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  • 造形に内包される文学性
    昨日、東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見て、造形とそこに内包される文学性について考えてみます。図録から引用します。「ルドンの描く生き物には、まったく想像上のものとしか思えないものが出てくる。これには、ボルドーの植物学者アルマン・クラヴォー(1828ー90)の影響が大きい。ルドンは、20歳の頃かれと知り合い、かれに教えられた顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。若きルドンにボードレールなどの文学に触れる機会を提供したのもかれであり、ルドンの版画集『夢想』(1891年)はこのクラヴォーに捧げたものであった。この時顕微鏡の世界で知った日常的には見慣れないミクロの世界、そこで実際に生きる生き物が、ルドンのもう一つの発想源であったという。」(古谷可由著)ルドンの絵画には詩人の言葉や作家の物語からイメージされているものも多く、タイトルにそれが表れています。私の彫刻の師匠である池田宗弘先生も、時代の風刺を発想源にしていて、ドーミエのような文学表現が見られます。しかしながら、私は高校時代には現代詩に興味があったにもかかわらず、それが造形に及ばず、創作を始めた時から文学性や宗教性を排除しています。それでも私は造形の根幹には詩的発想があることは承知していて、詩に対する関心は人一倍強いのですが、私の造形は造形以外の何ものでもなく、そこに素材があるという存在感だけで成り立っています。私は自分自身のホームページの作品画像の最後にコトバを添えていますが、それは作品の根本理念を伝えるものではありません。作品に関して私は、作品タイトルにも反映していますが、具体性と簡潔性を持って称していて、そこに内在する何事もなく、陶は陶であり、木は木であるというモノ派のような考え方をしています。それは説明的要素を省く思考があるのも確かです。ただ、私は造形に内包される文学性や宗教性を鑑賞作品として味わうのは大好きで、自分の造形とは真逆にあるものを認め、大切にしています。「オディロン・ルドン展」を見て、そんなことも頭を過りました。
    新橋の「オディロン・ルドン展」
    今日は朝から工房に行き、新作の陶彫作品の乾燥具合を見てきました。まだ窯入れが出来るほど新作は進んでいるわけではなく、工房は通常通りに使える状態でしたが、今日は家内を誘って東京新橋にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見てきました。私は昨日に続いて鑑賞の機会を設けましたが、今は7月個展に向けての準備期間なので、多少の余裕が持てる時期でもあります。ルドンは日本でも人気のある画家らしく、入場口で整理券が配られました。魑魅魍魎の好きな私は、ルドンの初期に見られる眼のある奇怪な世界に昔から魅かれていて、石版画集「夢のなかで」や「エドガー・ポーに」の連作が見られたのは幸運でした。本展の図録を読んで発見したことがありました。象徴主義の旗手だったゴーガンとの交流で、共にポスト印象派として親交があってもおかしくないと私は思っていました。「第8回『印象派展』の出品作家としてその前後にゴーガンを見知ったであろうルドンは、この時期、ゴーガンに対して急速に親交を深め、カフェ・ヴォルピニで開かれたタヒチ渡航への壮行会にも出席している。結局は僅かな期間しか交わることはなかったが、ゴーガンと8歳年長のルドンは非常に通じ合うものがあったようだ。~略~ペルーのインカ文明やブルターニュ地方のケルト的プリミティヴィズムに惹かれるゴーガンと、ある種の神秘主義の探訪者であり自然や夢の領域に浸るルドンの間には、さまざまな共通項が生まれていたことは容易に想像される。しかし、ゴーガンは結局ヨーロッパを去った。~略~邂逅したゴーガンとルドンの逸話は、そうしたもののささやかな一例として位置付けられるだろう。しかし、これはある意味、近・現代美術、ルドンとポスト印象主義、とりわけ色彩や色面の扱いなどの造形表現のディテールと西欧近代芸術全般に敷衍される本質的な命題が含まれており、過小評価すべきではない。」(高橋明也著)話題を本展に戻します。ルドンの初期はモノクロの幻想性の強い作品で知られますが、後半の色彩豊かな作品にも魅力的なものが多く、会場の最後にあった花を描いた作品の数々に、多くの鑑賞者は足を留めていました。家内も私も食い入るように見つめ、その美しさを堪能しました。ルドンの内包する文学性については別稿を起こそうと思います。
    久しぶりに日本民家園を散策
    工房に出入りしているスタッフ2人と最近工房を訪れた台湾人女流アーティストを連れて、今日は川崎市立日本民家園を散策してきました。2人のスタッフは女子美大卒業生と在学中の学生ですが、学生が染織の授業が午前中にあると言うので、卒業生と台湾人アーティストに相模原の女子美術大学まで同行してもらい、同大の学生食堂で学生と落ち合いました。日本民家園は学生が染織専攻の課題資料にするためと、台湾人アーティストのスケッチ題材のために、相模原から川崎市多摩区まで車を飛ばして行ったのでした。私にとっては久しぶりの日本民家園の散策になりました。よく全国からこんなに古民家を集めたものだなぁと改めて思いましたが、昔の記憶を頼りにしても、こんなに広かったっけと感じてしまいました。私の脚力が弱くなったのか、3人の女性に背中を押されながら、全ての古民家をやっとの思いで回りました。私が今年の個展で発表する「発掘~跨橋~」に使っている実家の古木材を彷彿とさせていたのは、古民家の縦横を支える曲がった古木の数々で、土壁と相まって私の感覚を刺激するものでした。私が高校時代に目指した建築家としては、こうした古民家を現代に生かすにはどうすればいいのかを考える仕事をしたかったのでした。保存と修復というより、現代生活の中で木材と土壁を美的価値として用いる家屋を建てることが私の理想でしたが、高校時代に建築家になることは諦めて方向転換をしてしまった私は、今更ながら彫刻という媒体を使って、その美的価値をアートとして問うことにしているのです。生活感のない彫刻では、素材の面白さだけで、その他の制約は一切ないので自由気儘な感じは拭えません。それでもそうした素材を場に配置するだけで、何か新しい空間認識が生まれるのではないかと期待しています。美術館の鑑賞もいいと思いますが、古民家の散策も楽しいと私は思いながら、充実した一日を過ごしました。
    「フォーヴの画家たち」について
    「近代絵画史(下)」(高階秀爾著 中公新書)の「第16章 フォーヴの画家たち」について気になったところをピックアップしていきます。ここでは私が注目した3人の画家を取り上げます。まず、ヴラマンク。「ヴラマンクは、絵画によって何よりもまず『自己』を表現しようとした。絵画は、彼にとっては、ひとつの秩序ある自律的世界というよりも、彼を陶酔させるスピード感や彼の愛好したヴァイオリン演奏と同じように、生命表現の手段であった。彼は、マティスのように絵画のために生涯を捧げたのではなくて、生きるために絵画を選んだのである。このような画家が表現主義者になるのは、むしろ当然のことであったろう。激しい原色の乱舞のなかでさえ洗練された調和の感覚を失わなかった多くのフランスのフォーヴの画家たちのなかで、ヴラマンクだけが粗野なまでの色彩の不協和音と誇張された醜怪な表情によってドイツ表現主義の画家に近いものを感じさせるのも、決して不思議ではない。」次はドラン。「性格的にもヴラマンクより穏やかで、伝統的な表現をもよく消化していたドランは、フォーヴ時代の鮮烈な色彩の作品においても、故意に不協和音をぶつけ合うようなことはせず、印象派や、とくに新印象派の美学を通じて学んだ色彩の調和を画面に生かして、見事な色彩の抒情詩を歌い上げた。その点においても、ドランは、マティスと多くの共通するものを持っており、事実マティスから、少なからぬ影響を受けている。」最後はルオー。「ルオーのこの激しい表現主義も、第一次大戦以降、しだいに落ち着いた、静かな世界へと移っていった。おぞましい人間像のかわりに、神や聖女が登場し、風景も優しさを取り戻すのである。~略~それに応じて、表現技法もずっと落ち着いた入念なものとなり、豊かなマティエールに支えられた厚塗りの油絵具が、まるで七宝焼や陶器の肌を思わせるような深い輝きを湛えて、画面いっぱいに豊麗な色彩世界を展開して見せる。」今回はここまでにします。
    図録のレイアウト打ち合わせ
    毎回、個展を開催する時には、私は必ず図録を用意しています。幾度となくNOTE(ブログ)に書いていますが、私の彫刻は陶彫部品を組み合わせてひとつの作品にする集合彫刻で、展示する度にスタッフ数人がかりで作品を組み立てるのです。展示が終われば、作品を解体して、それぞれの陶彫部品は木箱に収めてしまいます。その作品は個展以外に容易に見せることができず、作品全容を見せるためには画像として記録しておく必要があります。そういう意味で図録は必要不可欠です。アナログをデジタルにする際は、撮影の視点等が関係するので、自分では撮影をせず、費用が発生してもカメラマンにお願いしているのです。他者の視点を入れることで作品の世界が広がることを期待しているからです。実際に私が見慣れている作品が、やや角度が変わって画像に収められ、私には新鮮に映ります。今回は20回目の個展なので、図録も20冊目になります。私は最初の1冊目から同じサイズ、同じページ数にしてシリーズ化した図録を作っています。レイアウトもほぼ同じですが、毎回作品が異なるので、図録の雰囲気は毎回新鮮なものに仕上がります。場所は工房の野外と室内を使っていて、それぞれに陰影の効果が違います。立体作品は置かれる場所によって違う様相になり、それが面白味でもあるのです。まさに空間演出の装置というか、周囲の空気を巻き込んで、物質以外のところにも充分存在感を示しています。今晩は2人のカメラマンが自宅にやって来て、家内と私を加えて4人で図録に掲載する作品写真を選び、そのレイアウトを考えました。今回は平面作品もあり、久しぶりに作った小品「陶紋」シリーズもあって、バリエーションに富む構成になりました。今回の目玉になった「発掘~跨橋~」は実家の大黒柱を再利用しているので、デジタルではその素材感を強調し、木目を美しく目立たせた画像を個展の案内状に使うことにしました。実は「発掘~跨橋~」の影の主役は大黒柱です。年輪が語る凝縮した時間が何とも素敵なので、私はこれを生かす方法を考えながら作品を作っていました。アナログな彫刻作品だけではなく、図録も作品の一つと私は考えています。