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  • 「密教と顕教」について
    「密教」(正木晃著 筑摩書房)の「第二章 キーワードで考える日本密教」に入ります。その中の最初の単元「密教と顕教」について気になった箇所をピックアップします。密教と顕教は空海によって二項対立としていました。顕教とは、真言宗と天台宗の一部「天台密教」を除く多宗派全てのことを指しています。ということは私が先祖から拝んでいる浄土教は顕教になるわけです。「密教と顕教という二項対立に使われるときに限っては、顕教の顕は『表面的な』とか『皮相な』という意味として使われている。さらに説明を加えれば、誰の目にも『あきらかな』ゆえに、『表面的な』とか『皮相な』という意味になる。現代の社会であれば、誰の目にも『あきらかな』ことはとても良いことなのだが、こと伝統的な宗教の世界では、誰の目にも『あきらかな』ことは『表面的』で『皮相な』ことになってしまう。その根底には、真理がそう簡単に誰の目にもあきらかになるはずがないという発想が横たわっている。」さらに空海は「弁顕密二教論」の中で次のように述べています。「まず、顕教は、ホトケが相手の素質に応じて説いた教えである。いいかえると、素質に乏しい者でも理解できるように、簡略化してある。対して、密教は、ホトケが自分と同じ素質をもつ者を対象に説いた教えである。つまり、真理そのものにほかならない。~略~また、密教と顕教では、悟りに至る具体的な方法にも大きな差がある、と密教は主張した。というより、密教にいわせれば、顕教には悟りに至る具体的な方法がないに等しい。空海はこう語る。『顕教の浅い教えは、《太素》とか《本草》などの医薬書を引用して、この病気にはこの薬が効くというふうに、薬の効能をいい立てるだけのようなものである。密教の秘法は、処方箋によって薬を調合し、実際に病を治すようなものである。』(『性霊集補闕鈔』巻第九「宮中真言院の正月の御修法の奏状」)ようするに、顕教は理屈だけだが、密教はすこぶる実践的という主張である。」今回はここまでにします。
    週末 叔父の一周忌
    今日は家内の叔父であり声楽家だった下野昇の一周忌の法要がありました。叔父は昨年2月1日に葬儀をしていました。その時のNOTE(ブログ)を引用いたします。「叔父は声楽家で昨年の4月にはテノール・リサイタルを横浜で開いています。叔父は家内の叔母と結婚した人で、佐賀県に生まれ、東京藝大声楽科を卒業、ウィーンに留学しています。帰国後は二期会に所属し、さまざまなオペラの主役をやってきました。劇団四季のミュージカル『CATS』にも出演し、私たちはその都度観劇に行っています。私たちがウィーン滞在時に、師匠にレッスンをつけてもらうために、叔父は単身ウィーンにやってきたこともありました。家内と付き合い始めてからずっと私は、叔父が親戚になったことで力強い理解者を得たと言ってよく、私の彫刻をも購入してくれました。そんな叔父でしたが、寄る年波には勝てず、ついに享年88歳で逝去してしまいました。告別式は音楽葬とも言えるもので、叔父が最後の舞台でソプラノ歌手と歌った歌曲を、叔父の歌は録音で、ソプラノの女流声楽家がそこに合わせる趣向を行いました。これには多くの参列者の涙を誘いました。」私としては特別な親戚として叔父に接していました。私の身近に自己表現者がいるというのは何という幸福なことかと思っていました。私が家内と付き合っていた頃、オペラ「カルメン」を家内と一緒に東京文化会館に観に行き、そこで準主役をやっていた叔父になる人と、指揮をやっていた小澤征爾氏を、家内と楽屋に訪ねていったのを今でも印象深く覚えています。因みに小澤征爾氏も昨年他界しています。叔父と同じ年齢だったようです。今回の一周忌は親類だけの法要でしたが、久しぶりの再会に心が休まりました。こうした法要は故人を偲びながら、生きている私たちのために行うものだろうと私は思っています。
    週末 鑑賞が充実していた1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は主に新作の古木材加工をやっていました。古木材は実家の大黒柱に使われていた材木で、実家を解体する時に業者が150cm程度に切断してくれて、それが4本あります。その4本の古木材に凹型の彫り込みを入れ、そこに陶彫作品を配置する予定です。陶彫作品同士は古木材を間に挟んで、陶による橋で繋ごうと思っています。橋の長さは古木材の太さによるもので、凹型の彫り込みを入れることで、その間隔を割り出せるのです。今週はまず2本の古木材に小型チェンソーや鑿を使って彫り込みを入れました。どの陶彫作品を組み合わせるかも検討しました。私は厳密な全体構成は考えず、その都度出来上がった陶彫作品を見て判断しています。古木材を加工している間は、陶彫の制作サイクルを休止しています。それもあって美術館に鑑賞に出かけられる時間も確保できました。今週は2つの展覧会に出かけました。ひとつは水曜日に行った「イコンにであう」展で、玉川大学教育博物館で開催されていました。久しぶりにキリスト教の宗教画に触れました。日本で見るイコンと欧州で見たイコンでは印象が違っていました。私の意識が違っていたことに要因があったのですが、金曜日に出かけた国立西洋美術館で開催されている「モネ 睡蓮のとき」展では、異文化に触れた気がしませんでした。印象派の巨匠の作品は、私の中では既知のもので、それが何の衒いもなく自然に目に入ってきたのではないかと思っています。同じ異文化のものでも自分が咀嚼できているか否かで、こんなにも差があるのかと改めて思った次第です。今週は鑑賞が充実していました。イコンにしても印象派にしても私は内面に働きかけてくる良質な文化を感じ取っていました。自分の作品だけ見つめていると、私は発想が狭くなり雁字搦めになってしまう傾向があります。視野を広げる工夫が今後も必要かなぁと思っています。
    上野の「モネ 睡蓮のとき」展
    テレビのアート情報番組で最近よく取り上げられている印象派のモネ。国立西洋美術館では結構気合を入れて各地から集めてきたであろうモネの作品が展示されているのを目にして、そろそろ行ってみるかと思い立ちました。今日の午前中は工房で新作の古木材加工をやっていて、午後から家内と東京上野まで出かけて行きました。モネの茫洋とした微妙な色彩は、日本人好みでもあるので、「モネ 睡蓮のとき」展は平日にも関わらず、入場券売り場の外まで列ができているような混雑ぶりでした。力作が並ぶ展示室に立つと、テレビでは伝わらないオリジナル絵画の生々しい筆致があって、その色彩のさざ波に我を忘れました。旧知ながらモネと印象派の繋がりを図録より拾います。「モネはとりわけ、『印象派』という言葉が生まれるきっかけとなった第1回の美術展に、《印象、日の出》をもって参加している。1874年4月15日、画家たちのグループが、かつて写真家ナダールが使用していたパリのアトリエを会場に展覧会を開催する。~略~これらの画家たちが目指したのは、アカデミックな伝統を守るパリの大規模な官展、『サロン』の規範からの解放である。」やがてモネが睡蓮の連作に取り組む契機になった庭が登場します。「1893年2月5日、隣町のヴェルノンで、モネは自宅敷地の南側、リュ川と線路の間に位置する土地の購入証書に署名する。この土地を購入したことで、水の庭という夢が実現するのだ。モネはこの土地に池を造成し、そこに日本美術を意識した橋を架ける。1870年代から日本の版画を収集していたこともあり、日本美術を高く評価していたのである。」(シルヴィ・カルリエ著)本展はとりわけモネの睡蓮の連作に主眼が置かれていて、そこに垂れ下がる木々や植物も堪能することができました。一緒に行った家内がモネの立体感覚や空間性に着目していて、私もそこが今まで見慣れていたモネの作品に、新しい視点を見いだしたところでもあり、かなり気分が揚がりました。20代の頃、鑑賞者をぐるりと取り囲んだモネの大作をパリで見たことを思い出しました。
    「第46回如月展」出品について
    昨年から私は横浜市中学校退職校長会(清交会)を母体にしたグループ展に参加しています。校長を退職して3年、人づき合いも少なくなり、昔の仲間と会うこともなくなってきました。7月にある東京銀座ギャラリーせいほうの個展に向けて、毎日必死に制作を続けていますが、それとは別に先輩の校長諸氏に昨年お願いされて、地元横浜で開催されている「如月展」に出すことにしたのでした。この機会に私と同期の退職校長も誘いました。同期の退職校長は大きな書展に出品しているので声をかけてみたら、彼も出品してくれることになりました。「如月展」の課題は高齢化と美術部門の出品者が少なくなっていることです。元々美術科校長が少ないので、こればかりは清交会の縛りを外さなければ、美術部門の出品者は増えません。横浜市立中学校は現在146校 (義務教育学校3校含む)ありますが、私の在任していた頃から美術科校長は私一人で、現在も美術科校長は一人だけです。「如月展」は油彩、水彩、彫刻、写真、民芸、刺繡絵、書道と幅広い分野で出品を依頼していますが、美術部門だけでは参加者が集まらない台所事情も頷けます。それでも46回(46年間)まで続いたグループ展は稀な存在です。私が教職に就く前からやっていたわけですから、今までさまざまな人が参加していたのでしょう。今回の私の出品作品は「発掘~墳構~A」と「発掘~墳構~B」と名づけた小品です。これは小さなテーブル彫刻で、2007年に発表した「発掘~円墳~」と「発掘~地下遺構~」の雛型を作った際に、その発展形として暫く経った後で作ったものです。ですからこれは雛型ではなく、このスケールで表現した集合彫刻なのです。「如月展」には過去の作品ばかり出品していますが、毎年ギャラリーせいほうの個展に向けて、新作を一心不乱に作り続けている私には余裕が持てず、こればかりはご容赦願うしかありません。