2025.07.10 Thursday
「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「マザッチョ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「いかなる分野の仕事であれ、秀でた人物が出現するとき、多くの場合たった一人だけでないのが自然の摂理である。通常、同時に好敵手があらわれ、たがいに技を競い合い切磋琢磨し合うようにある。~略~あたかも、この説の正当性を証明するかのように、フィレンツェにおいてそれぞれの分野で抜きん出た才能を持った人々、フィリッポ・ブルネㇽレスキ、ドナテㇽロ、ロレンツォ・ギベルティ、パーオロ・ウッチェㇽロ、マザッチョが時期を同じくして競うがごとく輩出したのであった。」マザッチョの画風と人物について述べた箇所があります。「絵画におけるぎこちなさ、不完全、困難な表現を克服した先達の一人に数えることができる。美しいポーズ、動き、高貴性、躍動感、全く自然で均衡のとれた立体感を生み出したのも、マザッチョをもって嚆矢とする。~略~まったくもって風変わりな、無頓着な性格で、絵画一筋、自ら奉ずるところも少なく、他人を一切気にしなかった。俗事には一切かかずらおうとせず、服装には無関心、他人に金を貸しても、よほど本人が困らなければ返却の請求もしなかった。本名のトンマーゾの代わりに誰からも、きたないトンマーゾ、すなわちマザッチョと呼ばれていた。悪い性格のためではなく、性すこぶる善良で、奇行が多かったためである。」マザッチョの業績について触れた箇所がありました。「聖ペテロの洗礼の物語のなかで、多くの受洗者にまじって、寒さに凍えふるえている裸の人物の評判が特に高い。浮彫りの効果も美しく、優美に描かれているため、古今の画家から常に高い評価を受けてきた。それゆえ、多くの画家、大家が今日にいたるまで礼拝堂に絶えず通ってくるのである。~略~マザッチョの作品はすべて賞賛された。26歳の若さで彼を見舞った死が、現世から彼を奪わなければ、さらに大きな芸術上の収穫をあげたであろうと多くの人々は考えている。いや確信してやまない。運命の神のねたみか、あるいは美しいものは長続きしないのが当たり前なのか、花の盛りにマザッチョは世を去った。死はあまりに突然で、毒殺以外に原因はみあたらないとする人にも事欠かない。」今回はここまでにします。
2025.07.09 Wednesday
「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ウッチェㇽロ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「パーオロ(ウッチェㇽロ)は、およそいっさいの時間を無為に過ごすことなく、常に芸術の最大の難問を追い求めて、建物の平面図や、建築物の側面図から、遠近画法を引き出す方法を完成の域にまで高めた。それは屋根や軒蛇腹にまで及ぶもので、線を交叉させ、その線が中央に集中し、そこで消滅するよう工夫してあり、その中央は視座に応じて、高低いずれの点なりに最初から決めておくのであった。それで要するにこの難問に非常に熱中したあげく、ついに画面で人物がきちんと足を据えたところに人物を置く、その方法や法則を発明したのであった。すなわち画中のどこで人物を次第次第に縮めればよいのか、そして遠ざかるにつれて人物も短縮すればよいのかーこうしたことは元来は偶然まかせに行われていたことであったが、ウッチェㇽロはまた丸天井の交線やアーチについても同じように方法を発見した。梁と格間の間にはいりこんでゆくように描くことで天井に遠近をつける方法や、また家の壁の尖った角に、その角に沿って曲がっていながら、しかも遠近画法を用いたデッサンによってその角度を修正した、円柱の列を描いた。そうした問題に熱中するあまり、ウッチェㇽロはほとんど世間と交際もせぬ、野蛮人のような、ひとりぼっちの人となり、何週間も何箇月も家に閉じこもって、人前に姿を見せなかった。」それでもウッチェㇽロの業績は大きかったようです。「パーオロ・ウッチェㇽロは変人であったけれども、自分と同業の職人たちの才能をよく認め、よく愛した。そしてそうした人たちの名が後世に伝わるよう、自ら画筆を取って、長い板に5人の秀でた芸術家たちの肖像を描き、彼らを記念してその板絵を自宅に大事に取っておいた。その一人は画家ジョットで、ジョットは芸術の光であり、芸術の始めなのである。次に建築面ではフィリッポ・ブルネㇽレスキ。彫刻面ではドナテㇽロ。そして遠近法と動物画の面ではパーオロ・ウッチェㇽロ自身。そして数学面では友人ジョヴァンニ・マネッティ。ウッチェㇽロはこのマネッティとしばしば会っては、ユークリッドの諸問題を論じたのであった。」ルネサンス期に遠近法が確立されましたが、その立役者がウッチェㇽロでした。今回はここまでにします。
2025.07.08 Tuesday
「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「シモーネ・マルティーニ」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「シモーネ・マルティーニ(メンミ)がフランチェスコ・ペトラルカ氏の時代に生き、アヴィニョンの宮廷でこの愛の詩人と偶然出会ったということは類まれな幸運であった。詩人は画匠シモーネの手になるラーウラ夫人の肖像画を強く望んだからである。それだけに自分が望んだ通りの美しい肖像を手に入れた時、ペトラルカはシモーネを記念して次の二つのソネットを作った。~ソネット以降、略~シモーネ・メンミはシエーナの人で優れた画家であった。その時代にあって異才であり、法王のアヴィニョンの宮廷でたいへん高く評価された。シモーネは自分の師のジョットがローマでモザイクで身廊その他を制作した時、ローマについて行ったが、ジョットの死後、サン・ピエートロ寺の柱廊玄関内に聖母マリヤを制作する際と、外部に面した柱廊玄関のアーチの間の壁面のいま青銅の松のある近くの場所に聖ペテロと聖パウロとを制作する際に、ジョットの流儀を真似した。そしてその流儀のためにたいへん褒められた。」シモーネには弟がいて、2人とも画家として協力し合ったようです。「最後に二人とも故郷のシエーナに戻り、シモーネはカモㇽリーア門の上の非常に大きな色のついた仕事に取りかかった。そこには『聖母の戴冠』の図が数限りない像とともに描かれている。その作品は彼が大病したために未完成のままに終わった。その重病に勝てずシモーネは1345年この現世を去った。そのことは全シエーナ市にとっての嘆きであり、弟リッポにとっての嘆きであった。弟は兄をサン・フランチェスコ寺に埋葬した。名誉ある埋葬であった。」今回はここまでにします。
2025.07.07 Monday
「芸術家列伝1」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)の「ジョット」について、気に留まった箇所をピックアップいたします。「ジョットの初期の絵画はフィレンツェのバディーアの大祭壇の礼拝堂にある。彼はそこに美しいというので評判になった絵をいくつも描いたが、とくに『受胎告知の聖母』は世評が高かった。そこには、天使ガブリエルが挨拶に近づいてくるのを見、マリヤが驚きおそれ、不安のあまりほとんど逃げようとしているさまが非常な表現力をもって描かれている。この礼拝堂の大祭壇にある板絵もやはりジョットの作だが、その絵は今日までその場所にずっと安置されている。それはこのような偉人の手になる作品にたいして、世間がある種の深い敬意を表しているためである。」ジョットは各地で請われるまま多作していたようです。「このフランチェスコの像を完成すると、ジョットはフィレンツェへ戻り、そこでピーサへ送るために、ヴェルニアのおそろしい岩山の中にいる聖フランチェスコの板絵を驚くほど細心に描いた。当時、樹や岩がたくさんあるような風景を描いたということはまったく目新しいことだったが、この絵の価値は単にそれだけではない。いそいそとひざまずいて聖痕を受ける聖フランチェスコの姿態には、イエス・キリストにたいする限りない愛と聖痕を受けたいという燃えあがるような望みがはっきりと見られる。キリストは空中で熾天使たちに囲まれフランチェスコに聖痕を授けているが、そこには感動が如実にあらわれており、これ以上美しい光景は想像できない。」ジョットの晩年に触れます。「ミラーノから帰ってまだそれほど経たぬころ、生涯にわたって数多くの美しい作品を描いたジョットは1336年に亡くなった。彼は秀れた画家であったが、それに劣らず良いキリスト教徒でもあった。フィレンツェ市民は、彼を直接知っていた人はもとより、彼の名前だけしか知らなかった人も、みなその死をいたんだ。ジョットは生前誰からも愛されたが、とくに何事によらず一芸に秀でた人々から愛された。そしてその功績にふさわしい名誉をもって葬られた。」今回はここまでにします。
2025.07.06 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていますが、茹だるような高温多湿の工房の中で、創作のことを考えるのは何とも場違いな感じを持ちます。「近代絵画史」(高階秀爾著 中公新書)に続いて「芸術家列伝」(ジョルジョ・ヴァザーリ著 平川祐弘・小谷年司訳)を読んでいる私の頭の中はすっかり西洋美術一色になっていますが、そもそも芸術の概念について考えるのは、日本のこの気候の中では無理があるように思えます。芸術と言う概念を構築したのはヨーロッパであるのは疑う余地はありませんが、それが育った環境風土が、現在私がいる高温多湿の日本とは異なるのではないかと実感いたします。20代の頃に留学の目的で降り立ったヨーロッパは、夏であったにも関わらず、乾燥した涼しさがあり、当時も蒸し暑かった日本を抜け出し、快い気温と秩序だった街並みにホッとした思い出があります。嘗て読んだ「風土」(和辻哲郎著 岩波書店)にこんな文章があります。「ヨーロッパにおける芸術作品の代表的なるものは、規則にかなえることを問題とせざるを得なかったほどに合理的な色づけを持ったものである。偉大なギリシャ人の天才が、一方に数学的学問を出発させるような素質を持ちつつ同時に規範的な芸術を作り出したということが、一つにはこの傾向を産み出したのであるかも知れない。」芸術を確固たる論理を持った概念として生み出したのは、ヨーロッパの置かれた地形や気候によるところが大きかったと考えられます。「ギリシャ的自然は従順であり明朗であり合理的である。」という前置きもありました。日本には秋になると芸術の季節という言葉がありますが、芸術概念の育つには爽やかな気候が最適なのだと思います。工房の蒸し暑さの中では、いくら素材に向き合っていても近視眼的にならざるを得ず、大きな捉えとして芸術を論理することは出来ないと感じました。