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  • 「発掘~跨橋~」のメモ書き
    現在制作中の新作に「発掘~跨橋~」というタイトルをつけました。従来の作品はイメージを優先して具現化したものが多かったのですが、「発掘~跨橋~」は、まず素材ありきで制作が始まりました。祖父母や両親が住んでいた実家は、私が生まれる前には藁吹き屋根だったと聞いていますが、それをトタンで補強していたところ、私が小学生だった頃に改築をして瓦屋根になりました。土間にあった台所や五右衛門風呂はなくなっていましたが、旧家らしい雰囲気は残っていました。その実家を解体して集合住宅を建てたのは一昨年のことでした。解体するにあたって旧家を支えてきた大黒柱を私は棄てるにしのばず、業者に頼んで柱を工房に運んでもらいました。これを彫刻作品にしようと私は考えましたが、柱に下手な細工はせずに、そのまま利用することにしました。柱を床に倒して置き、両側を陶彫作品で固め、その陶彫作品を陶による橋で繋ぐイメージが浮かびました。柱には最小限の彫り込みだけを入れました。陶彫の橋で物質を跨ぐ考えは以前からあって、旧作にもその片鱗は出ていました。2017年に発表した「発掘~座標~」がそれで、土台をテーブルにして、その卓上に広がる世界を表現していました。新作の「発掘~跨橋~」の跨ぐ物質は大黒柱ですが、表面は炙って陶彫部品との調和を図ります。私は木材そのものを生のまま利用したこともありましたが、厚板材の場合は砂マチエールを硬化剤で定着させて、油絵の具を染み込ませて利用したこともありました。今回のように表面を炙って煤を擦り落として、年輪を出す方法も過去に試したことがあります。使う木材が嘗てどのように使われ、どんな時を刻んできたか、私にとって造形をする上で重要な一面でもあるのです。加えて今回発表する作品には立体作品の「発掘~跨橋~」だけでなく、壁に掛ける平面作品もあり、その繋がりを考慮して、平面作品にも炙った杉板をコラージュしています。平面作品には物質を跨ぐ要素はありませんが、そこは立体作品と平面作品の方向性を変えています。
    「近代性の追求」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第5章 近代性の追求」について気になったところをピックアップしていきます。まず近代性についての論述がありました。「クールベは、『近代的な美』を主張したロマン派と共通の地盤の上に立っていたということができる。ボードレールが繰り返し主張しているように、1820年代、30年代のロマン派の運動は、理性に対する感受性の優位の主張であり、デッサンに対する色彩の復権の試みであったと同時に、古代に対する近代の挑戦でもあった。『美』というものは、決して永遠不動の絶対的なものではなく、時代によって多様に変りうるものであること、したがって、古代には古代の美学があったように、近代には近代にふさわしい美があること、英雄は古代の伝説や歴史のなかだけに登場するのではなく、近代にも近代の英雄が存在しうること、それが、ボードレールをはじめロマン派を擁護した批評家たちの主張であった。」次にこの時代を代表する2人の画家が登場します。まず、マネ。「落選展に出品された《草上の昼食》は、ごく少数の支持者は別として、圧倒的に多くの人々から激しい非難攻撃を受けた。その非難は、二年後のサロンに《オランピア》が並べられた時、いっそう激越なものとなった。もちろん、マネ以前にも、悪口を言われた画家がいなかったわけではないが、しかし、罵倒されることによって世に知られ、スキャンダルによって歴史を作っていったのは、ほとんどマネがはじめてだと言ってもよい。」次にドガ。「ドガは、そのような『近代的』なテーマを、風俗的な興味から描いたのではない。彼は、複雑な動きを示す踊子や馬や歌手などの形態を追求することによって、人間や動物の身体のメカニズムをいっそう的確に捉えようとした。いわばそれは、形態の真実を追求する科学者の観察であったとも言える。それによって、ドガは、思いがけないポーズや新しい視角を見出し、新鮮な驚きを与えてくれるのである。」ここに続く印象派の登場は、決して突然変異ではなく、先陣を切った画家たちのコンセプトがあればこその潮流であったことがよく分かります。今回はここまでにします。
    「写実主義の擡頭」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第4章 写実主義の擡頭」について気になったところをピックアップしていきます。本章では4人の画家が登場します。まず、クールベ。「この時の(1855年)の個展で、クールベは、自ら『レアリスト』(写実主義者)と名のった。『レアリスト』(写実主義)という今日ではごく普通に使われている美術用語が、広く一般に定着するようになるのは、実はこの時からである。『レアリスム』という言葉自体がはじめて登場するのは、1833年のギュスターヴ・プランシュの批評においてであるというが、しかし、30年代、40年代においては、それはまだ、決して一般的な概念ではなかった。それは、クールベという強烈な個性とともに、はじめて歴史のなかに市民権を確立することとなったのである。」2人目はコロー。「画家としての出発は比較的遅く、その活躍の時期は、ほとんど一世代年少のクールベとかなりの部分が重なり合っている。コローが最初からほとんど風景画ばかりに専心するようになるのは、もちろん彼自身のなかに生まれつき自然を愛する抒情詩人が住んでいたからには相違ないが、それと同時に、伝統的なアカデミックな訓練を受ける修業期間を持たなかったということが、やはりある程度まで影響していたようである。」3人目はミレー。「有名な《晩鐘》や《落穂拾い》にはっきり見られるように、彼はある意味で農民たちを理想化してはいるが、1848年のサロンに出品されて彼の名声を決定的なものにした《箕を簸る人》以来、種を播いたり、洗濯したり、子供に食事を与えたりする農民たちの姿は、つねに鋭い観察にもとづいた真実の姿を伝えている。」最後はドーミエ。「彼のその才能は、最初は、風刺新聞の挿絵や石版画などの白黒の世界に発揮され、油絵に移るのは、40歳になってからであるが、しかし挿絵画家時代に養われた鋭い観察眼と驚くべき描写力は、当時の社会に対する強烈な批判精神とともに、油絵の世界にも受け継がれた。」私の彫刻の師匠である池田宗弘先生は、主張する内容がドーミエの世界観に似ていて、真鍮直付けという技法で風刺の効いた作品を作っています。労働に疲れた庶民の姿をジャコメッティのような量感のない姿で表していて、その雰囲気に私は共感していました。ドーミエが身近に感じたのも池田先生のおかげかもしれません。今回はここまでにします。
    新聞記事より「仏像解説」
    今日の朝日新聞は、誌面を大きく割いて仏像についての記載がありました。私は若い頃から運慶が好きなので、折に触れて仏像を見に行っていますが、新聞の解説を読むと、教職に就いていた頃が思い出されました。私は美術科の鑑賞の授業で仏像の4種類について生徒に話していました。とりわけ京都や奈良に修学旅行に行く前に、その授業を取り入れていた記憶があります。「仏像は、そのルーツや役割で4種類に分けられる。なかでも最初に挙げるべき仏像が、悟りを開いた聖者を表す『如来像』だ。仏教の開祖であるブッダを表した『釈迦如来』、人々を極楽浄土へ導く『阿弥陀如来』、病気で苦しむ人々を救う『薬師如来』など、シンプルな袈裟のみを身に着けた仏像がそれだ。」造形様式も時代によって異なるので自分好みの仏像を探すのも楽しみのひとつです。「悟りを開いた聖者が『如来像』なら、『菩薩像』は悟りを目指して修業中の身。人々の幸せや救済を願う姿を表す仏像だ。代表的なのは『観音菩薩』。~略~菩薩は、如来になる前に弥勒の姿を表す『弥勒菩薩』や仏の知恵をつかさどる『文殊菩薩』なども含め、天衣や装飾品を身に着けた出家前のブッダの姿をしているが、地蔵菩薩だけは違う。あらゆる場所で命あるものすべてを救済する菩薩として、剃髪に法衣を着た僧形で表されている。」菩薩像は多種多様で、造形美術として見れば大変面白いと感じます。「4種類ある仏像の3番目、4番目は、あえて怒りをもって、力ずくでも人々を仏教の世界に導く『明王像』と、如来や菩薩のもとで世界の平安を守るために、護法神となったインドの神々を起源とする『天部像』だ。」私が彫刻を学び始めた頃、最初に興味を持ったのが「明王像」と「天部像」でした。分かり易い感情表現に親しみがあり、忿怒の形相に鬼気迫る迫力があって、「明王像」は若かった私を惹きつけたのでした。「明王像」とは逆で、軽やかで清々しい雰囲気を与えてくれたのは、奈良秋篠寺にある「伎芸天」でした。これは「天部像」で、今でもこの仏像は大好きです。
    2025年版の印の制作
    陶彫作品の新作に貼る印について述べます。ほとんどの視覚表現の作品には作者のサインがつきます。それがオリジナル作品であるという証拠になり、複数作品が存在する版画にはナンバリングもついています。それを落款と呼ぶ場合もあり、調べてみると奥の深いものであることが分かります。ネットによると落款とは、落成款識の略語で、書画を作成した際に詩文などを書き付けたもので、その時捺す印章を落款印と言うそうです。署名用の印そのものを落款と称することもあるようです。印は主に篆書体を用い、それは中国を起源として、主に篆書を印文に彫ることから篆刻といいます。篆刻には字の周囲を彫る陽刻(朱文)と字そのものを彫る陰刻(白文)がありますが、両方を交えたものを朱白相関といいます。それはさておき、私の陶彫作品にどう落款を捺して完成品にしようか、随分前に思案したことがあり、和紙に捺印して、それを陶彫立体の見えない部分に貼り付けようとその時決めました。そこに番号も付けました。私の作品が集合彫刻であるため、番号同士を合わせることで、組み立てや分解が可能になるからです。しかも私は篆刻を自由化し、抽象絵画のように線で構成された図像に変えました。氏名にも漢字の他にアルファベットも多用して、迷路のような表現にすることを目ざしたのでした。いわば私は篆刻を小さな絵画作品として扱っていて、しかも新作の陶彫作品には新作の印を彫ることにしたのでした。そのため新作ごとに新しい印が出来上がって、今では相当な数の印が収納箱に眠っています。篆刻を小さな絵画作品としたことで、私は毎回印を彫るのが大好きになっています。今日は新作の印のデザインをして、印刀で彫りました。彫る前に石を印床に嵌め込むと私の気分は揚がりました。彫る時間は2時間程度だったでしょうか。新作は陽刻(朱文)にしました。漢字とアルファベットを混在させてまとめてみました。