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  • 週末 20回目の図録用写真撮影の日
    土曜日になりました。明日予定していた図録用写真撮影の日が、天候の関係で今日になりました。昨日漸く完成したのは、「発掘~跨橋~」4点、「陶紋」4点、平面作品「痕跡」2点で、今年7月にあるギャラリーせいほうで発表する新作です。今回の特徴は、立体作品に実家を支えてきた大黒柱と陶彫作品を組み合わせていること、小品を2年ぶりに制作したこと、立体作品と並列して平面作品を制作したことなど、新しい試みをも含めて全部で10点あります。今日は朝から曇り空で、午前10時半にはカメラマン2人、スタッフ3人、家内と私の計7人で撮影を始めることになりました。今年の個展は20回目、図録を作るのも20冊目、図録用撮影も20回目になりますが、毎回異なる作品で、その組み立て方も違うので、常に新鮮な思いが頭を過ります。私にしてみれば、集合彫刻を完全に組み立てるのは今日が初めてで、最初のイメージ通りになっているかを確認する瞬間が訪れます。まさにワクワクしたりドキドキする一日になるのです。今回はほぼ計算通りの結果で、期待を裏切られなかったものの、それ以上の偶然に醸し出される成果はなかったなぁと思っています。まず最初に野外工房での「発掘~跨橋~」の撮影になり、例年通り作品を組み立てている私やスタッフの作業風景がカメラに収まりました。「陶紋」4点は自宅から持ってきた民芸調の椅子に乗せて撮影をしました。平面作品も三脚でカメラを固定して撮影しました。昼食は例年通り近所のピザ屋さんから宅配してもらいました。午後は工房の屋内を使って、光の加減を調節しながらの撮影になりました。光陰の美しさが際立っていた過去の図録写真があり、それを私は思い浮かべていました。今日は何とか撮影中は雨に降られることもなく、無事に終わることが出来ました。図録用写真撮影日や個展の搬入日、搬出日は年中行事のようなイベントになっていて、来てくれたスタッフたちの動きには無駄がなく、20回も続けてこられたのは、カメラマンも含めてこういう人たちの援助があってのことだなぁと私は改めて思いました。
    新作の完成に辿り着く
    当初の予定では25日(日曜日)を図録の撮影日に設定していました。梅雨入り前の不安定な天候があって、どうやら日曜日の午前中は雨が降るようで、それなら一日前倒しして、明日を撮影日に変更しようと考えました。カメラマンに相談したところ、変更可能という返事をもらえたので、手伝いをしていただくスタッフにも連絡をしました。皆こころよく引き受けてくれたので、明日が撮影日になりました。ただ、問題は新作がすっかり出来上がるのかどうかで、これは私の頑張りにかかっていました。立体作品である「発掘~跨橋~」は既に出来上がっていて、それぞれの陶彫部品の確認も済んでいました。私の彫刻は集合体で構成するので、陶彫部品が揃っているのかどうかは大事なポイントです。まだ出来上がっていなかったのは平面作品「痕跡」で、作品の額装にあたる枠も作品の延長として手作りするため、その枠の塗装が未完成でした。しかも塗料が足りず、昼頃に横浜駅にある画材店に大急ぎで出かけた始末です。撮影日が日曜日なら余裕を持って完成したはずが、一日前倒しではなかなか厳しいものがありましたが、毎回撮影日前には右往左往しているので、今回も例外ではなかったと思っています。夜には図録の雛型を鉛筆で描き、消しゴムでいじりながら雑多なイメージをあれこれ出してみました。ページによっては画像が思い浮かばないことも多々あり、それは撮影しながらカメラマンと一緒に私も考えていこうと思いました。ともかく漸く新作の完成に辿り着いたので、今年も個展が開催できるなぁと安堵しました。こうした中で来年の新作のイメージがちらちら頭に浮かんでいました。これは前向きな精神状態ではなく、明らかに現実逃避です。私の場合は毎回そんな具合で、人に自慢できるものではありません。来年こそ余裕を持って撮影日の数日前には完成してみたいと願っていますが、これは20代で創作活動を始めて以来、一度も余裕があった試しがありません。そんなものかと達観するのがせいぜいで、創作は順序良くいかないものなのです。
    「世紀末絵画」について
    本日から「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)に移ります。その最初は「第13章 世紀末絵画」です。世紀末絵画について気になったところをピックアップしていきます。「もともと、80年代の中ごろに印象派のグループが解体した時、印象派の持っていた『外の世界への眼』に代わって、人間の内面の世界へ向けられた視点が登場してきたわけだが、ナビ派をはじめとする世紀末の画家たちは、その『内部の世界への眼』の持つ可能性を、さまざまなかたちで探求し続けたと言ってもよい。その意味で、フロイトの深層心理学を主要な武器として第一次大戦後に登場してくるシュルレアリスムも、その世紀末の幻想世界の系譜につながるものとも言える。そう言えば、フロイトの『夢の解釈』が世に問われるのは、ドニの《セザンヌ礼賛》が描かれたのとちょうど同じ1900年のことなのである。」ここで3人の画家を取り上げています。まず、ルドン。「ボルドーに生まれ、荒涼としたペイルルバードで少年時代を過ごしたルドンは、同時代のモネやルノワールと正反対に、いつの間にか自分の心のなかの暗闇の世界を自己にとってかけがえのないものと思うようになっていた。ポーやボードレールを愛好し、マラルメやヴェルアーランなどの象徴派の詩人たちと親しかったルドンは、生涯の前半においては主として木炭デッサンや石版画のような白黒の手段によって、晩年にはまるで夢のなかの虹のように華やかな輝きを見せる神秘的な色彩によって、造形的な夢の詩を歌い上げることができた。」次にムンク。「早くから相次いで肉親の不幸に見舞われ、病いや、死や、裏切りや、嫉妬など、人間の情念の暗い部分を見つめながら自己の魂を形成していったムンクは、とくに90年代には、《思春期》や《叫び》のような不気味な名作において、どこから来るともわからない人間の心の不安を、きわめて説得力に富んだイメージを用いて画面に定着するのに成功している。」最後にベックリン。「ギュスターヴ・モローとほぼ同じ世代の幻想画家アルノルト・ベックリン(1827-1901)がいる。哲学者ゲオルク・ジンメルによって『ミケランジェロ以来最大の画家』と絶賛されたベックリンは、いくつものヴァリエーションがある有名な《死の島》や《骸骨のいる自画像》に見られるように、細部の描写においてはきわめて入念な写実主義者でありながらーあるいはそれゆえにー画面全体としてはまったく非現実的な幻想性を漂わせる画面を多く残し、後のデ・キリコやシュルレアリスムの画家たちに大きな影響を与えた。」今回はここまでにします。
    「モンマルトルの画家たちとナビ派」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第12章 モンマルトルの画家たちとナビ派」について気になったところをピックアップしていきます。本書の上巻はこれで最後になります。モンマルトルの画家たちの中で、本章では主にロートレックを取り上げています。「1878年と翌年79年の二度にわたる思いがけない事故は、彼の両脚を子供の時のままそれ以上発育できないものとしてしまった。それ以後、普通に歩くのには不自由はなかったが、あらゆる種類の肉体的な運動や競技は、彼には無縁なものとなってしまった。後年、彼があの激しく脚を振り上げるフレンチ・カンカンの踊りや、自転車競走の選手、サーカスの曲芸師など、肉体の『動き』を生命とする主題を繰り返し描き続けたのも、現実に禁じられた世界をペンと絵筆で取り戻そうとした試みであったとも言えるであろう。」そんなロートレックの面目躍如とした主題は何だったのでしょう。「モンマルトルの画家としてのトゥールーズ=ロートレックが、真にその本領を発揮するようになるのは、赤い風車の看板とともにムーラン・ルージュが開設されて以後のことである。ロートレックは、さっそくこの新しいキャバレーの常連となり、毎晩のようにそこを訪れては、アルコールに浸りながら、フレンチ・カンカンを踊るラ・グーリュや、しなやかな身のこなしのゆえに『骨なし』とあだ名されたヴァランタンなどの踊りまくる姿を、次から次へと手早くスケッチしていった。~略~それと同時に、ドガやゴッホと同じように日本の浮世絵版画に強い興味を持っていた彼が、とくにポスターや石版画において、思いがけない視点から見た風変わりな構図や、人物のわざと画面の枠で切る特異な構成法によって、多彩な表現効果を生み出したことも、注目される。」ナビ派について触れた箇所にも注目しました。「挿絵や版画に対するナビ派のこのような積極的な関心は、ひとつには、ロートレックの場合にも見られたような日本の浮世絵芸術に対する興味に触発されたものではあるが、同時にまた、彼らの文学趣味の現われでもあった。~略~つまり、ひと言で言って、ナビ派の運動は、広い知的好奇心と新しいものへの情熱によって支えられた、綜合的な芸術活動だったのである。」今回はここまでにします。
    「ゴッホの時代」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第11章 ゴッホの時代」について気になったところをピックアップしていきます。この時代、ヨーロッパでは日本の浮世絵が流行していました。「ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと新しい造形表現の魅力とがひとつになって、彼らのあのきわめて独自な絵画様式が生まれてきたものと言ってよいであろう。ゴッホもゴーギャンも、未知の世界に対する強い好奇心を持っており、その意味では、エキゾティスムの誘惑のなかったわけではないが、それ以上に、彼らは、従来の印象派的な表現に対する不満から、これまでにない大胆な表現法を試みるためのいわば跳躍台として、浮世絵版画の造形性を学んだ。」さて、ゴッホの特異性について触れた文章がありました。「ゴッホは、セザンヌのように、絵画のために生きた人ではない。むしろ彼にとって、生きるために絵画が必要だったのである。自分自身をも燃やしつくさねばやまぬほどに激しいその生命力を、彼はつぎつぎと異なった対象に向けて燃焼させながら、最後にようやく絵画にたどりついたと言ってもよいだろう。」ゴッホと言えば誰もが知る大変なエピソードがありました。「秋とともに悲劇は始まった。十月にゴーギャンがやって来た時には、ゴッホは大喜びで彼を迎え、理想どおりの共同生活が始まったように見えたが、あまりに強いふたりの個性は、遅かれ早かれ衝突することを避けられなかった。激しい口論の後、剃刀を手にしてゴーギャンの後を追ったゴッホは、ゴーギャンに睨みつけられると、そのまま引き返して部屋で自らの片耳を切り落とし、それを紙に包んで顔なじみの娼婦のもとに届け、そのまま何も言わずに立ち去ったという。」ゴッホの生涯を語る文章もありました。「アルル時代がゴッホの古典主義時代であったとすれば、サン・レミ滞在の時期は、いわば彼のバロック時代であった。事実、激しく捩れながら燃え上がる糸杉、波立つような山脈、大地全体が震えている麦畑などが、彼の画面を大きく特徴づけている。しかし、冬になると、彼の情熱は、またもやそのエネルギーを失って深い絶望が彼を捉えた。」今回はここまでにします。