Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 湿度の高い工房にて
    梅雨の時期になったせいか、加齢のせいか、この湿度が高い季節は、私は身体のどこかに具合の悪いところがあって、それを騙し騙し過ごしている感覚があります。加齢と書きましたが、教職に就いていた若い頃から、身体が負担を感じていることは年齢に関係なくあったように思います。教職は朝が早く、授業が次々にやってきて、自分を振り返る余裕もなくその日が終わっていました。15年前に管理職になっても、何かに追われるような仕事が常に頭にあり、仕事の質が多義にわたっていて、辛い思いもしていました。つい3年前までそんな生活でしたが、現在は全て自分のために費やしている時間なので、前に比べれば気楽になったと思える時もあります。それだからこそ自分の体調を考える時間があるかもしれません。今日は日曜日なので創作活動についてNOTE(ブログ)を書こうとしています。つい体調のことから話を始めてしまったのは、やはり季節のせいでしょうか。私が一日の大半を過ごしている工房は、空調設備がなく、気温も湿度も外と変わりません。救いなのは工房が丘の上にあって、時折爽やかな風が窓から入ってくることです。それは清涼水のように感じて、気持ちがふと楽になります。もうひとつ湿度の高さが気にならなくなるのは、創作活動に集中している時です。成形や彫り込み加飾をやっている時に、ふと何もかも忘れられる瞬間がやってきます。情緒もなくなって、自分が何者かもわからなくなります。長野県の山奥にたった一人で彫刻を作り続けている我が師匠が、孤独に耐えられるのも創作活動があればこそなのだろうと察しています。その創作力、集中力ですが、恐らく心理学で言うところのフロー状態のことを指すのではないかと思いますが、若い頃と比べるとその持続する時間が少なくなっています。これは明らかに加齢によるものでしょうか。湿度の高い工房にて、そんなことが頭を過りつつ陶彫制作に没頭していました。
    週末 新作陶彫&映画鑑賞の1週間
    土曜日になりました。今週を振り返ります。今週は7月個展の陶彫作品を収める木箱作りを行なう一方で、来年に向けた新作の陶彫制作を進めました。今週は梱包用の木箱より、新作の陶彫制作に腰が入ってしまい、漠然とした新たなイメージが少しずつ具現化していく心地よさを感じていました。新作の陶彫作品としては現在2点目の取り組みになりますが、従来作ってきた陶彫作品よりも一回り大きくなり、工房の窯には1点ずつしか入らないなぁと思っています。長くやっている陶彫制作に慣れてきたせいか、自分の中では手強い状況を作ろうとしていて、これを克服して達成感を得たいと思っているのです。造形が容易な土ではありますが、それを焼成する以上、中身をがらんどうにして、厚みを均一にしなければならず、常にそれを意識しながら成形や彫り込み加飾をやっています。気持ちはすっかり来年の新作に向いていて、さらにイメージの具現化を進めていく所存です。さて、今週は映画館にも足を運びました。工房のラジオから流れてきた映画情報に即刻反応して、その日のうちに家内を誘って映画「国宝」を観に行ってきました。映画「国宝」は歌舞伎の世界をドラマチックに描いたもので、芸を磨くとはどういうことか、それが観客の心の機微に触れて、感動を齎すことの素晴らしさを味わうことが出来ました。胡弓の演奏者である家内は、実際の歌舞伎も幾度となく観ていて、映画が誇張していたところも分かっていたらしく、それを差し引いても面白い映画だったと言っていました。図録が完売していたため、歌舞伎のことをよく知らない私は、歌舞伎に関する解説も読んでみたいと思ったのでした。今週は新作の陶彫制作と映画鑑賞の他に、自家用車の1年点検があってディーラーに持っていきました。私は車検だけでなく、車の点検はよくやっていて、車は便利なアイテムであり、命を預けているものでもあるので、そこは慎重に扱っているのです。また陶土がなくなってきて、例年購入している栃木県益子町にある明智鉱業にファックスで注文をしました。今週はそんな1週間でした。
    新聞記事より「技術と表現」の関係

    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「手にしている技術をあまりにも容易に使えるようになると、技術が表現を許すものだけを表現するようになる。イサム・ノグチ」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「表現には技術が必要だが、それに溺れ、世界の存在を蔑ろにしてはいけないと米国の彫刻家は語る。物の重量にしても相対的なもので、茶道では袱紗(ふくさ)が世界で最も重いもののように扱われる。それで人は世界の手綱を辛うじて握る。石と違いどうにでも成形できる粘土はだから危ういと。『イサム・ノグチ  エッセイ』(北代美和子訳)から。」コメントの中で出てきた袱紗について解説をいれます。「茶道で茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いるおよそ縦9寸、横9寸5分の絹布。」というのが袱紗です。表現媒体によって、絹布が重く扱われる例として引用したと思われます。イサム・ノグチの思考では、あらゆる素材に対し、作家がその素材に抵抗される分、表現する困難さに直面し、そこに打ち克つことで、緊張感のあるクオリティの高い作品が生まれることを示唆していると思われます。それはその通りで、扱う素材が容易になってしまったら、作品のクオリティは落ちていきます。彫刻を学び始める時は、粘土を扱うことが多く、それは成形が容易だからです。粘土には可塑性があって、膨らませたり削ったりすることが自由で、何度でもやり直しがきくところもあります。私も大学でまず粘土による人体塑造をやりましたが、立体構造を学ぶ習作には適した素材だなぁと思っていました。ただし、現在私がやっている陶土となると、そこに焼成という工程が付き纏うので自由度は減っていきます。造形も嘗て習作で扱った粘土とは違い、可塑性はあるものの、最終工程を見極めながら進めていかないと、作品として成立しなくなるのです。そこが面白いところでもあります。

    映画「国宝」雑感
    私は工房で作業をする時は、ラジオを何気なく聞いています。今日も朝からFMヨコハマをつけていましたが、番組のMCが映画「国宝」の話をしていて興味が湧きました。今日は陶彫制作を早めに切り上げて、鴨居のエンターテイメント系映画館に家内を誘って、映画「国宝」を観に行きました。家内は胡弓の演奏者で、芸の世界に生きる者として映画「国宝」に関心があるのではないかと私は察していました。本作は歌舞伎の世界をドラマに仕立てたもので、ドラマチックな展開があって面白い題材だなぁと思いました。本作の主人公は2人います。一人は任侠の一門に生まれ、ヤクザの抗争で親を殺され、歌舞伎役者に引き取られます。もう一人はその歌舞伎役者の一門に生まれた御曹司で、その2人が同い年だったことで切磋琢磨して、芸の道に精進していく物語です。2人とも美形だったために女形をはり、歌舞伎でお馴染みの演目が次々と出てきて、しかも実際の歌舞伎より映画版としてアレンジされているため、あらゆる角度から見た舞台演出や、裏方の様子なども描かれて、3時間の長丁場でも観客を飽きさせることなく進行していきました。任侠の一門に生まれた主人公は、芸事に長けた才能を持ち、しかも芸以外の全てを捨ててもよいと悪魔と取引する場面がありましたが、どうしても手に入らないものが血統。つまり歌舞伎には血縁関係が根強くあって、歌舞伎役者の一門に生まれた主人公を羨んだりしましたが、一門を継ぐことになったのは、何と血の繋がりのない任侠の一門に生まれた主人公でした。ところが先代の死去によって事態が一変、素性を週刊誌にすっぱ抜かれて、歌舞伎界を追われてしまうのです。それでも芸道の性質上、時に昇降する潮流に翻弄されつつ、再び2人が同じ舞台を踏む機会が訪れていました。芸を磨くとはどういうことか、これは家内ばかりではなく、私の創作活動にも関係するような気がします。芸術のために犠牲を払った先達は数多くおります。他者を惹きつけ、感動させるもの、それは媒体を問わず存在していると私は考えています。
    「幻想の系譜」について
    「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第19章 幻想の系譜」について気になったところをピックアップしていきます。「写実主義というのは、少なくともルネサンス以来の西欧の絵画の歴史においては、ものの見方であると同時に表現の技術であった。『素朴派』の画家たちは、ちょうど子供と同じように、技術的な修練を重ねる機会を持たず、またその気もなかったため、写実主義が絵画の基本的条件のひとつと考えられていたあいだは、芸術の歴史に参加することはありえなかった。また、彼ら自身にしても、そのようなことは考えなかったであろう。20世紀の『素朴派』たちの場合でも、彼らを歴史の舞台に引っ張り上げたのは、アポリネールやヴィルヘルム・ウーデのような批評家たちであり、カンディンスキーやピカソのような専門の画家たちであって、彼ら自身ではない。」ここで2人の画家を取り上げます。まず、ルソー。「おそらくルソーは、あまりにも生き生きとした想像力に恵まれていたので、自分自身の幻想の世界と現実との区別がつかなくなってしまっていたのであろう。詩人のジャン・コクトーは、1897年アンデパンダン展に出品された《眠るジプシー女》について、この画面に登場するライオンや河は、眠っているジプシー女の夢に出てくるものであったろうと述べているが、それ以上に、この画面が、そしてルソーの描き出す映像世界のすべてが、現実以上に強烈な彼の夢にほかならなかったのである。」次にシャガール。「多様な民族的特質が発揮される現代絵画の歴史においても、シャガールくらいそのインスピレーションにおいて、自己の属する民族の血に忠実であった画家は例が少ないと言ってよい。その民族的な伝承や風習を取り上げて奔放に造形化し、華麗に飾りたてたところに、あの屋根の上のヴァイオリン弾きとか、空を飛ぶ恋人たちとか、空中で音楽を奏する動物たちとか、首のとれた農婦など、シャガール特有の、しかしユダヤ的雰囲気の濃厚なあの幻想世界が生まれてくるのである。」今回はここまでにします。