2025.03.25 Tuesday
「名画を見る眼 Ⅰ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はゴヤの「裸のマハ」とドラクロワの「アルジェの女たち」を取り上げています。まず、ゴヤ。「『裸体のマハ』は、神話の女神やニンフたちのように最初から裸だったのではなく、『裸にされた』のである。どのような並べ方をしたにしても、この二点(※『裸体のマハ』と『着衣のマハ』)でひと組の作品ということになれば、われわれは、裸婦を眺める時でも着衣の彼女を意識しないわけにはいかない。それは、裸婦像としては、きわめてなまなましい、感覚的なものである。~略~後半のゴヤを特徴づけるものは、何よりも人間性の真実の追求であろう。すでに宮廷の肖像画家としてさえ、彼はモデルになった人物の本性を残酷なまでにあばき立てずにいなかったが、華やかな社交生活から身を引いてからは、彼はいっそう鋭敏な観察者となった。彼の作品に見られる幻想性というものも、決して荒唐無稽なものではなく、恐ろしいまでに真実のものである。着衣と裸体のふたりの『マハ』を描くゴヤの眼も、美しいものに憧れる抒情詩人のそれではなく、逃れ難い人間の運命を見つめる予言者のそれである。そして、おそらくその仮借ない眼の故に、彼は近代の先駆者のひとりとなり得たのである。」次にドラクロワ。「ドラクロワの生涯においてきわめて大きな意味を持つこのモロッコ旅行は、1832年1月、南フランスのトゥーロン港から出発して、同年7月再びトゥーロンに戻って来るまで、約半年間続いた。その旅行の帰途、6月の末に3日間ほどアルジェに立ち寄った時、ドラクロワは偶然の機会から『アルジェの女たち』の私室を垣間見ることができたのである。~略~絢爛たる色彩と、豊かな絹の手触りと、濃密な花を香りに満たされたこのような東方世界への憧れは、モロッコ旅行以前からドラクロワのなかに存在していた。~略~新古典主義の『理想美』の美学に対し、ロマン派は、はっきりと人間ひとりひとりの感受性を重んじた『個性美』の世界を対置させた。『美』とは、万人に共通な唯一絶対のものではなく、人によってさまざまに変化し得るものだという考え方である。絶対的な『理想美』を想起するかぎり、芸術創造は優れた先人の後を追うことになるが、『個性美』を認めるとすれば、芸術創造は何よりも他人とは違った独創的なものが要求される。万人に共通するものではなく、逆に万人にはなくて自己にのみ秘められているものを追及し、発掘することが、芸術の目的となったのである。」今回はここまでにします。
2025.03.24 Monday
昨日のNOTE(ブログ)に続き、今日の朝日新聞「天声人語」に興味深い記事が掲載されていたので、取り上げることにしました。「見るとは、どういうことか。見えるとは、何を意味するのだろう。深遠な問いを考えさせられた。水戸芸術館で先月、『全盲の芸術鑑賞者』として知られる白鳥建二さん(55)とともに、現代アートを鑑賞するというイベントがあった。『何を話してもOKです。僕のことは気にせずに』。そう促され、私たち男女6人の参加者が試みたのは、1枚の絵を見ながら、それを言葉で表すことだった。~略~1時間ほどで、3作品を味わった。『みなさんの言葉を思い出し、2週間ぐらい楽しめます』。白鳥さんは愉快そうだった。『展示室の広さや、人の動き、風も感じました』。なるほど、鑑賞とはかくも多様なものか。20代の頃から、美術館を訪ね、作品の説明を聞いてきたそうだ。気づいたのは、視覚情報が芸術の一面でしかないこと。分からないことを楽しむ。そう思って独自の鑑賞活動を続けているという。目が見えても、見えないものはある。見ているつもりでも、言葉にできないものもある。そんな何かを、私も教えてもらった気がした。『みんなが自由に話すのがいい。生き方とかも同じかな』。白鳥さんは飄々と、言った。」美術館は視覚情報しかない施設だと決めつけていた私は、ショックを受けました。全盲の人が、一緒に鑑賞している人の話より、イメージを膨らませて造形思考を行なうことに、私は目から鱗が落ちました。見ることは芸術の一面でしかない、そうです、その通りです。その場合、鑑賞のヒントになる一番重要なものは言葉です。視覚情報をその人なりの言葉で伝えること、それは説明であっても詩であっても構わないわけで、作品の美しさと作者が何を表現したかという主張が伝われば、それでいいのです。しかし、それは難問で、自分自身の作品理解がどこまであるのか、自分が発する言葉で、眼前の芸術作品がどうにでも変わってしまうことに怖ろしさも感じます。それなら客観的解説ならどうなのか、それでは伝わらない何かがあるのが芸術です。そこが芸術の面白さでもあると私は考えているのです。
2025.03.23 Sunday
日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)に書いていますが、今日は先日の朝日新聞「天声人語」に掲載された記事を取り上げます。記事では芸術家ミロについて書かれていました。内容を省略できないので全文引用いたします。「ジュアン・ミロ(1893~1983)は、20世紀を代表するスペインの画家である。カタルーニャ州バルセロナ出身で、1930年代のスペイン内戦からフランコ独裁政権が終わるまで、反ファシズムの姿勢を貫いた。作品で頭に浮かぶのは、鮮やかな色彩と記号のようなモチーフだった。だった、と過去形にしたのは、ミロが積み重ねた軌跡を知ったからだ。東京都美術館で開催中のミロ展を見て、年齢と共に大きく変化していった画風に驚いた。周囲の鑑賞者からも『これもミロなのか』と声が漏れたほどだ。10代で描いた風景画は、印象派の影響がうかがえる。20代からは植物の小さな葉にまでこだわる細密描写に。さらにシュルレアリスムへ移り、独自の記号体系を確立した。50代で本格的に陶器や彫刻に取り組み、亡くなる直前まで続いた。挑戦や探究のたまものだが、それを抵抗と逆境の中で続けたのに驚く。スペインでは独裁政権が75年まで続き、抵抗の拠点となったカタルーニャは当局の厳しい弾圧を受けた。ミロも故郷を離れ、隠れるように創作した。82歳の時のインタビューでは、独裁政権への反抗で『自由で激しいもの』を作品で伝えたことが最も重要だったと語った。その激しさは、ピカソのような『技巧』がなかったから生まれたものだとも(『ミロとの対話』)。90年の生涯でミロが残した多様な作品に、人間とはいつまでも進歩できるものなのだと前向きな気分になった。挑戦を続ければの話ではあるが。」ミロの作品は折に触れて私も見ていましたが、今回の東京都美術館で時系列を追った作品群を見て、当時の社会的情勢に屈しないミロの創作姿勢に感銘を受けました。現在も世界は平和とは言えない状況にあり、いつ戦乱の火の粉が私たちの国にまでやってくるか分からないし、フェイクニュースもある中で、常に疑いを持って情報を注視しなけらばならない世界に私たちは晒されています。そんなことを一人の芸術家の生涯を通して思索する機会は貴重だろうと改めて私は思っています。
2025.03.22 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週の陶彫制作は専ら小品ばかり作っていました。今年の夏の個展で発表する小品は、2つの陶彫部品を組み合わせたもので、今まで作ってきた小品の中では最も大きく、また手間をかけています。今月は規模の大きい新作の古木材の仕上げや炙り作業を計画していましたが、これはどこまで出来るのか分からず、乾燥に時間がかかる陶彫による小品を優先させていました。毎日朝からから夕方まで工房に籠っていますが、漸く春らしい気温になって、作業が楽になりました。その中でも今日は特別で、気温としては初夏を思わせるもので、厚手の作業着での温度調節が大変でした。今週は木曜日に乾燥した4点の陶彫作品に仕上げや化粧掛けを施し、窯に入れました。窯以外のブレーカーを落としてしまったために、金曜日は工房で作業が出来ずに、お彼岸と言うこともあって、家内の両親の墓と私の両親の墓にそれぞれ墓参りをしてきました。こうした先祖を敬う行事に私たちが出かけて行くのは、春と秋に1回ずつです。家内の両親は日蓮宗、私の両親は浄土宗で、顕教が違うことはあるにせよ、仏教そのものにあまり興味のない私は、最低限の宗教行事に関わっているに過ぎません。最近、密教に関する書籍を読んだにも関わらず、それは曼荼羅の視覚的面白さだけで、宗教に目覚めることはありませんでした。金曜日には映画を観てきました。映画「Flow」は米アカデミー賞長編アニメーション賞に輝いていて、ラトビア人の監督による秀作でした。これはCGアニメでしたが、わざと粗くして手触り感を出している動物たちの動画や、背景となる草木の大地や西洋の中世の街並などが大変印象的で、洪水で沈んだ都市はヴェニスのような美しさがあり、水の侵入によって刹那の憂いも感じさせ、私としては大変好感を持ちました。映画館では図録が売り切れていて、物語の背後にあるものや監督やスタッフの苦労話が掴めていないのですが、それでも映画そのものが訴えてくるものがあって、鑑賞後も折に触れて考えさせる内容であったことは間違いありません。
2025.03.21 Friday
昨日、工房で窯入れを行ない、窯以外のブレーカーを落としてしまったので、今日は工房での作業を休みました。昨日のNOTE(ブログ)に書いた通り、今日の午前中は家内の両親と私の両親が眠る墓前にそれぞれ出かけて、お彼岸の花を手向けてきました。家内の両親の墓は西区久保山墓地にあり、私の両親の墓は自宅近くの菩提寺にあります。2ヶ所の墓参りから帰って、昼頃に私は近隣のスポーツ施設で水泳を行ない、夕方になって家内と鴨居のエンターテイメント系映画館で映画「Flow」を観てきました。「Flow」は今年の米アカデミー賞長編アニメーション賞を取った作品で、昨年は宮崎駿監督の作品が受賞したので、「Flow」も観てみようと思ったのでした。本日の朝日新聞夕刊に本作の記事がありました。「セリフ無しの85分。森の中の廃屋で独り暮らしていたネコが、流れてきた船に避難し、イヌやキツネザルやカピバラらと共に水に覆われた世界をゆく。やがて、神殿のような巨大な遺跡が現れてー。~略~人類は滅びたのか?洪水の原因は?神殿で起きる”奇跡”の意味は?あいまいさと謎を残す。『気候変動を連想する人もいるだろうし、洪水=戦争と読み替えることもできる。でも私は〖現代の問題〗とはしたくなかった。あくまでメタファーとして、パーソナルなものとして、このネコの美しい冒険物語へ見る人を連れて行きたかったのです』(ギンツ・ジルバロディス監督の弁)」(小原篤著)ネコをはじめとする様々な動物の動きをよく観察して描いていて、自然にドラマ化ができていることに私は驚きました。何より廃墟となった西洋の構築物の数々が水に浸っている壮大な風景も美しさに溢れていて、背景としては一幅の絵画を見ているような錯覚に陥りました。監督はラトビア人で、バルト三国のひとつからこのような優秀なアニメーション作品が生まれてきたことに、私は嬉しさを感じます。謎として大きかったのは、群れから仲間外れにされた鳥が、乗船の仲間に加わり、さらに廃墟の山上から天に召されていくところでした。死を意味するようにも思えず、そこに神の存在が示されているのかなぁと勝手に思っていました。本作は複雑な問題を投げかけているようにも思えて、観た後で家内と話が弾みました。