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  • 三連休 20点目の陶彫成形&加飾
    三連休の中日です。今日も好天に恵まれて工房周辺の木々が美しく紅葉しています。新作の陶彫制作は20点目に入りました。既に焼成が終わっている陶彫部品も10点あります。午前中は新しい陶彫部品の成形を行い、午後は成形が終わって多少乾燥している陶彫部品に彫り込み加飾を施しました。制作サイクルは順調に回っていて、私は疲労の残る身体に鞭打ちながら制作を進めていました。昨日から新作の土台について考えていますが、三連休は陶彫制作を優先した方がいいように思えています。このペースでもう少し様子を見たいと思っているのです。明日は窯入れを考えています。土台を考えるのは来週末か、来月に回そうと思います。年末の休庁期間に土台を中心に制作を進めようと決めました。木材を彫り始めたり、切断したりすると、気持ちは陶彫制作から離れます。まだその時期ではないと思っていて、逸る気持ちを抑えることにしました。今日は美大受験生が一人工房に現れました。彼女は丁寧に平面構成をやっていました。面相筆の使い方が少しずつ上達していて、きちんと彩色が出来ていました。私も高校生の頃は工業デザインをやりたくて、受験用の平面構成をやっていました。彼女の作業を見ていると懐かしい思いに駆られました。美術系の学校はノウハウを教えてくれる半面、弊害もありますが、私のような基本の積み重ねを必要とする人は、学校で学んだことが大変重宝しています。とくに彫刻は、設備の整った工房で4年間制作出来たことが幸福なことだったと思っています。そこで師匠から学校には長く留まるなと言われ、早く独立して彫刻が続けられるような環境を手に入れろと諭されました。そこから二足の草鞋生活がスタートしましたが、今思えばこれが正解だったと感じています。当時、助手をやっている人が羨ましく見えましたが、学校に頼らない自分の生き方は、創作活動を一生続けていくには必要不可欠なものだったと思っています。そんな自分の原点は、美大受験生を今も世話しているからこそ忘れないでいられるのです。明日も制作続行です。
    三連休は陶彫一辺倒?
    今日から三連休が始まりました。新型コロナウイルス感染症が再び広がりを見せ、外出自粛が叫ばれています。私は相変わらず工房へ行き、陶彫制作に明け暮れていました。土練り、タタラの準備をして、成形の終わった陶彫部品に彫り込み加飾をするのが、土曜日の定番になっています。ウィークディの疲れがあって、土曜日は身体が思うように動かず、制作工程のノルマを果たすのがやっとの状態です。それでも良い気候の中で精神的には解放されて、心地よい時間を過ごしました。亡父の残してくれた植木畑の手入れをするため、親戚の職人がやってきたり、近隣に住む人が散歩の途中に工房に立ち寄ってくれたり、ちょっとした休憩時間には人とおしゃべりをする機会もありました。さて、今日から始まった三連休ですが、一応制作目標を立ててみることにしました。陶彫制作では2点の成形が可能だろうと思っていますが、そろそろ土台の木材にも手をつけていかなければならないかなぁと思っていて、時間的な余裕があれば、土台の制作に乗り出すつもりです。焼成が終わった陶彫部品も増えてきて、先日切断した数枚の木材の上に陶彫部品を置いて、全体の構成を確認する必要を感じています。新作の土台は木材を円形に配置する計画でいます。円形は鋭角を持つ二等辺三角形を組み合わせて構成しますが、ひとつひとつの三角形は厚みをつけていこうとしています。木材加工が始まれば、陶彫制作は暫く休みになるため、その前に陶彫制作は出来るだけ作っておきたいと思っているのです。この三連休はあまり欲張らずに陶彫一辺倒でいくか、あるいは土台まで手を伸ばすか、陶彫の制作状況を見ながら判断していきます。今週は毎晩工房に通っていました。気候が良くなったことと彫り込み加飾をウィークディの夜の制作に充てたことで、制作工程に弾みをつけました。夜の制作は1時間程度でしたが、それでも彫り込み加飾は先に進みました。さらに自宅に戻ってRECORDをやっていくのは時間的に厳しいと感じましたが、おかげでRECORDは日々の制作に追いついていっている状態です。明日は成形を頑張ります。
    「Ⅵ インタヴュー」のまとめ&読後感
    「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅵ インタヴュー」のまとめを行います。この章をもって本書は完結になります。日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチは、その生涯においてさまざまな創作的体験をどのように聞き手に語ったのか、興味深いところも散見されました。ここでは2人のインタヴュアーが登場します。一人はキャサリン・クーで、もう一人はポール・カミングスです。クー氏との対話で気になった箇所は粘土に纏わるノグチの意見があり、私自身が陶土を扱っているため、どうしても気になってしまうのです。「粘土のような媒体ではなんでもできるからだ。で、それは危険だとぼくは思う。あまりにも流動的、あまりにもたやすい。たとえばロダンにはすさまじいほどの表現の自由があったー実際にロダンは表現主義者だったーだが、もっとも彫刻的な彫刻なのだろうか?それは絵画のほうに似ている。ロダンのような自由とは、ぼくにとっては一種の反彫刻だ。石のような素材で仕事をするとき、ぼくはそれが石に見えることを望む。粘土なら、どんなものにも見せられるーそれが危険なのだ。」カミングス氏との対話では「抽象芸術を抽象芸術として制作することへの疑問ーぼくにもコンスタンティン・ブランクーシのせいでヨーロッパでそういう時期があったが、そう長くは続かなかったーそれはアメリカというぼくのバックグラウンドー〔抽象に対して〕多少懐疑的ーとなにか関係があるんじゃないかと思う。それについてピューリタン的な考え方をする傾向とも関係があるだろう。抽象をちょっと道楽だと感じるんだ。~略~ぼくにとってそれを乗りこえる唯一の方法は、アートという理由以外にアートをする理由を見つけること。ひとつの目的をもっていなければならなかった。」とありました。公園や庭の設計に携わったノグチは、人々が集う広場の考え方を彫刻表現として認めていたことがこの台詞から読み取れます。「イサム・ノグチ エッセイ」では、ノグチが空間表現を洞察に満ちた哲学的思索として捉えていることが、私には印象的でした。空間は哲学であると私も感じていて、私がこうした文章を書いているのも自分の思索のために他なりません。本書はあらゆるところに示唆に富む内容があり、創作活動を自分が展開する上で参考になる書籍だったと思っています。
    「Ⅴ 師とのコラボレーターについて」のまとめ
    「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅴ 師とのコラボレーターについて」のまとめを行います。この章では日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチが青年時代に師事したり、または影響を与えられた5人が登場します。コンスタンティン・ブランクーシ、バックミンスター・フラー、マーサ・グレアム、北大路魯山人、ルイス・カーンの5人ですが、頁を一番割いているのは彫刻家ブランクーシです。私もブランクーシの生活ぶりや考え方に興味があり、若かったノグチの師に対する印象が鮮明で、楽しく読むことができました。「すべてが白。その服はいつも白く、その髭はすでに白く、大理石のブロックがおかれたアトリエを白い埃がおおっていた。石膏製の巨大な円卓二台が台座の役を果たし、白いレンジがあって、ブランクーシはそれで有名なステーキを焼いた。それから二匹の白い犬がいて、ブランクーシは水盤に入れたミルクを餌にしていた。アトリエは広く、天井は高くて大きな天窓と窓があった。小さな隣室。ブランクーシはそこで眠る。壁際には《無限柱》のウッド・バージョンがいくつか並び、そばに大きな木製の葡萄搾り器と古い家の梁が数本あった。石膏製の建築学的要素、《キスの円柱》の柱頭とその部分があった。」これがノグチの記した当時のアトリエの情景で、現在はパリのポンピドー・センターに再現されています。次に仕事への姿勢が述べられた箇所がありました。「ブランクーシは全力をつくして、ぼくに退屈でやっかいな仕事の必要性をしつこく繰り返した。怒鳴ったものだ。『集中するんだ。窓の外を見るのはやめなさい!』あるいは『きみがなにをするにしても、それは楽しみや学習のためではない。きみはそれを、きみが将来にわたっておこなうなかで最高のものとしなければならない』」ブランクーシが自らの形態の純粋性を探り、やがて抽象化に至った過程がこんなところに表れているような気がしました。「ブランクーシにとって、イメージは抽象であると同時に抽象ではなかった。孤立して存在する幾何学を信じていなかった。ブランクーシがプレートを溶接して《無限柱》を製造するのに反対した理由は理解できる。それは、そのように扱われるのには十分に抽象であると同時に十分に抽象ではなかったのだ。」ブランクーシの彫刻はあまりにも理想的だったと考えられ、私には羨望しかありません。他の4人は紙面の都合で省略させていただきます。
    汐留の「分離派建築会100年」展
    先日、東京汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「分離派建築会100年」展に行ってきました。「分離派」という題名が気になって、本展ではどんな建築のどんなデザインが見られるのか楽しみでした。分離派の主旨としては西欧に興った分離派と同じで、本展も既成概念に囚われない姿勢がありました。1920年に東京帝国大学(現東大)建築学科を卒業した6人が「分離派建築会」を名乗り、建築による自主展示を企画したことから始まり、そのグループ展は1928年の第7回展まで続いたようです。その後も彼らは大手設計事務所や大学の教壇に立って、実際の建造物を設計したり西洋建築史翻訳等に貢献しています。本展に出品されている模型や写真、図面などは当時のモダニズム建築が示されていて、私は興味を持ちました。図録によると3つに分類された建築について述べられていました。まず「田園的なもの」として次の文章を引用いたします。「鉄やコンクリートなどの新建材が普及し始めていた当時の潮流に逆行して、民家の自然素材が称揚される。藁、茅、柿、土壁、錆壁、敷瓦、太鼓張りの和紙などは、なお『愛せずにはおられない普遍的な材料』としてすくい上げられる。」二番目に「彫刻的なもの」として「震災後の帝都復興創案展覧会に出展された分離派建築会の作品群にはロダンの影響が色濃くあらわれていたが、ヨーロッパの彫刻界ではロダンのリアリズムから抽象化への移行が急速に進んでいた。そうしたロダン以降の新しい彫刻の潮流を、分離派建築会のメンバーたちは素早くとらえていた。」とありました。三番目に「構成的なもの」として「村山知義を中心にマヴォや三科へと広がった構成主義は、前衛的な美術家たちの型破りな創作活動を繰り広げることになったが、その一方で、マルクス主義的弁証法のイデオロギーにしたがって『構成』という概念を再解釈し、建築設計のなかに取り込んでいこうとする地道で真摯な動きもあった。」(引用は全て田路貴浩著)とありました。田園的なものとしては中世、彫刻的なものとしては有機的で生命的な造形、構成的なものとしては伝統建築とモダニズムの結合という振り幅の大きい表現活動があったようで、いずれにしても人間性や芸術性を建築に取り込もうとした姿勢に私は感銘を受けました。作品の中で私は瀧澤真弓による「山の家」の模型を飽くことなく眺めていました。