2025.06.10 Tuesday
「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第18章 キュビスムの画家たち」について気になったところをピックアップしていきます。「考えてみれば『印象派』以来、近代絵画はずいぶん悪口によって色どりを与えられてきた。『キュビスム』もそのひとつで、あらゆる前衛的なものに強い興味を示した詩人ギョーム・アポリネールは、早くも1911年も講演で、『私は、嘲笑の言葉として与えられたこの〈キュビスト〉という呼び名を、私の友人たちのために採用したいと思う』と宣言して、事実、それから2年後には、『キュビスムの画家たち』と題する評論集を刊行した。~略~歴史的にはキュビスムの美学の展開は、対象の『解体』を徹底的に追求する1908年ごろから11年ごろまでの『分析的時代』と、その『解体』の結果、画面ではほとんど見分けがつかないまでばらばらにされてしまった対象をもう一度はっきりした形で復活させようとするその後の『綜合的時代』とに分けられるが、その『分析』から『綜合』への転換を特徴づけるものは、ほかならぬ『オブジェ』の利用であった。」ここで2人の画家に注目します。まず、ブラック。「1907年から第一次世界大戦の始まる1914年まで、彼はピカソとほとんど一体になってキュビスムの探求にすべてを捧げるが、この時代のキュビスムの持つ厳しい知的な構成は、ピカソ以上にむしろブラックの気質に似つかわしいものであった。もっとも、この時期のふたりの活動は、きわめて密接に結びついており、『コラージュ』の利用などもふたりの作品に相前後して登場してくるので、キュビスムの美学への寄与においてどちらがいっそう大きな役割を果たしたかは、容易に決定しがたい。むしろ奔放で情熱的なピカソと、冷静で理知的なブラックとの文字どおりの協力によって、あの革命的な事業がなしとげられたと言うべきであろう。」次はレジェ。「『私はセザンヌの影響を追いはらうのに3年かかった。そのために私は、ほとんど抽象の世界にまで行ったのだ』という彼自身の告白は、おそらく正直なところであったろう。そして、そのことは同時に、セザンヌからキュビスムを経て抽象絵画へと向かう道程が、モンドリアンの場合ばかりではなく、レジェにおいても暗示されている点で、われわれにとってきわめて興味深い。」今回はここまでにします。
2025.06.09 Monday
「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第17章 ピカソとキュビスム」について気になったところをピックアップしていきます。「14歳の時、一家とともにバルセローナに移ったピカソは、ただちに父の勤める美術学校に入学した。その入学試験の時も、普通には1か月の猶予を与えられる課題作品をたった一日で仕上げ、しかも先輩の誰よりも優れた成績で人々を驚かせたという。後にピカソが、『自分は子供のころはラファエㇽロのように描いていたものだ』と述懐したというのも、まんざら誇張ではなかったわけである。」さらに《アヴィニョンの娘たち》を描いたピカソについて書かれた箇所を引用します。「5人の裸の『娘たち』をほぼ正方形の画面にまとめ上げたこの大作は、当時何よりも新しい表現を求めていた前衛的な仲間の画家たちをもびっくりさせるほど型破りなものであった。画商のカーンウェイレルの仲介でちょうどこの大作を制作中のピカソと知り合ったブラックですら、最初のうちはピカソの意図を理解できなかったほどである。もちろん、その後の歴史の展開を知っている今日の眼から見れば、この『娘たち』もある意味ではほとんど古典的とさえ言ってよいような落ち着いた表現を持ったものと見えるかもしれない。また、ピカソをここまで導いた道筋についても、当時ルーヴル美術館で公開されていた古代イベリア彫刻の影響とか、ピカソ自身は後に否定しているが、アフリカの黒人彫刻からの暗示などを指摘することによって、ある程度まで説明することが可能であるにちがいない。」次なる注目作は《ゲルニカ》です。「第二次大戦後、ピカソは共産党に入党して話題を呼んだほど政治や社会の問題に関心をいだいており、直接政治的活動はしなかったにせよ、彼の画面は、しばしば強い政治的主張や社会的告発を含んでいるが、30年代は、そのような社会的関心が最もあらわに表現された時代でもあった。そして、その頂点を形成するのが、言うまでもなく、1937年のパリ万国博覧会に出品された《ゲルニカ》である。ほとんどモノクロームに近いほど抑制された色調によって、ナチス空軍による無差別爆撃の暴挙を受けたゲルニカの町の悲鳴を思いきり激越なイメージによって描き出したこの大作は、その強烈な表現力と恐ろしいまでの迫力のゆえに、20世紀の美術の歴史において、最も忘れがたい傑作のひとつとなったのである。」今回はここまでにします。
2025.06.08 Sunday
日曜日になりました。日曜日は主に創作活動について書いていますが、まだ来年発表予定の新作が具体性を持たず、湧いてきたイメージも曖昧なままです。それでも陶土を混合して、菊練りを行ない、まず陶彫成形の第一歩を踏み出しました。今年7月にギャラリーせいほうで発表する「発掘~跨橋~」は陶彫作品と陶彫作品を繋ぐ橋を、タイトルとして採用しています。新しい作品も「発掘~跨橋~」の発展形としてイメージしているので、主張するところは同じですが、橋桁から橋桁を繋ぐ橋が崩壊している姿を、私は思い浮かべていて、これをどうしようか思案しているところです。彫刻は物質を据えるため重力があり、それを支えるための工夫が必要です。絵画のような平面表現であれば、イメージを羽ばたかせることもできますが、空間芸術には制約が多いので、橋をどのように作り、それを支えるのか、または吊るのか、構造を具体的にするために原初的なイメージを育てていかなければならないのです。橋桁も重要な造形になり、それは私に画像としてイメージできているものがあります。従来なら20代終わりに旅したエーゲ海沿岸の古代遺跡がイメージの土台にあると言いたいところですが、40年も前の記憶は既に朧気で、自作に相応しい新たに仕入れたものを使うしか方法はありません。ふと頭を過ったのはドイツロマン派の画家フリードリヒの廃墟になった僧院を描いた絵画で、その暗いイメージが崩壊された橋にぴったりだなぁと思ったのでした。それはあくまでもイメージの補助でしかなく、その絵画を模倣することはありませんが、私はフリードリヒの広漠とした世界が好きで、崩壊と言うとドイツの画家フリードリヒか、イタリアの版画家ピラネージが浮かんできます。自分の引き出しにある芸術家はそれくらいですが、時折彼らの作風に接して見たくなるのは私の性癖だろうと思います。
2025.06.07 Saturday
週末になりました。今週の振り返りを行ないます。今週は新作の陶彫作品を作る一方で、7月の個展に向けて出品作品の梱包作業に追われていました。エアキャップのついたシートによる平面作品や古木材の梱包は終わっていて、陶彫作品を収める木箱作りを始めていました。昨年の作り方を思い出しながら、木箱を補強する垂木を切断しました。昨年ほど陶彫作品は多くはないので、作品量を確かめながら木箱作りを進めていきます。先日、カメラマンが撮影した案内状の画像がラインで届きました。私が確認して印刷を開始してもらうことにしました。今週はそうした作品に関すること以外に、2日間にわたる鑑賞の機会があって、私は楽しい時間を過ごしました。まず水曜日に出かけた川崎市立日本民家園。私以外に20代の女性たちが3人も一緒で、数多く点在する古民家を訪ね歩きました。彼女たちに背中を押されながら、私は白川郷の民家の中で、賑やかな彼女たちとアイスクリームを食べました。知り合ったばかりの台湾人アーティストもいて、彼女はスケッチをやっていました。翌日の木曜日に私は家内と東京新橋まで出かけ、パナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見てきました。印象派と同世代のルドンは、印象派の代表的な画家と比べても新しい感覚があります。とりわけ内面的で幻想的な作風は、印象主義の次にやってきた象徴主義を体現していて、私はこの時代以降が好きなのです。眼に見えるものを光や影を使って感じたものを感じたように描いた印象主義に対して、眼に見えないものを想像力を駆使して描いた象徴主義。現代美術はそこから始まっていると言っても過言ではありません。パナソニック汐留美術館には所蔵作品としてルオーの絵画があります。ルオーも同世代ですが、ルオーは表現主義と言うべきで、そこに宗教性を感じさせる骨太で静謐な画面を作っています。今回はルドンとルオーの比較も出来て、私には楽しい時間がありました。ただ、私がルオーを理解するには時間がかかりました。最近漸くルオーの誠実な作風が分かってきたところです。
2025.06.06 Friday
昨日、東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見て、造形とそこに内包される文学性について考えてみます。図録から引用します。「ルドンの描く生き物には、まったく想像上のものとしか思えないものが出てくる。これには、ボルドーの植物学者アルマン・クラヴォー(1828ー90)の影響が大きい。ルドンは、20歳の頃かれと知り合い、かれに教えられた顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。若きルドンにボードレールなどの文学に触れる機会を提供したのもかれであり、ルドンの版画集『夢想』(1891年)はこのクラヴォーに捧げたものであった。この時顕微鏡の世界で知った日常的には見慣れないミクロの世界、そこで実際に生きる生き物が、ルドンのもう一つの発想源であったという。」(古谷可由著)ルドンの絵画には詩人の言葉や作家の物語からイメージされているものも多く、タイトルにそれが表れています。私の彫刻の師匠である池田宗弘先生も、時代の風刺を発想源にしていて、ドーミエのような文学表現が見られます。しかしながら、私は高校時代には現代詩に興味があったにもかかわらず、それが造形に及ばず、創作を始めた時から文学性や宗教性を排除しています。それでも私は造形の根幹には詩的発想があることは承知していて、詩に対する関心は人一倍強いのですが、私の造形は造形以外の何ものでもなく、そこに素材があるという存在感だけで成り立っています。私は自分自身のホームページの作品画像の最後にコトバを添えていますが、それは作品の根本理念を伝えるものではありません。作品に関して私は、作品タイトルにも反映していますが、具体性と簡潔性を持って称していて、そこに内在する何事もなく、陶は陶であり、木は木であるというモノ派のような考え方をしています。それは説明的要素を省く思考があるのも確かです。ただ、私は造形に内包される文学性や宗教性を鑑賞作品として味わうのは大好きで、自分の造形とは真逆にあるものを認め、大切にしています。「オディロン・ルドン展」を見て、そんなことも頭を過りました。