2021.03.20 Saturday
今日は週末でもありますが、春分の日です。春分の日はそれぞれの仏教宗派で「春季彼岸会」が行われ、墓参りをする人も多いようです。夏にあるお盆は先祖の霊がこの世に戻ってくるのに対し、お彼岸はこの世から浄土へ近づくための期間と言われています。昨年私の母が他界したこともあって、今日は菩提寺である浄性院に墓参りに行ってきました。まだ両親が健在だった頃、私はあまり墓に行くのが好きではなく、墓参りに行かないこともありました。あんなに面倒だった墓参りが不思議なほど身近になったのは両親が亡くなっていることが大きいと思いますが、私の加齢も加担しているように思います。菩提寺を訪れると心が穏やかになるのが、以前の私からすれば信じ難い心境の変化と言えます。死が確実にあることを身近に感じられる今は、その反動としての創作活動が私には存在していて、いつしか彫刻作品に魂を込めたいと感じるようになりました。死を意識するからこそ生命を謳歌することは人間にとって永遠のテーマかもしれません。20代の頃、ウィーンに暮らしていて、そこで観たグスタフ・クリムトの絵画に、死と生命の具体例を見取ったように、未来永劫生きていけない自分が今何をなすべきか、私の頭を過ぎってしまいました。午後になって工房に出かけ、陶彫作品に彫り込み加飾を施していました。土曜日はウィークディの疲れが残り、身体の動きが緩慢でしたが、それでも陶土に触れていると精神的な安定を得られるため、今日は夕方まで陶彫制作をやっていました。明日は複数の人に声をかけていて、作業場にある箱詰めされた作品をロフトに上げる作業を行います。工房の整理がそろそろ気になっていて、4月以降は私がコツコツ整理を行っていく予定ですが、明日は若い人たちに手伝ってもらうつもりです。
2021.03.19 Friday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の本論を読み終えました。本書は本論の後に付論1.2.3がついていて、今回はこの付論1の中の第1節から第5節までを読み解いていこうと思います。本書の結語として「われわれが本書で示そうとしたのは、伝統的な論理学から超越論的な論理学への道程であったー超越論的論理学は第二の論理学ではなく、現象学的な方法の中で成立する根元的で具体的な論理学にすぎない。」とありました。付論1では「統語法の諸形式と統語法の各素材」という題名がついていて「本論でたびたび利用した統語論の各形式と各素材との違いを、さらに詳しく解説し、そしてそれらと本質的に関連する別の各相違によって補足したい。」という意図があることが分かりました。まず簡単なところから複雑なところへ進む定言形式の文章が登場しています。それに関して気に留まった箇所を引用します。「文全体はどのようにして対象との関係を成立させているのか〉という疑問のもとでーわれわれがさらに詳しく観察するのはー何よりもまず〈われわれは文についてはいつも、各文が対象と関係する諸部分を見つけねばならない〉ということである。このことはどの文肢にも該当し、それらが区分されている以上、それらの分肢から最終的な、あるいはそれ自体最初の諸文肢にまで該当する。」また別の文章に「純粋な素材は最後に事象との関係を段階的な形式化によって、各段階の形成物が諸分肢の中でいつでも再び相関的な素材と形式を示すのである。」とありました。低次と高次の諸形式については「各形式は低次と高次の諸形式に区別される。すなわち最低の諸分肢に属する諸形式と、すでに形式化されている諸分肢自身を含めて、いっそう高い段階の具体相にして、いっそう複雑な諸分肢を形成したり、あるいは完全に具体的な統一体に、独立した文にする諸形式とに区別される。」とありました。本論に付随し、またそこから分岐した論考がここには収められていて、付論と言えどもなかなかの重厚な論理展開が成されていると思いました。
2021.03.18 Thursday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」の中で、今回は第107節を読み解いていきます。この第107節をもって本論は終了します。まず外的な感覚的経験の明証性という小節で、気になった箇所を引用いたします。「必要なのは、個々のエゴの生活と超越論的な共同体の生活を終始一貫して統合する世界経験と、それに伴う普遍的様態の志向的究明であり、次いでさらに世界経験の構成的成立についての、その様態を含めた究明である。」次の小節では内的経験の明証性について論考がありました。「最初の《明証》つまり所与の根元的な出現と、例えば持続する間は同一性を保って内在的に把持されていた感覚所与の根元的な持続には、たしかに言わば明白な抹殺不可能性があるーこの持続の間はーしかし持続が連続して同一視されている間に生じる根元的な統一性はまだ《対象》ではなく、まず最初は(この場合は内在的な)時間性の中での存在物として、すなわち過去の主観的な諸様態がどのように変動しようと、同じ事物として明証的に再認識される物事として存在している。」最後に素材的な所与と志向的な諸機能についての考察です。「ごく一般的な例をあげれば、どの対象も構成された事物として、内在的な対象と本質的に関係しているので、各対象性の明証は、それらのために機能している事物自身はその特殊な志向的性格をいつも保持しており、それによって最も重要な各種の相違点が関連しあうが、それは、構成された諸対象が自我にとって可能な能動的な寄与への《刺激》として《情動的》に機能しうるように関連している。」本論の引用は以上になります。本書で私は掲載された文章に頼ってばかりでしたが、読み取りが難しい局面があって、簡単にまとめられない語彙の構築に悩まされました。通常使わない明証性やら志向性、超越論的な事柄、アプリオリという語彙をそのつど調べながら読み進めてきました。本書には本論の後に付論1.2.3がかなりのボリュームでついていて、これを読み取らないと一冊が終了したことにはなりません。次は付論を読んでいこうと思います。
2021.03.17 Wednesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」の中で、今回は第104節から第106節までを読み解いていきます。この小節では現象学との関連が述べられていました。「(自然の見方での)人間としての私は世界の《中で》存在しており、自分をそういう者として、すなわち外部から(空間時間的に外部から)さまざまに規定される者として認めている。(絶対的見方としての)超越論的なエゴとしての私は私自身を外部から規定されていると思っているーただしこの場合は、空間時間的な実在物として外部の実在物に規定されているということではない。では私以外とか、外部によって規定されているとは、どういうことであろう?超越論的な意味で私が明らかに《外部のもの》によって、すなわち、私に固有の特性を超える何ものかによって制約されていられるのは、その外部のものが《他者》という意味をもち、しかも完全にわかる仕方で私の中で、超越論的に他のエゴという存在妥当性を獲得し実証する場合に限られる。」次にデカルトの省察について述べられた箇所を引用いたします。「すでにデカルトの最初の省察(これらの省察が超越論的現象学の成立を根本的に決定した)の中の、外的経験を批評する箇所でただちに明確になるのは、デカルトは外的経験に付きまとうさまざまな錯覚の可能性を強調したが、しかし今度はそれによって間違った仕方で〔対象の〕根元的な自己能与としての経験の根本的な意味を隠蔽している。しかしそうなる理由は〈世界に存在する事物について考える可能性を実際に形成して、その事物が正当な意味を獲得するようにするのは何か〉と問うことに彼が同意しないからに他ならない。彼はそのような存在物をむしろ〈認識の雲の上に漂う絶対的な存在〉として予め保持している。あるいは次のように言ってもよい。デカルトが気づかなかったのは〈感覚的な経験の流れの志向的な開明を、エゴの志向的な関連全体の中で試みること〉であった。」今回はここまでにします。
2021.03.16 Tuesday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」に今日から入ります。本書はこの第7章をもって本論が終わります。今回は第101節から第103節までを読み解いていきます。最初に理性の超越論的現象学としての論理学の主観的基礎づけという単元の中で、論理学的理性についての問いかけがありました。「われわれは果てしない疑問ゲームに陥るのではなかろうか?例えば論理学的理性についての理論はどのようにして可能か?というような次の疑問が否応なくすぐに出て来るのではなかろうか。このことについてのわれわれの最新の研究は〈その理論はその根本的な可能性を超越論的現象学全体の枠組みの中の、この理性の現象学として保持している〉と回答している。」さらに「究極の論理学は理論としての客観的論理学のすべての原理を、それら自身の根源的で合法的な超越論的ー現象学的な意味へ引き戻して、その論理学に真の学問性を付与するだけではない。究極の論理学はこの目標に向かって段階的に努力することなどによって当然、拡充されることになる。」とありました。また超越論的主観性についての普遍学の中での可能性について「超越論的主観性の中では、想定されるすべての学問が実際にも可能性としても本質的に予示されている超越論的な諸形態であり、自由な作動が予め指定されて実現される超越論的主観性についての普遍的な学問は、絶対的な無前提性と先入見のない状態での認識の基礎づけの理想にも、合法的な意味と唯一想定される意味を与えている。」とありました。今回はここまでにしますが、本論は私の教養程度では到底まとめられるものではなく、読んでいくうちに自分なりに気に留まった箇所にラインを引いて、それをピックアップすることでNOTE(ブログ)にしています。NOTE(ブログ)を読んでいる人は前後の意味が掴めないままで、引用した文章が難解になっていることは承知しています。もう少し端的なコトバで書くのがいいのでしょうが、文章を読み解くのが今の私の限界と思っています。