2025.05.21 Wednesday
「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第12章 モンマルトルの画家たちとナビ派」について気になったところをピックアップしていきます。本書の上巻はこれで最後になります。モンマルトルの画家たちの中で、本章では主にロートレックを取り上げています。「1878年と翌年79年の二度にわたる思いがけない事故は、彼の両脚を子供の時のままそれ以上発育できないものとしてしまった。それ以後、普通に歩くのには不自由はなかったが、あらゆる種類の肉体的な運動や競技は、彼には無縁なものとなってしまった。後年、彼があの激しく脚を振り上げるフレンチ・カンカンの踊りや、自転車競走の選手、サーカスの曲芸師など、肉体の『動き』を生命とする主題を繰り返し描き続けたのも、現実に禁じられた世界をペンと絵筆で取り戻そうとした試みであったとも言えるであろう。」そんなロートレックの面目躍如とした主題は何だったのでしょう。「モンマルトルの画家としてのトゥールーズ=ロートレックが、真にその本領を発揮するようになるのは、赤い風車の看板とともにムーラン・ルージュが開設されて以後のことである。ロートレックは、さっそくこの新しいキャバレーの常連となり、毎晩のようにそこを訪れては、アルコールに浸りながら、フレンチ・カンカンを踊るラ・グーリュや、しなやかな身のこなしのゆえに『骨なし』とあだ名されたヴァランタンなどの踊りまくる姿を、次から次へと手早くスケッチしていった。~略~それと同時に、ドガやゴッホと同じように日本の浮世絵版画に強い興味を持っていた彼が、とくにポスターや石版画において、思いがけない視点から見た風変わりな構図や、人物のわざと画面の枠で切る特異な構成法によって、多彩な表現効果を生み出したことも、注目される。」ナビ派について触れた箇所にも注目しました。「挿絵や版画に対するナビ派のこのような積極的な関心は、ひとつには、ロートレックの場合にも見られたような日本の浮世絵芸術に対する興味に触発されたものではあるが、同時にまた、彼らの文学趣味の現われでもあった。~略~つまり、ひと言で言って、ナビ派の運動は、広い知的好奇心と新しいものへの情熱によって支えられた、綜合的な芸術活動だったのである。」今回はここまでにします。
2025.05.20 Tuesday
「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第11章 ゴッホの時代」について気になったところをピックアップしていきます。この時代、ヨーロッパでは日本の浮世絵が流行していました。「ゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと新しい造形表現の魅力とがひとつになって、彼らのあのきわめて独自な絵画様式が生まれてきたものと言ってよいであろう。ゴッホもゴーギャンも、未知の世界に対する強い好奇心を持っており、その意味では、エキゾティスムの誘惑のなかったわけではないが、それ以上に、彼らは、従来の印象派的な表現に対する不満から、これまでにない大胆な表現法を試みるためのいわば跳躍台として、浮世絵版画の造形性を学んだ。」さて、ゴッホの特異性について触れた文章がありました。「ゴッホは、セザンヌのように、絵画のために生きた人ではない。むしろ彼にとって、生きるために絵画が必要だったのである。自分自身をも燃やしつくさねばやまぬほどに激しいその生命力を、彼はつぎつぎと異なった対象に向けて燃焼させながら、最後にようやく絵画にたどりついたと言ってもよいだろう。」ゴッホと言えば誰もが知る大変なエピソードがありました。「秋とともに悲劇は始まった。十月にゴーギャンがやって来た時には、ゴッホは大喜びで彼を迎え、理想どおりの共同生活が始まったように見えたが、あまりに強いふたりの個性は、遅かれ早かれ衝突することを避けられなかった。激しい口論の後、剃刀を手にしてゴーギャンの後を追ったゴッホは、ゴーギャンに睨みつけられると、そのまま引き返して部屋で自らの片耳を切り落とし、それを紙に包んで顔なじみの娼婦のもとに届け、そのまま何も言わずに立ち去ったという。」ゴッホの生涯を語る文章もありました。「アルル時代がゴッホの古典主義時代であったとすれば、サン・レミ滞在の時期は、いわば彼のバロック時代であった。事実、激しく捩れながら燃え上がる糸杉、波立つような山脈、大地全体が震えている麦畑などが、彼の画面を大きく特徴づけている。しかし、冬になると、彼の情熱は、またもやそのエネルギーを失って深い絶望が彼を捉えた。」今回はここまでにします。
2025.05.19 Monday
「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第10章 象徴主義と綜合主義」について気になったところをピックアップしていきます。「象徴主義の本質は、モレアスの言葉を借りるならば、『理念に感覚的形態の衣裳をまとわせること』であった。絵画の世界で言うなら、描き出されたものは、単に外面的な衣裳であって、その奥に、直接感覚では捉えることのできない『理念』が隠されているということである。逆に言えば、絵画とは、単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに、その本質的な役割があるというのが、象徴主義の考え方であった。」それでは綜合主義とは何か、こんな論考がありました。「形態の『綜合』は、当然色彩の『綜合』をももたらす。色彩は、こまかく分割されるのではなく、ひとつひとつの『仕切り』のなかでは、平坦で強烈な色面として捉えられる。その結果、画面は、一方ではステンドグラスのように装飾的になると同時に、他方では、眼の前の現実を越えた『思想』の表現ともなる。説教を聞いた後のブルターニュの女たちの姿と、彼女たちの心に浮かんだ幻影とを強烈な赤のバックで結びつけて同一の平面の上に表現した《説教の後の幻影、ヤコブと天使の闘い》など、そのゴーギャンの美学を典型的に示すものと言ってよいであろう。この作品が描かれたのは1888年のことであるが、絵画における象徴主義的綜合主義は、ほぼこの時に成立したと言ってよい。」その代表的な画家であるゴーギャンは、さらに先に進んで行きます。「眼に見える現実とは違った魂の神秘の世界を求めるゴーギャンの冒険は、それだけでは終わらなかった。表面的な繁栄に酔いしれるヨーロッパに強い嫌悪を感じたゴーギャンは、ついに文明世界からの脱出を決意し、遠く未開の地タヒチ島に渡ることになるのである。」この印象主義から象徴主義的綜合主義にわたる大きな変革のなかで、私はゴーギャンの世界が大好きです。これは理念ではなく私の単なる嗜好の問題ですが、平坦に塗られた独特な色彩だけではなく、始原的な生命を感じさせる形態も含めて、私の心に刺さるのです。今回はここまでにします。
2025.05.18 Sunday
日曜日になりました。毎回日曜日には創作活動に関することを書いています。今日は先週あたりに湧き上がってきた次作のイメージについて、メモを残しておこうと思っています。今までもそうですが、何もないところから突如イメージが出てくることはなく、現状を踏まえて、その発展形として次なる作品が思い浮かぶのです。その源泉は現在制作中の平面作品にありました。現行の平面作品には「痕跡」というタイトルをつけようと考えていて、何かしら完成されたカタチが崩れ、何かが失われていく過程をイメージしています。下部に塗られた抽象性の強い矩形や有機的なカタチの上から、重ね塗りをすることで、次第に失われていく世界を表現しようと意図しています。重層的なイメージを最終的に決定づけるのは最上部にコラージュした杉板の破片です。現在2点の平面作品を作っていますが、来年もさらに2点追加しようと考えました。こうした展開の中で気づいたことですが、私は平面作品の方が自由にイメージを羽ばたかせることができるなぁと感じていて、そこを源泉として段階的に立体作品に誘導することがやり易いと思いました。平面に施している油絵の具による塗装は、以前のNOTE(ブログ)には描写の否定を主張していましたが、重ね塗りに筆致の掠れを多用していることを考えれば、これは描写の一端とも言えて、印象派と何が違わないのかと自問自答しています。立体作品では厚板材で破片を作り、それを陶彫作品による橋桁で支えようと漠然と考えました。厚板材の破片は陶彫作品の橋桁で固定し、破片の一部が宙に浮くようにすれば、浮遊感が表現できるのではないかと考えました。ここでイメージしていることは、まだ粗削りなことばかりなので、これを具現化するための試行錯誤がここから始まるわけです。立体作品には重力と言う課題が常に付き纏うので、平面作品に比べれば不自由なことばかりですが、素材の持つ魅力と、場を支配する空間演出の魔術に惹かれて、制作の中心は相変わらず彫刻にならざるを得ません。来年も頑張っていこうと思っています。
2025.05.17 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみます。今週は今までやっていた平面作品から一旦離れて、「発掘~跨橋~」の作業に移りました。4本の大黒柱にそれぞれ陶彫部品を組み合わせて、最終的な全体構成を決めました。陶彫部品を嵌めていく彫り込みを微調整する必要に駆られ、久しぶりに鑿も使いました。その後、陶彫部品と大黒柱に番号をつけていきましたが、来週には印をつけた和紙にその番号を書き写して、大黒柱と陶彫部品の隠れた箇所に貼っていくつもりです。さて、全体構成が終わった大黒柱にバーナーをあてて炙り作業を開始しました。金ブラシで煤を削ぎ落し、布で拭き取っていく地味な作業ですが、創作とは関係ないようでいて、最終的にはそれによって効果が左右されるので、時間をかけてやっていました。炭化した木材と赤錆色した陶彫の組み合わせに、私は最高のコラボレーションを見る思いがしていて、大変気に入っています。とりわけ大黒柱の重量感はなかなか素晴らしくて、素材の魅力を引き出していると私は思っています。今週は「発掘~跨橋~」の全体構成と大黒柱の炙り作業に明け暮れた1週間になりました。勿論、最終的には図録撮影の時にすべてが眼前に現れてくるので、その時にならないと、うまくいくかどうかの不安は拭えませんが、素材同士の組み合わせでは自分自身の感覚を信じて疑わないところもあります。そんな時に、次作のイメージが湧いてきました。私の場合、ほとんどが現状から逃避したい気分になった時に、次作がどこからともなくやってくるので、今回もそろそろ次作が映像として現れるかなぁと思っていました。次作のイメージについては日を改めて書き留めておこうと思います。夜は近代絵画史の印象派についての書籍を読んでいて、旧知のことでも改めて印象派の成り立ちや価値観の変移による印象派の解体について、もう一度確認をしている最中です。芸術という概念は西洋から始まり、ルネサンスから新古典主義に至るまで、その造形哲学に素晴らしさを感じますが、それを打ち破るパワーもなかなか凄いなぁと感じ入っています。今週はいろいろな意味で充実した1週間だったと振り返りました。