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  • 西洋の没落「世界史の問題」そのⅡ
    現在読書中の「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の中で「そのⅡ」とした箇所の副題は「運命理念と因果法則と」です。世界史の捉えとして、自分が留意したところは空間と時間の関係が述べられているところですが、時間計測に関わる一文が印象的に残りました。「時間が方向づけられていること、二度と戻ってこないこと、生きていること、これらは歴史的世界像の意味として現れる。運命と因果関係との関係は、時間と空間との関係である。こうして二つの可能な世界形式を、すなわち歴史と自然とを、あらゆる成ることの観相学とあらゆる成ったことの体系とを、支配しているものは運命であるか、そうでなければ因果関係である。」「今までまるで理解されなかったこういう徴候の一つとして、前に時計のことをいった。これこそ高度に発達した文化の一創造であって、これは考えれば考えるほどいよいよ神秘なものとなる創造である。ギリシャ・ローマ人はそれのないことを知っていた。しかもそれはわざとではなかった。彼らは一日の時間を計るのに、アウグスツス時代からずっと後になっても、自己の身体の影の長さで計っていた。しかも彼らより古いエジプトの魂とバビュロンの魂との二つの世界の中では、厳密な時間測定について、また過去と未来とに対する深い洞察について、日時計と水時計とが毎日使われていた。しかしギリシャ・ローマ的な現存在は、エウクレイデス的であり、関係的ではなく、点状であるから、現在という瞬間のなかにまったく含まれていた。どんなものも、過去と未来とを思い出させてはならなかった。純粋のギリシャ・ローマには考古学がなかったし、同様にその精神的な置き換えである占星学もなかった。」これら長い引用は、全体を通すと部分的なものに過ぎませんが、様々な熟考を網羅する本書では、自分が気に留めた箇所の紹介だけに留めたいと思います。これをもってまとめに代えさせていただきます。
    週末 成形に明け暮れる
    今日は朝から工房に篭って、新作陶彫の成形に明け暮れました。今日までで成形の終わった陶彫部品は7つあります。そのうち一番大きな陶彫部品には加飾を行いました。新作屏風三双(6点)のうち1点目の陶彫部品の成形がほぼ済んだところで、それらを配置して全体を確かめました。陶彫は乾燥させ焼成すると、成形したばかりの作品より1割程度小さくなります。常に縮小することを考慮して全体を確かめなければなりません。制作の初めの一歩としてはまずまずの出来かなぁと思いますが、ただし陶彫は焼成してみないと何とも言えません。今回は生物的なイメージがあるので昆虫が這ったようなカタチです。土の中で蠢く状態を作ろうとしています。案外陶彫には適したカタチなのかもしれません。RECORDも今月は「表層」というテーマで作っているので、陶彫とよくマッチしています。
    週末 アフリカの仮面
    やっと週末になり、朝から工房に出かけて新作のためにタタラを用意していました。明日は成形の予定です。午後は家内と横浜駅に出かけました。来週父の七回忌があるので横浜のデパートに寸志を選びに行ったのです。帰りがけにアフリカ雑貨の店を覗き、アフリカの仮面を2つ買い求めました。アフリカ雑貨の店は、自分の職場からさほど遠くないところにあり、いつも銀行に行く途中で立ち止まって注目していました。ウィンドゥ越しにアフリカの木彫や泥染めの布が見えていて一度入ってみたいなぁと思っていたのです。店主はガーナ人で今日は不在だと店の女性が言っていました。なるほど店にはガーナのものが多くありました。自分はひと目でナイジェリアの白い顔をした仮面が気に入りました。「これは本物で、人によっては気にする人がいますが,大丈夫ですか?」と店の女性が言っていましたが、どんな儀式に使われたものであれ、造形的に面白ければ自分は気にならないと言って、近くにあったガーナの動物の仮面と一緒に購入しました。アフリカの仮面は、20世紀初めにピカソやモディリアーニによって現代美術の在るべき方向性として取り入れられ、その独特な造形が原始的な生命感を謳い上げていることにシュルレアリスムの作家たちも一目置いていました。自分もアフリカの仮面に造形的な刺激を受けます。地域性やそこに住まう人々の集団としての呪術的要素が漂い、人間の豊かな営みを感じることがあります。仮面は、自分にとって骨董や商品価値としての認識はなく、純粋に生命感溢れる造形を欲する素直な心情に裏打ちされたコレクションなのです。
    陶彫成形の難しさ
    昨日のNOTE(ブログ)に陶彫成形についての雑感を書きました。雑感の中で大まかなイメージで作り始めることを決めた陶彫ですが、それでも成形の難しさは何年やっても変わらず四苦八苦しています。陶彫は陶土を板状に伸ばしたタタラや紐作りという手わざで成形をしていきます。これは陶芸として考えるなら基礎基本を踏まえた原始的な成形方法です。自分の陶彫は電動ロクロは使用しません。手回しロクロは彫刻塑造の回転台の代わりとして使っているので、ロクロとしての本来の役割では使っていません。陶彫は高温焼成には難しい形態もあって、ヒビ割れや変形も頻繁にあります。窯を開けた時にきちんと焼成されていると炎の神に感謝したい気持ちになります。心がけていることは、土練りの段階から常に基本に忠実に、成形は厚みを整え、乾燥でヒビが入りそうな箇所に補強をしておく等々いろいろありますが、それでも駄目な時は駄目なのです。難しいからこそ面白い、窯入れの畏怖と窯出しの感謝の気持ちは、じっと自己を振り返り、また見つめる機会でもあります。ちょっぴり精神主義かなぁと思いつつ週末の明日は成形に励んでいる予定です。
    陶彫成形に関する雑感
    新作屏風を作り始めて感じたことを書きます。NOTE(ブログ)はHPとして公開していますが、それを承知で自分のメモで使っていることが結構あります。今回は制作の裏事情ですが、自分の備忘録として記そうと考えました。新作屏風は原寸大の下書きを作っています。それを基に陶彫と木彫の組み合わせを計画していますが、陶彫の成形をしていて、どうも計画通りにやっていくとつまらない形態になってしまうのです。それは私の主観によるものですが、旧作でここまで下書きに拘ったことがなかったので、そう感じてしまうのかもしれません。陶彫の場合は大まかなイメージで作り始めて、ある程度成形が進んだところで、全体の調整のためにいくつかの陶彫部品を加えていました。むしろ今までの雑駁なやり方が良かったのではないかと改めて思いました。陶土のもつ面取りの意外性や直観的なニュアンスが自分にとって陶彫を面白くする術なのかもしれません。次から新作屏風も下書きに拘らず今まで通りのイメージで陶彫を作っていこうと考えました。