Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 私にとって平面作品とは…
    日曜日になりました。日曜日は主に創作活動についてNOTE(ブログ)を書いていきます。このところずっと取り組んでいるのは平面作品で、私にとって平面作品とはひとつの視点から鑑賞する作品というざっくりした定義で成り立つ芸術だろうと思っています。勿論そこに絵画も含まれますが、現在私が自己表現の手段にしている彫刻に比べると、絵画は人類の黎明期に遡る歴史を有しています。スペインで発見された先史時代の洞窟壁画は、その最も古い例でしょう。宗教も学問として見れば古い歴史がありますが、それを視覚化して万人に分かるように諭した手段が絵画でした。ルネサンスの時代には西洋絵画が論理的にも技巧的にも完成期を迎え、その後に一般市民が鑑賞できる美術館等の施設が出来てきました。芸術の概念が一般化し、額に入った名画を鑑賞する機会は現在まで続いています。芸術の世界では造形哲学が時代とともに変遷されて、絵画や彫刻という分類に嵌まらない作品が登場してきました。そんな現代アートが全盛になる中、私は自らの表現をあえて平面作品、立体作品と称しています。私にとっての平面作品は、ひとつの視点から眺めやすいように壁に掛けていきます。床に置く作品は立体作品で、立体作品はどこからでも眺められる複数の視点を持ち、しかも周囲の空間をも引き込んで、場としての演出が可能な作品にしています。今年7月にギャラリーで発表する作品は、壁に掛けた平面作品と床に置いた立体作品で構成して、その双方から表現内容を煮詰めていく方法をとるつもりです。その方法のひとつが自分にとって素材の在り方を全面に出していくものです。具体的に言えば炭化した木材を平面、立体双方に使い、その存在感を支えにして世界を展開していくのです。素材の統一は当初のイメージにありました。まず素材ありきで考え出した立体作品がその契機になっていますが、動機がどうであれ、最終帰結としての表現が伝われば、それで良しとしています。
    週末 平面に彩色を施す1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行ないます。今週は新作の平面作品に本腰を入れて取り組みました。120cmの正方形パネルに下塗りを施し、そこに炭化した杉板材をコラージュするのですが、パネルと杉板材の間に僅かな隙間を作り、パネルにはデザインした面に平塗を施すことにしました。そのデザインにかなりの時間を費やしていました。浮かした杉板材の背後に見えるデザインをどうするのか、まずは杉板材には刳り貫いた穴が多くあるのですが、そのデザインに似たものにしようと決めました。毎日工房でそのデザインに取り組みましたが、高校生の頃、工業デザイン科に向けた受験勉強で頑張っていた平面構成を思い出しました。ケント紙にポスターカラーでムラなく平塗を行なっていた頃が懐かしく、当時は自分の色感のなさを嘆いていました。結局私はデザイン科に入学することは諦めて、彫刻に転科してしまいましたが、今になって当時と同じような作業をしているとは何とも不思議です。今回は受験時代のポスターカラーではなく、油絵の具を使っています。以前も油絵の具を使っていましたが、古くなって硬化している絵の具があって、水曜日に溶剤を含めて絵の具を購入してきました。陶彫制作に明け暮れていた自分にとって、絵画用具に手を出すのは新鮮です。平面構成では平塗はこんなふうにやっていたっけ、面の端は面相筆を使っていたなぁと思い出しながら、楽しんで作業をしていました。今週は陶彫作品に貼り付ける印も彫りました。印は自宅のテーブルで行いましたが、1年に1回とは言え、これも久しぶりの作業に新鮮さを感じました。今週は映画館や美術館に足を運ぶこともなく、作業ばかりで終始した1週間でしたが、今月末に図録用の撮影が控えているので、これは仕方がないと思っています。
    「発掘~跨橋~」のメモ書き
    現在制作中の新作に「発掘~跨橋~」というタイトルをつけました。従来の作品はイメージを優先して具現化したものが多かったのですが、「発掘~跨橋~」は、まず素材ありきで制作が始まりました。祖父母や両親が住んでいた実家は、私が生まれる前には藁吹き屋根だったと聞いていますが、それをトタンで補強していたところ、私が小学生だった頃に改築をして瓦屋根になりました。土間にあった台所や五右衛門風呂はなくなっていましたが、旧家らしい雰囲気は残っていました。その実家を解体して集合住宅を建てたのは一昨年のことでした。解体するにあたって旧家を支えてきた大黒柱を私は棄てるにしのばず、業者に頼んで柱を工房に運んでもらいました。これを彫刻作品にしようと私は考えましたが、柱に下手な細工はせずに、そのまま利用することにしました。柱を床に倒して置き、両側を陶彫作品で固め、その陶彫作品を陶による橋で繋ぐイメージが浮かびました。柱には最小限の彫り込みだけを入れました。陶彫の橋で物質を跨ぐ考えは以前からあって、旧作にもその片鱗は出ていました。2017年に発表した「発掘~座標~」がそれで、土台をテーブルにして、その卓上に広がる世界を表現していました。新作の「発掘~跨橋~」の跨ぐ物質は大黒柱ですが、表面は炙って陶彫部品との調和を図ります。私は木材そのものを生のまま利用したこともありましたが、厚板材の場合は砂マチエールを硬化剤で定着させて、油絵の具を染み込ませて利用したこともありました。今回のように表面を炙って煤を擦り落として、年輪を出す方法も過去に試したことがあります。使う木材が嘗てどのように使われ、どんな時を刻んできたか、私にとって造形をする上で重要な一面でもあるのです。加えて今回発表する作品には立体作品の「発掘~跨橋~」だけでなく、壁に掛ける平面作品もあり、その繋がりを考慮して、平面作品にも炙った杉板をコラージュしています。平面作品には物質を跨ぐ要素はありませんが、そこは立体作品と平面作品の方向性を変えています。
    「近代性の追求」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第5章 近代性の追求」について気になったところをピックアップしていきます。まず近代性についての論述がありました。「クールベは、『近代的な美』を主張したロマン派と共通の地盤の上に立っていたということができる。ボードレールが繰り返し主張しているように、1820年代、30年代のロマン派の運動は、理性に対する感受性の優位の主張であり、デッサンに対する色彩の復権の試みであったと同時に、古代に対する近代の挑戦でもあった。『美』というものは、決して永遠不動の絶対的なものではなく、時代によって多様に変りうるものであること、したがって、古代には古代の美学があったように、近代には近代にふさわしい美があること、英雄は古代の伝説や歴史のなかだけに登場するのではなく、近代にも近代の英雄が存在しうること、それが、ボードレールをはじめロマン派を擁護した批評家たちの主張であった。」次にこの時代を代表する2人の画家が登場します。まず、マネ。「落選展に出品された《草上の昼食》は、ごく少数の支持者は別として、圧倒的に多くの人々から激しい非難攻撃を受けた。その非難は、二年後のサロンに《オランピア》が並べられた時、いっそう激越なものとなった。もちろん、マネ以前にも、悪口を言われた画家がいなかったわけではないが、しかし、罵倒されることによって世に知られ、スキャンダルによって歴史を作っていったのは、ほとんどマネがはじめてだと言ってもよい。」次にドガ。「ドガは、そのような『近代的』なテーマを、風俗的な興味から描いたのではない。彼は、複雑な動きを示す踊子や馬や歌手などの形態を追求することによって、人間や動物の身体のメカニズムをいっそう的確に捉えようとした。いわばそれは、形態の真実を追求する科学者の観察であったとも言える。それによって、ドガは、思いがけないポーズや新しい視角を見出し、新鮮な驚きを与えてくれるのである。」ここに続く印象派の登場は、決して突然変異ではなく、先陣を切った画家たちのコンセプトがあればこその潮流であったことがよく分かります。今回はここまでにします。
    「写実主義の擡頭」について
    「近代絵画史(上)」(高階秀爾著 中公新書)の「第4章 写実主義の擡頭」について気になったところをピックアップしていきます。本章では4人の画家が登場します。まず、クールベ。「この時の(1855年)の個展で、クールベは、自ら『レアリスト』(写実主義者)と名のった。『レアリスト』(写実主義)という今日ではごく普通に使われている美術用語が、広く一般に定着するようになるのは、実はこの時からである。『レアリスム』という言葉自体がはじめて登場するのは、1833年のギュスターヴ・プランシュの批評においてであるというが、しかし、30年代、40年代においては、それはまだ、決して一般的な概念ではなかった。それは、クールベという強烈な個性とともに、はじめて歴史のなかに市民権を確立することとなったのである。」2人目はコロー。「画家としての出発は比較的遅く、その活躍の時期は、ほとんど一世代年少のクールベとかなりの部分が重なり合っている。コローが最初からほとんど風景画ばかりに専心するようになるのは、もちろん彼自身のなかに生まれつき自然を愛する抒情詩人が住んでいたからには相違ないが、それと同時に、伝統的なアカデミックな訓練を受ける修業期間を持たなかったということが、やはりある程度まで影響していたようである。」3人目はミレー。「有名な《晩鐘》や《落穂拾い》にはっきり見られるように、彼はある意味で農民たちを理想化してはいるが、1848年のサロンに出品されて彼の名声を決定的なものにした《箕を簸る人》以来、種を播いたり、洗濯したり、子供に食事を与えたりする農民たちの姿は、つねに鋭い観察にもとづいた真実の姿を伝えている。」最後はドーミエ。「彼のその才能は、最初は、風刺新聞の挿絵や石版画などの白黒の世界に発揮され、油絵に移るのは、40歳になってからであるが、しかし挿絵画家時代に養われた鋭い観察眼と驚くべき描写力は、当時の社会に対する強烈な批判精神とともに、油絵の世界にも受け継がれた。」私の彫刻の師匠である池田宗弘先生は、主張する内容がドーミエの世界観に似ていて、真鍮直付けという技法で風刺の効いた作品を作っています。労働に疲れた庶民の姿をジャコメッティのような量感のない姿で表していて、その雰囲気に私は共感していました。ドーミエが身近に感じたのも池田先生のおかげかもしれません。今回はここまでにします。