Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 休日出勤のイベント
    週末ですが今日は休日出勤でした。全職員の関わる大きなイベントがありました。自分は何回か職場を転勤してきていますが、どこでも大きなイベントが年間数回はあります。全職員の協力する場面は、どこの職場にもあります。現在、自分が勤務している職場でも協力体制が培われていました。今日のイベントは野外で行ったため朝から天候を心配しましたが、多少の雨でも決行しました。イベントの最中は雨が止み、いい具合にイベントを進行することができました。今日出勤日だった関係で月曜日は代休になります。ちょうど師匠の池田宗弘先生がギャラリーせいほうで個展をしているので、月曜日はそれを見るついでに自分の個展の図録や案内状をギャラリーせいほうに届けに行こうと思います。
    12‘図録印刷完成の日
    今日、図録と案内状が届きました。作品制作だけではなく図録や案内状はカメラマンとの協働作業なので、図録では自分の作品が自分のものでないようなヨソ行きの顔をしています。これは格別に楽しいと感じます。図録の重要性は、前にNOTE(ブログ)に書いたことがありますが、自分の作品は組み立てを必要とする集合彫刻なので、展覧会しか作品を見せられないことや、大きな作品は自分一人では組み立てられないこと等あって、完成作品の確認は図録でしか出来ないのです。ただし、図録はデジタル画像としての演出をしています。これは単なる記録写真ではありません。意図を持ったデジタル作品なのです。出来上がったばかりの図録を見て思い出すことがあります。30年前にオーストリアで暮らしていた頃、ウィーン国立美術アカデミーのハウズナー教室の学生が、自作の幻想絵画を描いては撮影し、また描いては撮影する行為を繰り返していました。彼はオリジナルな絵画よりも撮影された画像を気にしていて、画像をよく見せるため、どこに筆入れをするかを検討していました。本末転倒な制作ぶりに自分は面喰いましたが、図録や案内状は多くの人の目に触れるため本物以上に大切なんだと彼は主張していました。それもわかる気がしますが、当時同じ20代だった自分は彼の商業戦略に隔たりを感じていました。現在の自分の図録や案内状を見ると、事情は多少違いますが、同じような戦略で作っていることに改めて気がつきました。ただし、自分はオリジナル作品あっての図録と考えます。図録をよく見せるためオリジナル作品を細工することはしていません。
    西洋の没落「大宇宙」そのⅠ
    通勤中に「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)を読んでいます。本書は壮大な論文なので、小単元ごとにまとめを行っています。自分の理解・認識として自分は毎回NOTE(ブログ)を使って、単元のねらいとする箇所を選び、また留意したところを書き出しているのです。今回読んだ「大宇宙」の副題は「世界像の象徴的意義と空間問題と」です。ここでは世界史の思想的捉えとして全てを包括する象徴主義理念が述べられています。「多数の根源象徴がある。深さの体験を通じて世界が成り、知覚が世界に広がる。この深さの体験は、自己の属している魂にとって意味を持ち、しかもその魂にとってだけ意味がある。その意味は覚醒している時と夢の中とでちがい、忍従の時と観察の時とでちがい、子供と老人、都会人と田舎者、男と女とでちがっている。そうしてそれはどの高い文化のためにも、その文化の基礎である形式の可能性を実現させるのであるが、それは最も深い必然に基づいているのである。質量、本体、物質、事物、物体、広がりのようなあらゆる根源語、それから同じく他の諸文化の言語のなかに保有されている無数の同種の言語記号は、運命によって定められた選択の許されない記号である。この記号こそ世界可能性の無限の豊富さのなかから、個々の文化の名にとって唯一の意味があるもので、そのためにこそ必然的な可能性を引き出すのである。どんな記号も、他の文化を体験し、認識する時には、正確に翻訳することができない。こういう根源語はどれも決してもう一度戻ってはこない。一つの文化の魂がその土地で自己意識に目覚める瞬間、その瞬間における根源象徴の選択は世界をそういうふうに観ることのできる誰にとっても、心を揺り動かせるものを持っている。すべてを決定するものはこの根源象徴の選択である。」
    暮らしの中の造形
    20代の頃、5年間の滞欧生活で感じたことは、暮らしの中に取り入れられた造形全般が、生活を豊かにし、心に余裕を与えてくれることでした。それは西洋伝統の空間装飾に限らず、現代的な生活にも当てはまり、とりわけ当時訪ねたオーストリア人彫刻家宅の真っ新な住居空間には感動すら覚えました。自分の生育文化を考えるに、暮らしの中に取り入れたい造形はどんなものか、帰国後に思いを巡らせました。大正末期に興った柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎らの民芸運動に注目したのはそんなことが契機になっています。同じ時期に栃木県益子に出かけ、濱田庄司の陶芸の美しさに魅せられました。陶芸は海外にいた時から彫刻の材料にしたいと考えていたので、その素材感をまず自分の生活に取り入れようとしました。あの頃買い求めた器の釉薬の流れが、J・ポロックやS・フランシス等のアメリカ人現代画家の作品を彷彿とさせると感じました。自宅の家具も飛騨で作られているものを買い求め、費用が嵩むのを承知で、少しでも暮らしの中に気に入った造形を取り入れようとしました。しかしながら民芸調の家を建てるのには経済的に無理があって諦めざるを得ないこともありました。今でも益子あたりにある石造の蔵を見ると何とも言えない良い気持ちになります。暮らしを造形的に豊かにする努力、これは生涯続けていきたいものです。美を追求するなら作品だけでなく自分の身の回りにも気を配りたいと思います。
    夜の加飾作業
    先週は2回ほど職場帰りに工房に立ち寄りました。RECORDの彩色が主な作業でしたが、今週は成形が終わっている陶彫部品に加飾をしたいと思っています。夜の時間帯は身体の疲労度にもよりますが、気持ちが集中できるのです。成形した面に彫りこみをするのは静まり返った夜が適していると感じます。全体を大きく捉えるのは昼間の光の中で行うのが都合がよく、部分の細かな彫りは夜の照明の中で行うのがよいと思っています。そうした昼夜の場面で調整ができると最高ですが、精神力の維持という点で難しいこともあります。彫りこみの加飾は、立体を把握する彫刻的なものではありません。表面を眼で追いながら浮彫りの加減を見て、成形されたカタチにさらなる緊張感が生まれるようにしていきたいのです。加飾されたところが全体の調和の中で生きるように成形された面に何度もデッサンを繰り返します。ある意味では加飾が一番面白いと感じられるところです。今晩は夜の時間帯に工房へ行ってきました。先日成形を終えた部品をひとつだけ取り出して加飾を行いました。毎晩これが出来たらいいのに…と思いつつ充実した時間を過ごしました。