2025.04.09 Wednesday
「名画を見る眼 Ⅱ」(高階秀爾著 岩波新書)の次の単元はファン・ゴッホの「アルルの寝室」とゴーギャンの「イア・オラナ・マリア」を取り上げています。まず、ゴッホ。「『アルルの寝室』は、単に彼の住んでいた部屋の記録という以上に、寝室が本来持っている『休息』というイメージを表現するはずのものであった。だが、われわれの眼の前に残されている作品は、必ずしもゴッホのその意図を充分実現しているとは言えない。すでに見たように、一見厳密な法則に従っているようで、実は少しずつどこかずれたり歪んだりしているこの画面からわれわれの受ける印象は、平和な『休息』というよりも、むしろ不気味なまでの不安定さ、落ち着きのなさである。それはとりもなおさず、ゴッホの当時の精神状態を反映していると言ってよいであろう。~略~ゴーギャンがやってくる直前に描かれた『アルルの寝室』の場合も、真の主題は、本来その部屋にいるはずのゴッホ自身であったと言えるかもしれない。少なくともわれわれは、この作品を短い生涯を通じて数多くの自画像を残したゴッホのもうひとつの『自画像』だと考える時、そこに見られる異様なまでの緊張感と白昼夢のような不安定な表現にも、納得させられるのである。」次にゴーギャンです。「これら宗教的幻想絵画は、主題の内容においてすでに印象派と真正面から対立するものであったのみならず、造形表現においても、印象派の手法とは正反対の方向を示していた。事実、絵画的には、戸外の風景のなかの女性立像という同じモティーフを扱いながら、モネの『パラソルをさす女』とこの『イア・オラナ・マリア』ぐらいお互いに異なっている作品を想像するのは、困難である。モネの視点が地上低くに据えられて、主要モティーフである女性像がほとんどその全身を空に浮き上がらせているのに対し、ゴーギャンの人物は、すべて多彩な背景のなかに埋まっているということはすでに指摘した通りだが、そのような構図上の差異のみならず、背景の風景や人物の捉え方がまったく逆になっている。~略~印象派の画家たちにとって『分割』が合言葉であったように、ゴーギャンおよびその仲間の画家たちにとっては、『綜合』が合言葉であった。そして事実、1889年、パリでの万国博覧会の開かれた年、ゴーギャンが中心となってカフェ・ヴォルピーニで開かれたあの記念すべき展覧会は、『印象主義ならびに綜合主義の展覧会』と名乗ったのであった。」今回はここまでにします。
2025.04.08 Tuesday
今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「だから、欠きたいんだよね。完璧なものではなしに 古川三盛」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「庭を一幅の絵のように見せるのが作庭ではなく、庭は『あってないような』ものがいいと庭師は語る。設計図なしに始まる職人らの緻密な作業を間近で観察した美学者・山内朋樹は、庭を作ることでそれまで見えなかった庭の周りや向こうが見えるようになる、そんな庭ができればと、庭師は細部まで詰めずあえて綻びを残したと解す。山内の『庭のかたちが生まれるとき』から。」私は亡父が造園業を営んでいたので、幼いころから庭園に触れることが多く、実家は無造作に庭石が積んであったり、売約済みの植木が何本も仮植えされていたりして、実家の前は庭と呼べるような空間ではなかったものの、庭園を実感することはありました。亡父は職人たちを雇い、公共の公園や個人宅の庭園を数多く手がけていました。庭園は細部を詰めずにあえて綻びを残すと文章にありましたが、確かに公園は人が往来する場所で、そこに癒しを齎せてくれれば、それで充分存在意義があるのだろうと思います。私が20代の頃からやっている彫刻は、ギャラリーなどに展示して、そこに照明を当てて、しっかり鑑賞者に味わっていただくものです。それは細部を詰めていかないと自分では納得できない世界なので、庭園とはかなり違うなぁと思っています。フランスのパリで日本庭園を造っていた彫刻家イサム・ノグチは、日本からやってきた作庭家と空間の見せ方で口論になったと何かで読んだことがありましたが、庭園と彫刻の考え方が大きく異なるのは、亡父の仕事を学生時代に手伝っていた私にはよく理解できます。庭園の「欠きたいんだよね。完璧なものではなしに」というのは、日本人の美意識からくる独特な感性です。茶の湯にしても、芸事にしても、日本人は完璧ではない完成度を求めていて、そこに遊び心と余裕(余白)を感じさせる不思議な魅惑があると思っています。
2025.04.07 Monday
今日は新たにホームページのギャラリーページに「発掘~盤景~」をアップしたので、その告知をしたいと思います。「発掘~盤景~」は2021年に東京銀座のギャラリーせいほうで発表した陶彫による集合彫刻です。厚板材で円形の土台を作り、その上に陶彫部品を配置した作品で、安定した地盤の上に構築された架空都市が、半ば崩壊された状態をイメージしたものです。陶による立体作品は、私の求める質感の関係もあって、古代の出土品のように見えます。そこに近未来的な造形を持ち込んで、疑似風景のような空間演出をしています。カタチあるものはいつか失われるという定説が私の考えを支配していて、それでもその寂寥感の中にも美しさが宿ると私は考えているのです。ホームページのギャラリーページにアップする際に、私はコトバをつけていますが、2021年の制作時には考えられなかった要素が、この作品に加わりました。それは今年になって世界情勢を見取り、安定していたと思われた世界が、実は脆弱であり、今まで保たれていた均衡がいつ崩れてもおかしくないという、甚だ心もとない感覚です。米国トランプ大統領による相互関税の嵐が世界中に吹き荒れています。自由貿易を謳ってきた世界は、まさに終焉となってしまうのでしょうか。ここにきて株価が急落し、世界経済の先行きが不安です。日本は米国に対して報復関税はしない方向のようですが、日本は大波に抗う小舟のような風景が思い浮かんで、あたかも葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」のリアルが私たちを襲っています。現在なお、安定と考えられる世界はどこにあるのでしょうか。さて、今回アップしたホームページの「発掘~盤景~」を見ていただけるなら、まずホームページのギャラリーページをクリックしてください。それぞれの作品の部分画像が出てきますので、円形土台にある陶彫作品にカーソルを当てていただければ、画像が一点ずつ現われます。毎回作品をアップするたびに苦しい言い訳を書いていますが、最後に加えたコトバは実に拙いもので恥ずかしい限りです。それでもご覧になっていただけると幸いと存じます。
2025.04.06 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)に書いていますが、今回は描写について自分が思うところを述べてみます。昨日から新作の平面作品を作り始めていて、板材に鉛筆で全体構成を書いています。平面の作業は久しぶりだったので、鉛筆で全体構成を捉えて描いていく勘を取り戻すのに時間がかかっていますが、学生時代は描写用具を常に携帯していて、折に触れてスケッチをしていました。大学受験に欠かせなかったデッサンの技法もその頃に鍛錬したものでした。現在読んでいる「名画を見る眼 Ⅱ」(高階秀爾著 岩波新書)に、こんな箇所がありました。「西欧の絵画は、二次元の画面に何とかして三次元の現実世界を表現しようという努力を重ねてきた。遠近法とか、明暗とか、肉付法という伝統的な技法は、その写実的表現のために西欧絵画が生み出した武器である。」ここで述べられているのは、私の受験時に会得したデッサンそのもので、その写実技法も結構な描写力を獲得すると、慢心して自分に酔うこともありました。でも、それは自分にとって創作活動でも何でもなく、単なる描写に過ぎないと思い返しました。そこに自分を投影するほどの表現が見いだせれば、具象作家としての道も開けますが、私の場合はあまりにも中途半端で、写実を生かした作品を世に問うことは出来ないと思っていました。日本の美術系の大学受験では描写力を求められるので、高校生の頃から石膏デッサンなり、静物デッサンなりを夢中でやってきたのでしたが、それなりの意義はあったと私は感じています。最近の入試では美術分野も多様化して描写力を必要としないコースもあると聞き及んでいますが、10代の終わりに、対象を見えた通りに描ける力の獲得は、私の場合は彫刻の世界において大変有効だったと考えています。それが例え抽象彫刻であっても、結果としてそういう形態になっただけで、そこまで到達する過程で、デッサンを駆使することは多かったと述懐しています。描写力はあるに越したことはなく、形態の多方向からの捉えを把握するには良い方法だと今でも思っています。
2025.04.05 Saturday
週末になりました。いつものように今週を振り返ります。東京や横浜でも桜の開花時期を迎え、春が愈々やってきた感じですが、寒の戻りもあって、まだ冬物はクリーニングに出せません。工房でも寒い日があり、石油ストーブが必要不可欠になっています。それでも今日は晴天に恵まれ、満開の桜を見るには絶好の一日になりました。今週も陶彫制作を朝から夕方まで取り組んでいましたが、陶彫作品にある程度目途がついたので、平面作品に取り掛かることにしました。平面作品は現行する立体作品とイメージの源泉が同じです。立体作品は床に実家の大黒柱になっていた古木材を横たえて、その両側を陶彫作品で挟んで、陶による橋で古木材を跨ぐ構成になっています。その跨ぐ構造を陶ではなく板材でやろうと思っているのが平面作品です。まず平面作品は同じサイズのものを2点作ろうと考えています。まず縦横120cmの正方形のパネルを作ることにしました。パネルの枠を作る前に、120cmの正方形の大きさを把握することが先で、そこに全体構成を考えていきます。頭の中にはイメージが出来上がっているのですが、細かいところは鉛筆で下書きをしながら最終決定をしていきます。工房の壁に立てかけた板材に鉛筆を走らせていると、久しぶりに平面に挑んでいる自分がいて、慣れない下書きに時間がかかっています。立体作品のように決定打ができず、なかなか筆が進まないのがもどかしいところですが、平面へのアプローチはこんなものだったかと思い返しています。鉛筆による下書きは書いたり消したりできる便利な方法ですが、暫くやっていると次第に退屈な形態になっていくのが分かってきて、時間をおいて、もう一度やり直すことにしました。平面作品は2点同時に進めていきます。この作品には描写はありません。定着を考えて油絵の具を用いますが、平塗にするか、ドリッピングを施すか、絵の具の掠れの効果を使うか、ともかく偶然出来るものでイメージの具現化を狙います。今後折に触れて平面作品に取り組んでいきます。今日はその第一歩になりました。