Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 新聞記事より「現実は虚構を藉りる」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「想像を知覚から取り去ることはできない。大森荘蔵」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「『現実は虚構を藉りて表現される以外にない』。そう考える哲学者が最初にあげるのは、物の知覚の中でともに働きだしている虚構の視線だ。例えば机は、眼に映る見え姿だけでなく、ここからは見えない側面や背面、ときには内部への想像をも含めてはじめて机として了承される。『虚に照されて実がはじめて実となる』のだと。論文『三つの比喩』(『物と心』所収)から。」私は物の存在を、その存在だけでなく、そこに纏わる要素(虚構)とともに存在として認識する考え方が大変面白いと感じました。確かに机を見れば、日常使っている常識としてこれは机だと認識できます。机には想像力を膨らませるものがあり、それらを全てひっくるめて、これは自分が求める(あるいは不要とする)机だと感じることができるからです。ありとあらゆるものはそうした要素(虚構)がついてきて、私たちはその用途によって日常的な安心を得るのだろうと思いますが、私が問いかけたいのは付随する要素(虚構)がはっきりしない場合です。というのは、私が作っている抽象傾向の彫刻は、その虚構が薄いのではないかと思うからです。人の常識の範疇を超える造形は、人からどのように見られているのだろうかと考えざるを得ません。これは彫刻だとギャラリーに来られる方々は、これはそういうものだと認識するものの、普段からこうしたものを見慣れていないので、想像力を膨らませても日常的な安心を得られず、存在としての物質は虚構なき存在そのものなのです。ギャラリーに私がいても、これはいったい何ですか、と鑑賞に来られた方に聞かれる場合があります。アートであっても日常の安心が得られない世界、逆に言えば存在論としても、こんなに面白いものはないのではないかと思っているところです。
    「ミケランジェロ」について・5
    「芸術家列伝3」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 田中英道・森雅彦訳)の「ミケランジェロ」について、幾つかに分けて気に留まった箇所をピックアップしていきます。今回も前回に続いて「システィーナ礼拝堂」に関する記録です。「法王は、往々ミケランジェロを見ると、礼拝堂は貧弱だからより多くの色彩と金色で豪華にならぬかと聞いた。ミケランジェロは親しみをこめてこう答えた。『法王様、当時の人々は金色で飾りたてたりなどいたしませんでした。描かれている者たちは富をさげすんだのですから。決して金持ではなく、聖人だったのです』。この作品のために、ミケランジェロには法王から数度にわたって計3000スクード支払われたが、そのうち彼は顔料代に25スクード費やさなければならなかった。この作品は、上に頭を向けて制作せざるを得ないというたいへん不自由な状態で完成された。それで彼は視力を弱めてしまい、また上を向かなければ文字を読むことも素描を見ることもできないほどになった。それは、以後何カ月も続いた。私はそれを確言できる。というのも、コージモ公の宮殿の大部屋のために私が天井で5つの部屋を描いたときなど、もし私が頭をもたせかけ、制作しながら休んだりできる椅子を作らなかったら、私は決してそれを完成できなかっただろうからだ。それでも私の視力を弱めたし、いまでも感じているごとく、頭部をそこねたのである。だから私がミケランジェロが、この不自由に大いに耐え忍んだことには驚嘆する。日々ますます制作意欲に燃えたたせられ、彼自身が得たものや進展のさまによって、疲労も感じなければ不自由も気にならなかったのである。」制作に纏わる不自由さで、作者自らが身体を傷つけてしまうことに、私の心が刺さりました。結果として名誉を手に入れたとしても、です。「さてこれを見ようと、各界の人々が駆けつけるのを耳にしたが、人々を仰天させ、口もきけないようにしてしまうのに十分なものだった。そのため、法王はこのことに気を大きくされ、自らさらにすばらしい事業を行なおうとする活気が得られ、金や高価な贈物で大いにミケランジェロに報いた。彼は、往々、法王がさかんに授けてくれる好意について語ったものである。法王が彼の力量を十全に認めていることを示すものだったのである。」今回はここまでにします。
    9月になっても猛暑が継続
    9月になりました。このところずっと猛暑が続いていて、果たして9月になってもこの暑さが続くとしたら、工房での陶彫制作はどうなってしまうのか、かなり心配です。陶彫制作は、全体像は予め決めているのですが、実際は手作業によって作品を修整するところがあり、その都度、その場で思考していきます。具体的な空間の中で、どのように作品化させた素材を存在させるか、それによって空間を変容させる装置が彫刻であると私は考えます。その思考部分は心地よい環境の中でやっていきたいと常々私は思っていて、それが蒸し暑い工房では無理があるように思います。頭がボウとして思考そのものがまとまりません。元来、芸術という論理が発祥したのはヨーロッパで、ギリシャあたりでは乾いた風土があり、エーゲ海からの風に晒されて、白亜の大理石に神の姿を彫り込んだのが造形芸術のはしりだろうと思っています。それ以前のエジプトにも彫刻はありましたが、芸術文化として論理を築いたのは西洋で、その後の量感としての立体把握は美術史に書かれている通りです。私の陶彫も彫刻である以上、そこを出発点としており、人体以外の表現を採用しているわけです。そこにも私なりの理論はあるのですが、乾いた風土が齎す構築性のある芸術思考が、日本の高温多湿な風土によって、構築性が徐々に平板なものになっていく危惧を感じます。日本の気候風土に合った陶芸は、どちらかと言えば平板な表現なので、私がやろうとしていることとは違いがあるのです。それでも次第に日本型の彫刻に染まっていくように感じているは確かです。早く涼風が立って、ヨーロッパの気候に似た季節になってほしいと私は願っています。今月は美術館や映画館に鑑賞に行きたいと思っています。私の座右の銘である「焦らず休まず」をもって、今月はゆっくり進んでいきたいと思っています。
    週末 猛暑の8月を振り返る
    日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、今日が8月の最終日になるので、猛暑だった今月を振り返ってみたいと思います。空調設備がない工房での制作は、暑さとの闘いです。陶彫制作を始めると、すぐに汗が滴ります。彫刻を学んでいた頃から、彫刻科の校舎にはエアコンがなく(40年以上前にはどこにもエアコンがなかったのですが)社会人になっても学校の美術室にはエアコンがありませんでした。ということは、私は冷房の効いた場所で彫刻を作っていたことは一度もないことが分かりました。空調設備のない工房を自然と受け入れているのはそんな理由かもしれませんが、さすがに今夏の暑さには辟易しました。今月をどう過ごしたのか、日々の記録している手帳を見ると、31日間あった今月ですが、工房へは31日間通っています。一日を割いて美術館に行くことも、旅行に出ることもなかった1カ月でした。当然、お盆には墓参りもしているし、自宅の2階出窓に修繕が必要になって、その工事日程の間も家内とやり繰りをしながら毎日工房に行っているのです。個展が毎年7月に組まれているので、8月は一番制作には余裕がある1カ月のはずですが、今年は珍しい1カ月になりました。猛暑の毎日でどこかへ行こうという意欲が起きなかったのかもしれません。何があっても創作活動を坦々とやり続けることは、私の得意とするところですが、振り返ってみると改めて、制作をしている時が私には絶好の精神安定剤になっている証だろうと思っています。その中で唯一映画に行きました。「『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」(TOHOシネマズららぽーと)で、日本のアニメーションの水準を知りました。それは日本独自のサブカルチャーの積み重ねがあって到達できた世界です。さて、来月はこの暑さはどうなっていくのでしょうか。地球温暖化の影響が続くなら、この異常気象はまだまだ続くのかもしれません。ともかく、来月も身体に十分留意して過ごしたいと思っています。
    週末 偉大な巨匠を再認識
    週末になりました。定番として土曜日は今週の振り返りを行ないます。今週も猛暑が続き、工房での陶彫制作が厳しいと思いつつ、何とか毎日やっている状況です。日々の温度が高いため陶土の乾燥が早く、それにも対応せざるを得ないのです。今週は木曜日から自宅の2階出窓の修繕工事が再開しました。先週は部材が足りなくて、工事が中断したままになっていたのです。工事がある日は自宅に職人さんたちが入るため、家内か私のどちらかが自宅にいる必要があり、家内と融通をつけ合っています。私にとって今週の大きなニュースは現在読んでいる書籍のインパクトによるもので、毎晩偉大な巨匠を再認識しています。ヴァザーリ著「芸術家列伝3」ではレオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロが登場し、とりわけミケランジェロは彫刻をやっている私には心に沁みる印象があります。私は20代の頃イタリア各地を回り、ミケランジェロの代表的な石彫をじっくり鑑賞してきました。「ピエタ」を見た時は横たわるキリストの肢体の表現が、まさに神がかっていて、人が作ったものとは思えない造形に畏怖を抱きました。「モーセ」も同じ感想を持ちましたが、本書によって驚きを隠せなかったのは「ダビデ」です。他の彫刻家が削って途中で放棄した石材を譲り受けて、あの「ダビデ」を彫り出したミケランジェロという人物は、一体どんな才能を持ち合わせていたのか、その実力に眼を疑うばかりです。彫刻だけではなく、システィーナ礼拝堂のフレスコ画に取り組み始めた様子が本書にありますが、フレスコを今まで扱ったことがないにも関わらず、その研鑽に独力で挑むミケランジェロには、創作意欲の激しさ、大きさに圧倒されます。彼には自分の実力に匹敵する者でなければ協働できない生癖があり、それが気難しく、人を寄せ付けない孤高の精神を表しているのではないかと察しました。偉大な天才に見られる偏屈さではあるけれど、我執の強さでは誰にも負けないものを持っていたのでしょう。もしもミケランジェロが近くにいたなら、その磁場の強さがいかほどのものか体感したいと私が思ったのも不思議ではないと思いました。