる』。」次にジョン・ハリス。「廃墟の旅ということになると、現代でもっとも重要な意味をもつ旅をしたのはジョン・ハリスだろう。それはハリスが第二次世界大戦後、数年をかけておこなった田舎屋敷の調査・探険の旅である。今日ハリスは、イギリスのどの建築史家に比べても、はるかにアカデミックな論文(テーマは『歴史上名高い田舎屋敷について』)を書いたり、はるかに多くの展示会を主催したりしている。その彼にイギリスの風景の案内を頼んでみると、あたかもイギリスの空中写真を目のあたりにするような感じになる。表面下に隠れていた模様がたちどころに現われてくる。」最後にジュゼッペ・トマージ・ディ・ランぺドゥーサ。「パレルモにあったランぺドゥーサの宮殿は瓦礫のままにされていた。そして都市の中心部では、残骸の間に、崩れずになお残っていた多くの宮殿が、中世に見られたローマの廃墟によく似た風景を作り出していた。~略~彼の小説では、ふたつの宮殿がひとつに溶け合って『ドンナフガータ』となって登場する。この場所でタンクレディ(タンクレディ・ファルコネリ。サリーナの甥)と非常に美しいアンジェリカ(村長の娘。タンクレディと結婚する)が出会うわけだが、1966年に制作されたルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』では、ふたりの役をアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレが演じていた。」今回はここまでにします。