2012.06.26 Tuesday
現在制作中の新作屏風に接着する陶彫部品には、渦巻きの彫りこみ加飾をしています。渦巻きは自分のイメージに再三現れてきます。内から外へ、または外から内へ導く動きが渦巻きにはあって、カタチに緊張感を持たせつつ様々な展開を可能にする要素があります。渦巻きといえば葛飾北斎の「男浪」と「女浪」という大作があります。前に長野県小布施に「男浪」「女浪」を見に行って感動を覚えました。表題にある渦巻く陶彫のイメージというのは、現在制作中の加飾による渦巻き模様のことではなくて、陶彫部品そのものを渦巻き状に床に配置する作品のことを言っています。これは再来年に続くイメージです。渦巻きは均整のとれたものではなく、渦巻く途中で崩壊し再生する際どい部分を構成していきます。集合彫刻として陶彫部品を連結して渦巻きを表現するのは、きっと面白いのではないかと想像しています。画廊など展示場所の大きさによって作品サイズを自由に変えられることもあります。素材が陶彫だけなら野外展示も可能です。今後も始原的なイメージを大切にしていきたいと思います。
2012.06.25 Monday
どこか身体が痛むわけではなく、何となく全身がフワフワした状態の一日でした。出勤中の読書にも手がつけられず、思考が止まったような感じでした。今日は朝だけ職場に出勤した後、出張が3つあって結局夜7時まで会議に出ていました。この体調不良は疲労によるものか病気によるものか見当がつきませんが、今日は複雑な書類処理がなかったことだけがラッキーでした。出張の移動中に横浜鶴見駅に近い総持寺を通過しました。その折、石原裕次郎の立派な墓を見ました。絶やすことなく美しい生花が添えられていたことがスターの面影を偲ばせました。夜帰宅したら体調は元に戻っていましたが、今日は早めに床につくことにしました。
2012.06.24 Sunday
先日は三双屏風の梱包を行いました。今日は新作制作を休んで、来月個展に出品する陶彫部品の梱包を行いました。屏風はエアキャップで包んでシートで覆いましたが、陶彫部品は例年木箱を作って、数点ずつ木箱に収納しています。木箱を作る理由は前にNOTE(ブログ)に書きましたが、長く保存するための作品管理によるものです。かつてはダンボールに陶彫部品を収納していましたが、ダンボールを積んでおくと重さで箱が変形し、収納してある作品に支障がでる恐れがあったのです。そこで全ての陶彫部品の収納を木箱に代えようとしています。今まで制作の合間に木箱を作っていたので、まだ全ての作品が収納しきれていない現状があります。そこで新作の搬入には必ず木箱を用意することにしたのです。ベニア板を切断し、場合によっては垂木で斜交いを作ることがありますが、今回は大きな部品が無いためベニア板だけの木箱にしました。これはほぼ一日がかりでした。夕方に梱包が終わり、ようやく個展に向けた準備が整いました。
2012.06.23 Saturday
このところ休日出勤や法事があって、週末の制作が滞っていました。ウィークディの夜の時間帯に工房に出かけ、コツコツ作業を進めていましたが、やはりまとまった時間が取れないと制作は思うように進みません。今日は久しぶりに朝から夕方まで工房に篭って作業が出来ました。新作の陶彫成形した部品に加飾を施していますが、今日は現在まで成形した部品に全て加飾を終わらせることが出来ました。全部で8つあります。これら部品はこれから乾燥させていきます。午後は次なる部品を作るために土練りを始めました。土練りは2つの陶土の割合を決めて混ぜ合わせていきますが、陶土は生きていると自分は思っていて、長く放置しないためにも使う分だけ土練りをすることにしています。時間がいっぱいあった時期は、土錬機を回し続けて大量に陶土を準備していましたが、今ではそういうわけにはいきません。新作である三双屏風(6点)のうち1点ずつ陶彫部品を作り上げていく工程を考えていて、今日の午前中に乾燥に入った部品は1点目に使う部品です。午後の土練りはこれから作る部品は2点目に使います。時間差があったほうが窯入れも容易です。1点目の焼成を待って木彫もスタートしていくので、これから延々と長い工程が続きます。このサイクルが自分にはとても快感で、焦らず休まず継続していく状況は自分の性格に合っていると思います。明日もやります。
2012.06.22 Friday
通勤中に「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)を読んでいます。今回読んだ「大宇宙」の副題は「アポルロン的な魂、ファウスト的な魂、マギ的な魂」です。この3つの魂を定義している箇所を選ぶと「感覚的に現存している個体を拡がりの理想形としたギリシャ・ローマ文化の魂」をアポルロン的魂と呼び、「限界のない純粋空間であり、その『体躯』は十世紀のロマネスク様式の発生とともに、エルベ川とターホ川との間の北方平原に栄えた西洋文化」をファウスト的魂、また「アウグスツス時代に、チグリス川とナイル川との間、黒海と南アラビアとの間の地方に、目覚めたアラビア文化」をマギ的魂としています。これらを芸術分野やとりわけ建築に見られる様式移行等を使って対比させているのが本論の主なるところです。長くなりますが、気に留めた箇所を引用いたします。「模倣の最高の可能性は、音であろうと、詩句であろうと、絵であろうと、また演ぜられた舞台であろうと、みな一つの運命の模倣である。ところが装飾は時間を避けたもので、純粋な、固まった、残ったままの広がりである。模倣は自己完成することによって、何かを表現しているのに、装飾はできあがったものとして、感覚の前に現れることだけで、それができるのである。装飾はその起源がどうであろうと、それには関係がなく、ただ『あるもの』それ自身だけなのである。どんな模倣にもみな初めと終わりとがある。装飾には永続があるだけである。」「文明が始まると純粋な装飾は消滅し、それとともに大きな芸術一般が消滅した。過渡期を作るものは、どんな文化においても何かの形をした『古典主義とロマン主義』とである。古典主義とはもはや古臭くなり、魂の抜けた装飾ー規則、法則、様式ーに対する心酔を意味し、ロマン主義とは熱狂的な模倣のことである。ー生命の模倣ではなく、以前の模倣の模倣である。建築様式のかわりに建築趣味がある。絵画の方法、文学上のマンネリズム、新しい、また古い形式、自国的な、また外国的な形式が流行とともに移り変わる。内容必然が欠けている。めいめいがその好きなように、好きなところに主題を選ぶので、もはや何の『派』もない。芸術は工芸美術となる。」文化の没落を描いた箇所ですが、現代に通じるものを感じました。