2025.01.30 Thursday
今月、第47代アメリカ大統領に就任したドナルド・トランプ氏。初日から次々と大統領令を発出し、その物議を醸すやり方に世界中が注目してきました。この人はどういう人物だろうと興味を持ったのは私だけではないはずです。そんな疑問に対し、大統領就任前からとんでもない映画が作られていたことが判明しました。題名の訳は「見習い」というもので、若かったトランプには師匠がいたことを映画は示唆しています。父の不動産業が倒産寸前だったのを救ったのは辣腕弁護士ロイ・コーン。勝つためには人道から外れ、法さえ無視する冷徹な仕事ぶりで、トランプは彼の伝授によって、大事業を成功させていくのです。やがてトランプはコーンを超える怪物へ変貌していき、取引を優位に進めていく現在の姿があるというわけです。本作はドキュメンタリーではなく、あくまでもドラマになっていますが、当のトランプ大統領が、この映画を「安っぽくて政治的に不快な中傷」と評しているのは、どこか本人の嫌なところに触れた部分があり、人の本質は原点に立ち返ることで炙り出されるということでしょうか。監督や主演、脚本家に関することは図録から拾います。「かくも愛され、かくも憎まれるドナルド・トランプは、本当に私たちの認識通りの人間なのか。彼は合衆国の長にふさわしいのか、その職務に適した性質はどこか。アッバシ(監督)とスタン(トランプ役)、脚本家ガブリエル・シャーマンの洞察は、善と悪、支持と反対、保守とリベラルといった二元論への回収をとことん拒否する。そのかわり、人物の本質に限りなく接近し、愛らしさと悲しみを認め、欠陥をさらけ出すのだ。そして、社会や人間のシステムとエラーを問う。”なぜ、この人物に権力を与えることになったのか?”と。」(稲垣貴俊著)私が面白いと感じたのは、本作が大統領就任前に封切られたことです。表現の自由はアメリカの専売特許ですが、アメリカの上映館に妨害や規制はなかったのでしょうか。私は家内を誘って横浜を抜け出し、海老名ビナウォークの映画館まで足を延ばしました。昨日工房で窯入れをして、今日は作業が出来なかったので映画鑑賞に行ったのでした。
2025.01.29 Wednesday
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」の中の単元「不動信仰」について気になった箇所をピックアップします。「日本のホトケのなかで、いちばん人気があるのは誰か。釈迦如来は別格として、観音菩薩(観自在菩薩)と不動明王というのが、まず妥当なところだろう。ことに現世利益となると、この両者以外には考えられない。観音菩薩は、いうまでもなく、慈悲を象徴する。それに対し、不動明王は霊的な力を象徴する。~略~不動明王の日本渡来については、空海が中国から輸入したという見解が、いわば定説となっている。いいかえれば、奈良時代には、不動明王のような強烈な忿怒の相を示すホトケは日本にいなかった。~略~この不動明王を中心に、明王という忿怒の形相をしめすホトケたちに対し、日本密教は独特の教学を築きあげた。それを『教令輪身』という。~略~これほどまでに不動明王に対する信仰が盛んになった背景は、何だったか。その理由はいくつかあろうが、一つには、日本在来の『荒ぶる神』あるいは『荒御霊』が不動明王に重ね合わされたゆえではないか。」歴史から文章を拾います。「平安時代にあって最大の政治的成功者といえば、藤原道長をあげることに異論は少ないにちがいない。その道長は、晩年、みずからが建立した法成寺にあって、現世と来世の二世の幸福を求めた。来世に関しては浄土往生をねがって九体阿弥陀をまつり、現世に関してはさらなる栄達を祈願して不動明王を中心とする五大明王の尊像の前で五人の阿闍梨が同時に修法をおこなう『五壇法』を実践していたのだ。~略~鎌倉時代の後期、元寇という未曽有の危機に遭遇したとき、日本の支配層の人々は、不動明王に怨敵退散を祈願した。このときは仏教寺院において五壇法がとりおこなわれたのはもとより、天皇の命を受けた密教僧が伊勢神宮に参籠して敵国降伏を祈ったり、京都と鎌倉の八幡宮で五壇法が修せられたりと、異例の対策が講じられている。」今回はここまでにします。
2025.01.28 Tuesday
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」の中の単元「真言」について気になった箇所をピックアップします。「密教のことをなんと呼ぶかについては、古来、いくつかの答えがあった。そのうち古代インドでいちばん一般的だった呼び名は、金剛乗(ヴァジュラ・ヤーナ)だった。それに対し、真言乗(マントラ・ヤーナ)や真言道(マントラ・ナヤ)という呼び名もあった。ご存じのように、空海を開祖とする日本の密教宗派は、真言宗と称する。」次にマントラについて。「言葉そのものとしてのマントラは、動詞『マン(考える)』に、後接字『トラ(器)』が付加されたもので、全体では『思考の器』というほどの意味をもつ。このマントラには、他の言葉には見られない特別な性格があった。反復だ。つまり、マントラは数限りなく唱えられたとき、いよいよ絶大な威力を発揮すると考えられた。」次に明呪について。「明呪は、サンスクリットではヴィディヤーという。中国語に翻訳されたとき、その意味をとって明呪と訳出された。この場合、明とは学問的あるいは科学的な智恵の意味であり、呪とは呪法を指す。~略~このことは、古代インドにおいて、学問・科学(技術)と呪法が一体のもので、未分化だった事実を物語っている。」最後に陀羅尼について。「陀羅尼は、サンスクリットの発音ダーラニーをそのまま漢字に写している。心を一定の場所に結びつけること、いいかえれば精神の集中統一という意味をとって、『総持』とか、ただ単に『持』と翻訳されるときもあった。~略~真言・明呪・陀羅尼の発生と展開を概観してきたが、この三者は次第に統合され、統合されることでさらに大きな機能をもつ結果となった。そして、最終的には、密教の根幹をなす最重要のコンセプトへとみごとに変容を遂げたのだった。」本単元の最後に空海の究極の真理が述べられていました。「空海が構想した密教の究極の真理は、自分自身が大日如来なのだ、という認識、いや体得に尽きる。とすれば、肉体を震わせて、いま、真言を唱えているこの自分こそ、もしかしたら、真理そのものを体現していることになるのではないか。」今回はここまでにします。
2025.01.27 Monday
「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」の中の単元「十住心」について気になった箇所をピックアップします。「空海は、心の階梯にまつわる独特の論理を構築した。それが『十住心』である。」具体的に羅列していきます。「➀異生羝羊心(動物のように、本能にのみ支配され、一片の善もない段階)➁愚童持斎心(愚かな童子のように、本能に支配される心に善への志向が兆す段階)➂嬰童無畏心(嬰児が何者も恐れないように、信仰を通して宗教的な安心を見いだす段階)④唯蘊無我心(森羅万象は五蘊、すなわち基本的な構成要素が仮に集まって成立しているにすぎないと悟るものの、五蘊そのものの実在をいまだ疑わない段階)⑤抜業因種心(苦の根本である惑と業の基底に潜む真の原因を除こうと試みる段階)⑥他縁大乗心(絶対の慈悲心を生じて、すべての衆生を救済しようと努める段階)⑦覚心不生心(心とは、一切の限定を離れたものであると悟る段階)⑧一道無為心(森羅万象はあるがままに絶対の真理であることを悟る段階)⑨極無自性心(森羅万象ことごとく固定的な実体をもたず、真理はそこにそのまま顕現していることを悟る段階)⑩秘密荘厳心(みずからの心の根源を完全に明らかにし、あらゆる真理を悟る究竟の段階)」以上が十住心をまとめたものです。さらにこれに関する空海の考え方を述べていきます。「空海の唱える十住心の論理には、じつは別に、もっとずっと本質的な方向性がある。いままで見てきたところでは、九つの宗教思想の上にひとり密教が君臨する構造になる。これを密教の用語では『九顕一密』という。ところが『九顕十密』という言い方も存在する。九顕十密とは、異生羝羊心から極無自性心までの、仏教以前あるいは顕教の段階にも、ほんとうは密教の心の段階にほかならない秘密荘厳心は宿っているとする考え方である。密教の前段階に相当する極無自性心はもちろんのこと、異生羝羊心のように、性欲と食欲といった動物的な本能にまったく支配されて、善行の片鱗も見いだせない段階にあっても、秘密荘厳心は存在する、そう考える。」今回はここまでにします。
2025.01.26 Sunday
日曜日になり、創作活動について書いていきます。今日も朝から夕方まで工房に籠って、古木材の彫り込み加工をやっていました。これは陶彫作品と組み合わせるための作業で、基礎造形と称したらいいのか、陶彫作品をよりよく見せるために行っているものです。絵画で言う支持体または基底材のようであり、そこに芸術的な作為はありませんが、素材を生かす彫刻にとっては大変重要な制作工程です。基礎造形はイメージを具現化するために素材を大まかに整えることです。新作の基礎造形は、まず木材を凹形に彫り込んでいく作業です。これには木彫としての表現はありません。ただいくつかの凹形を木材に刻むことだけなので、それだけでは当然作品にはなりません。ただし、新作で狙っているのは、この古木材そのものの存在感にあります。旧家の大黒柱として幾星霜にも耐えてきた古木材の迫力ある空気感は、下手な作為を拒絶してくれるだけの雰囲気が漂っています。この大黒柱を中心に据えて、両側に陶彫作品を置き、陶彫作品同士を陶の橋で繋ぐというのが当初のイメージなのです。両側を固める陶彫作品は既に出来上がっています。陶彫作品同士を繋ぐ橋の長さをどうするのか、これは古木材にどのくらいの彫り込みを入れるかで決定するので、今はそのための基礎造形を行なっているというわけです。4本ある古木材のうち3本まで彫り込みが終わりました。基礎造形とは言え、久しぶりに幅広の鑿を振るっているのは、なかなか疲れるもので、ちょいちょい休憩を取ってしまうのは加齢のせいでしょうか。作業にカーヴィングの面白さはありませんが、それでも彫り進んでいくと、彫刻的な興味関心が湧いてくるのは不思議なものです。毎日木屑を掃き集め、ごみ袋に入れていると、木彫だけで作品化していた昔を思い出します。